水管理・国土保全

  

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大分川の歴史

都市の発達
大分川では、大分平野の河口部、沿川周辺には数多くの遺跡が出土しており、古くから流域の人々に多大な恩恵をもたらしてきたことを示しています。8世紀頃の大分川では、国府その他の官衙(役所)、寺院、駅が置かれ、古代豊後(ぶんご)の政治・文化の中心でした。また、16世紀には、大友宗麟(おおともそうりん)が大分川左岸の豊後府内(ふない)に館を構え、キリシタン大名として南蛮文化の色濃い国際都市を形成しました。大分川河口部では、中世の国際都市であった歴史・文化・交流を現在に引き継いだまちづくりが行われています。


大友氏の館跡
出典:大友府内城下町関連遺跡説明パンフレット(大分県教育庁文化課)




河川の変遷
明磧(あけがわら)橋付近より下流の流路は、その昔平安時代には七瀬川合流点付近より右に寄り、滝尾曲~碇山の間を流れ津守(つもり)を貫いて下郡(しもごおり)付近に流れ込んでいましたが、鎌倉時代になると明磧橋付近(奥田)より左よりに流路を変え、奥田~古国府(ふるごう)を貫けて元町付近に流れ込んでいたといわれています。元町付近より下流部の流路は、鎌倉時代~室町時代~江戸時代にかけて、元町~長浜~住吉川に至る流路が大川であったらしく、さらにその後、元町からまっすぐ海へ流れこむ現在の流路を形成したようです。


南大分の今昔



利水の整備
大分川の水利用は、古くから農業用水として利用されています。
 大規模な用水開発としては、由布市庄内町の篠原ダムを水源とし、大分川左岸の鬼瀬(おにがせ)、平横瀬(ひらよこせ)、国分、中苑(なかぞの)、古国府(ふるごう)と続き、途中三ヶ田(みけた)町から北流して大分市生石(いくし)地区までをかんがいしている延長約23.4㎞の初瀬(はつせ)井路があります。これは、天正年間(1583年)に、大友義統(よしむね)が大分川の支流である賀来川を水源として井路をひらき国井手(くにいで)と名付けたのに始まり、その後、元禄7年(1694年)に用水不足のため府内藩は、大分川筋の由布市挾間町向原(むかいのはる)を水源として開発した井路等を総称して初瀬井路と呼ばれています。初瀬井路は、府内藩領と臼杵(うすき)藩領にまたがる長大な井路です。
 また、初瀬井路の他にも、七瀬川流域には野津原(のつはる)三渠(大龍(おおたつ)井路、鑰小野(かぎおの)井路、提子(ひさご)井路)、賀来川の上流には朴木(ほうのき)井路など、巨岩を掘り抜いて難所を開削した井路が残っています。
大分川では、現在、流域外も含めて農業用水として約8,500haの農地でかんがいに利用され、水道用水としては大分市や由布市挾間町等で、工業用水としては大分市内で利用されています。また、水力発電として芹川発電所をはじめとする14ヵ所の発電所による最大出力約52,530kWの電力供給が行われています。



初瀬井路


大分水系における主な井路の位置図





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