水管理・国土保全

  

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五ヶ瀬川の歴史

五ヶ瀬川の歴史

 五ヶ瀬川には、歴史的治水施設の二線堤や全国で3例しかない「畳堤」が残っています。「畳堤」とは、大正から昭和初期にかけて造られたもので全国でも珍しい治水施設であり、住民自らが防災活動を行ってきた証ともいえる施設であり、現在では、地域の防災意識向上のシンボルとなっています。畳堤と併せて過去から度重なる水害被害の防止を願った水神様が各所に奉られ毎年5月には「水と緑を守る祭典」で水神まつりが行われるなど現在でも地域に根付いた施設として大切にされています。



水神様(左側)と畳堤(右側)


水神様マップ



五ヶ瀬川の歴史と先人の知恵の活用
200年以上使用されている水利施設
享保9年(1724年)延岡城下の出北村は水の便がなく畑地ばかりで農民は極めて貧困でした。当時の家老藤江監物は三輪村の岩熊に堰を設け、そこから出北村へ水を引くことを計画し、郡奉行江尻喜多右衛門を抜擢してこの事業に当たらせることにしました。水量の多い五ヶ瀬川を横断する堰を作り、そこから水路を12km引き、その途中に6ヵ所370mの隧道(トンネル)を掘らなければならないという、もとから難しい工事でしたが、さらに洪水により造り終えた施設が破壊されるなど工事が難航し、多大な費用がかかったため、藤江監物は中傷により失脚、獄死しました。しかし江尻喜多右衛門と出北村の農民は苦しいなか工事を続け、享保19年(1734年)に岩熊井堰とその水路が完成しました。それ以降、改築されながらも使用されています。


岩熊井堰(五ヶ瀬川11k000付近)




五ヶ瀬川の歴史と先人の知恵の活用
住民の協力で町を守った畳堤
五ヶ瀬川の下流の延岡市内には全国でも珍しい「畳堤」という特殊堤が980m残っています。「畳堤」とは大正から昭和の初期にかけて造られたもので、高さ60cmの橋の高欄に似たコンクリート製の枠で上から見ると幅7cmの隙間があり、洪水時はこの隙間に畳をはめ込み、堤防を越えようとする水を防いでいました。枠のサイズはこの地方の民家の畳がちょうど入るサイズで、隙間の幅7cmは畳が水を含み膨れたときの厚さに対応しています。畳は周辺の民家から住民が自ら持ち寄りはめ込みました。どのような理由でこの珍しい堤防が造られたかは詳細は分かっていませんが、川とともに生きた先人の治水対策の知恵で、住民が協力してまちを守ったシンボルともいえます。


畳堤の差し込み作業


畳堤の構造図





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