享保9年(1724年)延岡城下の出北村は水の便がなく畑地ばかりで農民は極めて貧困でした。当時の家老藤江監物は三輪村の岩熊に堰を設け、そこから出北村へ水を引くことを計画し、郡奉行江尻喜多右衛門を抜擢してこの事業に当たらせることにしました。水量の多い五ヶ瀬川を横断する堰を作り、そこから水路を12km引き、その途中に6ヵ所370mの隧道(トンネル)を掘らなければならないという、もとから難しい工事でしたが、さらに洪水により造り終えた施設が破壊されるなど工事が難航し、多大な費用がかかったため、藤江監物は中傷により失脚、獄死しました。しかし江尻喜多右衛門と出北村の農民は苦しいなか工事を続け、享保19年(1734年)に岩熊井堰とその水路が完成しました。それ以降、改築されながらも使用されています。