水管理・国土保全

  

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芦田川の歴史

特有の歴史、先人の知恵の活用
芦田川の変遷
 芦田川は、広島県の東南部に位置する備後地方の中心を流れています。また悠久の歴史を有する河川で、周辺住民の生活と深く関わり合いながら今日の河川景観を形成してきました。

 現在の神辺平野一帯は、古くは「穴の海」と称されており、今の府中市あたりまで海水が流入し、流路は数条に分かれ洪水毎に大きく変動して雨季毎に濁流が氾濫していましたが、芦田川の流す土砂はしだいに広い神辺平野を形成しつづけ、弥生時代に入ると多くの人々が住みつき、穴の海は「穴国」として国づくりがなされていたようです。

 江戸時代になり、元和5年(1619)、水野勝成公が入封して蝙蝠山に築城を開始するに至りました。水野公はこのような当時の地形を整えることに心を配り、府中から南側の山寄りに蛇行していた川筋を一直線にして東に付け替え、中津原のところで直角に南下する川に改修しました。この曲り角に砂土手を設け二重堤防とし、洪水の氾濫に備えてこの地点で水を溢れさせ、下流の城下町を救う構造としました。また、水野公は土木工事に有為な人材を得て,干拓や開墾をし,池を掘り,治水工事を施して,田畑の増大を図られました。しかし,沿川では毎年のように川が氾濫し,そのたびに災害が絶えることはなかったようです。江戸時代中期の地誌「備陽六郡誌」によると、寛文13年(1673年)には、国宝「明王院」の門前町として鎌倉時代繁栄を続けていた草戸千軒町(現在の福山市草戸町)が芦田川の川底に水没するなど、想像を絶する大洪水の記録も残されています。



太古の備後沿岸推測図


川底に埋もれた中世の町『草戸千軒』



支川高屋川の歴史
堂々川砂留
 支川高屋川へ合流する延長4kmの堂々川は、表土が流出しやすい状況にあり、度々災害に見舞われてきました。福山藩は、藩の重要施設として、広域にわたって砂防工事を実施しており、堂々川を含めて”砂留”と呼ばれる砂防ダムを28基築造しています。堂々川砂留は、1番から6番までありますが、中でも最上流に位置する6番砂留は、天保6年(1835)施工の記録がある古い砂留であり、この上流部には、堆砂敷きを利用して作られた堂々公園があり、四季を彩る木々や、刈り込まれた低木、延長344mの石組みの水路などが整備され、現代の人々の憩いの場となっています。


堂々川砂留


堂々公園




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