水管理・国土保全

  

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仁淀川の歴史


仁淀川には、昔年より洪水と戦ってきた先人の治水工法が今日にも伝えられています。その中で野中兼山が深く仁淀川に係わってきました。野中兼山といえば、まず最初に思い出すのは、大きな川に堰を造り、そこから井筋(用水路)を引き、多くの新田を開発したことです。治水の中では二重堤防等の河川工法があります。

仁淀川の名前の由来にはいくつもの説があり、この川のアユを朝廷の贄殿にえどのに献上したので贄殿川と呼ばれ仁淀川となった説や、この川が淀川に似ているので似淀川となり仁淀川となった説。また、古代仁淀川は、大神に捧げる酒をこの川で醸造したことから、「神河」と書いて“三輪川”と呼ばれ、いつしか仁淀川となったといわれています。

仁淀川の土木事業に大きな業績を残した人物に、土佐藩の執政であった野中兼山が挙げられます。兼山の残した土木遺構は、八田堰や鎌田堰、弘岡井筋等の灌漑施設、八田の二重堤防や宮崎の水越等の治水施設が代表的なもので、これらは先人が今日にも伝える仁淀川の貴重な治水財産となっています。





野中兼山象




河口から9km付近に現存する八田堰は、兼山が指揮し慶安元年(1648)から承応元年(1652)まで5年を要して築いたものです。現在はコンクリートにより近代的に改修されていますが、元々の兼山遺構の八田堰は湾曲斜め堰で、施工にあたっては流水との調和を図るため川に綱を張り、流水による綱のたわみぐあいを調べて堰の方向や形状を決めたといわれています。また、左岸に弘岡井筋を作り、吾南平野約900haの灌漑用水路としてだけでなく、高知城下へ通じる物資の運送路としても利用していました。



八田堰




宮崎の水越は、波介川合流点付近の堤内低地を遊水池とするため、仁淀川本堤の一部を切り欠いて石の三面張りの水越(越流堤)を設け、支流の合流点を下流側に固定することで合流点の水位差を大きくし、支川上流低地の滞水被害を減少させる優れた発想でつくられていました。現在は堤防の改修が進み、昔の面影は残っていません。


宮崎の水越



八田の二重堤防は、兼山が水害防止上の通例をこえて平地に高く築いた二重堤防であり、当時他所では見ることのないもので、仁淀川氾濫の非常時に備え、また開墾地保護の一策として築かれたものです。



八田の二重堤防



直轄管理区間の上流端付近(河口から約14km)に残る江尻羽根は、支川の内水氾濫防御のために設けられた羽根(現在の背割堤)ですが、洪水により幾度となく流失し、修築が繰り返されてきました。


江尻羽根



波介川沿川の平野は本川の洪水位より地盤が低く、本川から離れるほど低くなる地形となっており、本川の背水による影響を受けて洪水が流出しにくく、古くから頻発する浸水被害に悩まされてきました。昭和50年8月洪水では、平地部のほとんどが水没する大水害が発生しました。

昭和50年8月洪水被害を契機に、河川激甚災害対策特別緊急事業に着手し、仁淀川本川の氾濫防止を目的に波介川水門を設置(昭和55年完成)しました。

一方、波介川沿川は、低奥型地形に伴う潜在的な内水氾濫の危険性を有していることから、波介川と仁淀川の合流点を河口まで導流することにより、仁淀川本川の洪水位の影響を除き、波介川の洪水を安全に流下させることを目的として、昭和60年度より波介川河口導流事業に着手しました。

その後、平成16年、17年の2年連続の大規模な浸水被害を受けたことを契機に、早期に再度災害防止を図るため、平成19年度より波介川床上浸水対策特別緊急事業に着手し、平成24年3月に事業を完了しました。


波介川河口導流路





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