江戸時代、大野川の舟運は、上流部に大部分の領地を持つ岡(おか)藩と、中流部の三重(みえ)、野津市(のついち)などの穀倉地帯を領有する臼杵(うすき)藩によって開かれました。大野川の最大の特徴は、河口に位置する鶴崎(つるさき)、三佐(みさ)、家島(いえじま)、乙津(おとづ)などが各藩と瀬戸内海とを結ぶ海の玄関口として近世を通じ枢要な役割を担った点です。鶴崎は熊本(くまもと)藩領であり、熊本藩主細川氏が参勤交代で江戸に向かう時、熊本から阿蘇(あそ)・久住(くじゅう)・野津原(のつはる)を通り鶴崎(つるさき)へ出て、ここから御座船に乗って大阪まで行き、再び陸路で東海道を東上しました。
元和9年(1623年)に大野川河口の三佐(大分市)を領有することになった岡藩は、三佐を瀬戸内海への基地とし、さらに竹田、三佐間の中間基地として犬飼(いぬかい)港を寛文2年(1662年)に完成させ、人員や物質輸送のために大野川を利用するようになりました。
一方、犬飼の対岸吐合(はきあい)港、細長(ほそなが)港などには、臼杵藩の舟番所が設けられ、犬飼、吐合の両番所を経由して上流の産物が下流へ、下流の産物が上流へと運ばれるなど、当時の舟運は物資の輸送に大きな役割を果たしていました。その後、大正6 年の鉄道の開通を境に大野川に白帆をかかげて上下流を往来していた帆船は姿を消していきました。