水管理・国土保全

  

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四万十川・後川・中筋川の歴史

四万十川の成り立ち

四万十川下流部の河道は、中村平野で幾度となく分流、合流を繰り返す暴れ川でした。佐田東山麓の池本、寺の池を通って入田の元池から具同西山麓を流れ、坂本の具重において中筋川と合流していたことがあり、これを前川時代と呼んでいます。当時の面影を物語るものとして入田に残る元池等がある。また、具同の古池を通って中筋川ゴゼ礁において中筋川に合流していた時代もあり、これを古川時代と呼んでいます。その後寛弘6年(1009年)の洪水の時ともいわれていますが、佐田付近の流れは漸次西に移り、その反動により水流は左折し、入田の佐田ノ原から東流して中村側の山麓を経て不破に流れるようになり、概ね現在の河川形となりました。
江戸時代前期の17世紀には、当時の土佐藩家老野中兼山(1615年~1663年)が治水や港湾改修、殖産興業に乗り出しました。兼山は、中筋川の排水改良、後川の麻生堰、岩田川のカイロク堰の建設による用水改良、四万十川河口の下田港の開削を図るなど、地域の基盤整備の指揮を執りました。






具同築堤工事・岩崎築堤工事(昭和7年~9年)
四万十川:河口から9.6km付近
昭和4年に直轄事業に着手し、昭和7年には四万十川右岸の具同築堤工事に着手して順次下流へ向けて築堤工事を継続し、昭和9年には岩崎堤防の拡築工事を完了しました。






後川右岸の河道付替工事(昭和10年~15年)
後川:四万十川合流点から2.5km付近
昭和4年渡川改修計画に基づき、洪水の疎通を良くすることで旧中村町を洪水被害から守るため、後川の屈曲部である後川右岸2.2~3k付近に新川を開削し、河道の付替を実施しました。






中筋川背割堤工事(昭和12年~41年)
中筋川:四万十川合流点から4.0km付近
昭和10年8月洪水を契機に、それまでの既往計画を見直し、四万十川への合流点を更に下流に延長、甲ヶ峰(こうがみね)開削、山路背割堤防工事等を実施しました。







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