水管理・国土保全

  

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大野川の歴史

歴史と文化

江戸時代、大野川の舟運は、上流部に大部分の領地を持つ岡(おか)藩と、中流部の三重(みえ)、野津市(のついち)などの穀倉地帯を領有する臼杵(うすき)藩によって開かれました。大野川の最大の特徴は、河口に位置する鶴崎(つるさき)、三佐(みさ)、家島(いえじま)、乙津(おとづ)などが各藩と瀬戸内海とを結ぶ海の玄関口として近世を通じ枢要な役割を担った点です。鶴崎は熊本(くまもと)藩領であり、熊本藩主細川氏が参勤交代で江戸に向かう時、熊本から阿蘇(あそ)・久住(くじゅう)・野津原(のつはる)を通り鶴崎(つるさき)へ出て、ここから御座船に乗って大阪まで行き、再び陸路で東海道を東上しました。

元和9年(1623年)に大野川河口の三佐(大分市)を領有することになった岡藩は、三佐を瀬戸内海への基地とし、さらに竹田、三佐間の中間基地として犬飼(いぬかい)港を寛文2年(1662年)に完成させ、人員や物質輸送のために大野川を利用するようになりました。

一方、犬飼の対岸吐合(はきあい)港、細長(ほそなが)港などには、臼杵藩の舟番所が設けられ、犬飼、吐合の両番所を経由して上流の産物が下流へ、下流の産物が上流へと運ばれるなど、当時の舟運は物資の輸送に大きな役割を果たしていました。その後、大正6 年の鉄道の開通を境に大野川に白帆をかかげて上下流を往来していた帆船は姿を消していきました。


三角州に栄えた鶴崎地区


犬飼港跡(犬飼町)



先人の知恵
洪水と共生するたくましさを今もとどめる高田(たかた)輪中
大野川は、古くから流域の人々に、多大な恩恵をもたらしてきた反面、流域の気象・地形特性により、数多くの水害が発生しました。

特に大野川本川と派川乙津(おとづ)川に囲まれた高田(たかた)地区は洪水の常襲地帯であったことから、輪中が築かれました。また、高田輪中の住民は、屋敷を石垣で高くし、家の周囲を“クネ”と称する防水林でとり囲み、洪水の流勢をやわらげ、家屋の流失を防いでいました。洪水が去ると、大野川が上流から運んできた肥えた土が堆積し、豊かな土壌で農業を営むことができました。このように高田輪中は洪水を受け入れ、川と共存する文化が形成されていました。現在は、大野川流量の一部を乙津川へ分派する分流堰が乙津川の上流端に設けられ、高田輪中は連続した高い堤防で囲まれ、水害の恐れが少なくなったことと、輪中内の市街化による人口増加や宅地開発により、昔からの輪中文化は薄れつつあります。


高田(たかた)輪中の人家と石垣


輪中地帯特有の家のつくり


洪水をあふれさせることで水害の軽減を図った溢流堤(いつりゅうてい)
溢流堤(いつりゅうてい)を設けることにより、大野川の洪水をあふれさせ一時貯留する空池が築かれ、その周辺には竹林が植えられました。この堤は江戸時代、肥後(ひご)領の初代領主であった加藤清正によって造られたと伝えられています。堤防の一部を低くすることにより本川の決壊を防ぐと同時に空池で流勢が弱まり、あふれた水はさらに竹林で減勢されるため、田畑や家屋が浸水しても致命的な被害を防ぐことができたといわれています。 洪水の被害を少なくしようとした先人の工夫が生み出した治水施設でしたが、昭和10年代の治水工事によって姿を消しました。 昭和18年、20年と立て続けに起こった大洪水をきっかけに、洪水を乙津川へ分派する 新たな分流堰が昭和37年に完成しました。


溢流堤(いつりゅうてい)のしくみ

















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