水管理・国土保全

  

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日野川の歴史

日野川の歴史
たたら製鉄による鉄穴流し
 日野川の上流は古来より鉄の産地として知られ、17 世紀前半頃より「鉄穴流し(かんなながし)」※による「鈩(たたら)製鉄」が盛んに行われるようになりました。このことが米子平野や弓ヶ浜半島の形成にも大きく寄与していると考えられています。

※ 「鉄穴流し」は、風化した花崗岩を掘り崩して水路に流し込み、比重の差を利用して砂を採集する方法で、必要な砂鉄を得るためには莫大な土砂を掘り崩す必要がありました。



掘削された山肌


鉄穴流し


用水の確保による農地の開発
 弓ヶ浜半島ではかつてかんがい用水がないため米作はできず、またわずかな畑作もしばしば干ばつに悩まされていました。この窮状を救うため、郡奉行米村所平広次は用水路開削の計画を立て、元禄13年に第1期工事を開始し、日野川と法勝寺川の合流点から水を引き、元禄14年には両三柳村までが完成しました。その成功により村々から延長の要望が起こり、享保12年には大崎村まで、さらに宝暦9年には半島先端の境村までが開通しました。
約60年にわたって開削された約20kmの米川により、弓ヶ浜半島の各村には多くの水田が開発されるとともに、綿作も盛んになり特産品になっていきました。


米川用水



皆生海岸の侵食
 弓ヶ浜を形成する土砂は、崩壊を続ける大山火山体や日野川上流から大量に供給されました。特に、「鉄穴流し」による廃砂が大きく関わっていると考えられています。
皆生海岸の汀線は、歴史時代を通じて前進を続け、特に江戸時代になって日野川上流域で「鉄穴流し」による「たたら製鉄」が盛んになると、大量の砂が流され河口付近での成長は一層大きくなりました。

 しかし、大正時代の後期、上流のたたら製鉄は終わりを迎え、これを契機とするように皆生温泉付近から海岸線の後退が始まりました。その後、秋季から冬季の波浪によって海岸侵食は激しくなり、現在の護岸が出来るまでに最大で約300mの砂浜が後退したと言われています。

 こうした侵食を防ぐため鳥取県により護岸や突堤が整備され、昭和35年4月には、新川海岸(新潟県)、有明海岸(佐賀県)とともに全国で最初に直轄海岸工事区域として指定をされました。


皆生温泉付近の海岸線後退(昭和30年)





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