広島城下町は低平な三角州及び干拓地に建設されているため、数々の洪水に見舞われ、太田川の治水は歴代の為政者に宿命づけられた課題でした。その洪水対策としては、川筋の固定や城側の堤防を高くし、対岸を低くする、いわゆる「水越の策」や、「川ざらえ」等のハード的な治水事業の他、上流からの土砂による埋没が懸念されるため、寛永5年(1628)には、鉄穴流(かんななが)しを禁止、寛永9年(1632)には堤防取締令を出して、堤防の保護を命じています。その内容は、「川を除き、枠木、杭木、抜き取り申しまじき候、くり石取りまじき候・・・。土手に無造作に杭を打ち、舟並びに牛馬を繋ぎし申しまじき候・・・。土手の外側1間、内側3尺の間は(建物)作りまじき候・・・」などといったものでした。また、その設置年代は明らかではありませんが、洪水高を示す量水標(水尺)も設けられていたようで、この量水標をもとに、寛政9年(1797)5月、藩は「防水につき藩令」を出し、勘定奉行及び藩士に対し、出水時に水防に出勤すべき水位を定め、平時より堤防の保護を図り、ならびに急変に応じるため、堤防付近の家宅間には必ず通路を設けておくこと。」などといった内容でした。しかしながら太田川の洪水は繰り返し発生し、抜本的な改修工事の必要性が叫ばれ、近代広島(ひろしま)における太田川治水の要である放水路事業に昭和7年より着手しました。太田川市内7川の(山手川(やまてがわ)、福島川(ふくしまがわ)、天満川、旧太田川、元安川、京橋川、猿猴川)内、山手川、福島川を統合する形で放水路が整備され、昭和42年に完成しました。
中国地方の中心都市として発展している広島は、干拓と治水という水辺との関わりの中で築かれ、広島の歴史は、そのまま太田川の歴史につながっています。