水管理・国土保全

  

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吉井川の歴史

吉井川の歴史
吉井川の概要
 岡山県の東部を貫流している吉井川は、旭川と共に備前国の二大河川で、古来旭川を「西の大川」と称するのに対して、吉井川は「東の大川」と呼ばれていました。

 また、「吉井川」とは、明治以降に統一した名称で、以前は他の河川と同様に通過地の地名で呼ばれ、上流で「奥津川」、津山城下へ出て「津山川」となり南下して「周匝川」、「和気川」、「吉井川」、「雄神川」などと名を改めました。

 吉井川の流域開発は岡山県下三大河川の中では最も早く、約1,700年前に開かれたといわれています。また、出雲地方と近畿地方を結ぶ交通の要路ともなり、高瀬舟の利用と相まって流域は栄えていきました。

吉井川の歴史

「吉井川(河口から上流を望む)」



吉井川の高瀬舟
 高瀬舟は、すでに室町時代には岡山県下の川を運行し、鉄道が通じるまでは重要な交通路の役割を果たしていました。吉井川では津山~西大寺がメインルートでしたが、本川では鏡野町湯指まで登っていました。また、県下で最も大型で、江戸初期の豪商・角倉了以が17世紀初め、この高瀬舟を見本にして、京都の大堰川をはじめとする河川開発を行って、舟運を開いた話で有名です。


湯指船着場



倉安川
 延宝7年(1679)、岡山藩主池田光政の家臣津田永忠により、沖新田開発、倉田新田の用水確保、舟運の連絡ルート確保のため倉安川が掘削され、吉井川からの取水口には石垣(開閉部は木造)の水門が設置されました。この水門は、吉井川の堤防に築かれた「一の水門」と倉安川側の「二の水門」の二重構造となっており、当時では最先端技術であった「閘門式」の構造となっています。

 現在は、流域開発や河川整備が進んできたことにより、その役割を終え、当時の人々の暮らしを物語る施設として残されています。なお、昭和34年には岡山県の史跡に指定されています。


「倉安川吉井水門」


石の懸樋(かけひ)
 農業用水に恵まれない吉井川右岸を水田にするため、岡山藩主池田忠雄が命じ、田原用水が造られました。寛永元年(1624年)に釣井の末分岐まで水路を造り、その後、寛文9年(1669年)に第2次延長工事に着手し、津田永忠が指揮して元禄10年(1697年)に完成しました。当時の土木技術の水準では難しい課題もありましたが、見事に克服しており、その一つが石の懸樋です。この石の懸樋は、田原用水が徳富を流れる小野田川をわたるためにかけられた水樋で、川と用水が立体交差している独創的な施設です。現在は移設されていますが、岡山県の重要文化財に指定されています。


「石の懸樋」(移設されている状況)




吉井川水系における治水事業
江戸時代頃までの新田開発と治水事業
 奈良時代頃までは、吉井川下流部の長船付近から河口までの河道は分派し、本川は現在の流路より東側に位置していました。

 その後、江戸時代までには、東側に位置する河道は埋め立てられ、干拓による新田開発が行われたといわれています。

 江戸時代初期に実施された有名な新田開発の一つとして、貞享元年(1684年)に岡山藩により実施された、幸島新田(現岡山市)の開発が挙げられます。この新田開発では、大水尾(遊水地)と樋門とを結合し、潮の干満に合せて排水を調節する新技術によって、開発に伴う排水処理の問題を解決しており、熊沢蕃山・津田永忠等による歴史的治水といわれています。


吉井川の流路変遷(左:奈良時代、右:江戸時代後期)


幸島新田における排水処置技術

近代~現代の河川改修事業
 上述のように、吉井川では藩政時代に部分改修された痕跡がみられますが、その後は長い間、改修が放置されていました。流域住民はその間、洪水による多大な被害を数年~数十年ごとに受け、絶えず生活が脅かされてきた歴史があります。

 ほぼ未改修のまま原始河道として放任されていた当時の吉井川の現状を打破すべく、内務省土木局は昭和7年度の予算で吉井川改修の基礎調査の実施計画を立案し、昭和10年3月に調査を終了しました。しかし、改修事業を予算化する矢先、当時の日本は盧溝橋事件を発端に日中戦争に突入したため、国家財政が新規事業の予算化を許すところとならず、事業着手には至りませんでした。

 その後、昭和20年9月(枕崎台風)の大洪水による被災等を契機に、昭和21年度より直轄事業として基準地点岩戸の計画高水流量を5,000m3/sと決め、岡山県和気郡和気町(旧石生村)より岡山市西大寺九蟠(旧九蟠村)に至る32.8kmの改修工事を実施しました。さらに、昭和38年7月出水・昭和40年7月出水などの相次ぐ大出水を受けて、昭和41年4月に吉井川水系が一級河川に指定され、工事実施基本計画が策定されました。その後、昭和47年の大出水及び流域の著しい開発を考慮して、昭和48年に工事実施基本計画が改定(昭和63年部分改定)され、平成21年3月には計画高水流量、河川工事及び河川の維持についての基本となるべき方針に関する事項を定めた河川整備基本方針が策定されました。


堤防整備例①(西大寺地区)


堤防整備例②(金剛川)




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