水管理・国土保全

  

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大淀川の歴史

大淀川のなりたち

大淀川が、いまのような流れを決めるポイントの1つになったのは「シラス」という地質にあると言われています。火山灰が降り積もってできたシラスの大地は、岩などに比べ、もろくて、くずれやすいことが大きな特徴です。このやわらかな土の上を水が流れると、シラス台地は少しずつ削り取られ、やがて大地に深く大きな「みぞ」を刻みます。そして、そのみぞを流れる水の道が川の流れになります。
約2万5千年前、鹿児島の姶良火山の大噴火から噴き出した火砕流が、そのころ巨大な湖だった都城盆地湖に流れ込み、あふれ出した水が大淀川の原形をつくったと言われています。


長田峡(三股町)


関之尾滝(都城市)



大淀川流域の主な古墳

3世紀末~6世紀中頃にかけて、地域の有力者達は競って「古墳」を築きました。日向地方でも多数つくられ、その数、規模は全国有数です。中には、宮崎市の生目古墳群にある前方後円墳のように、大きさが九州で最大級のものもあります。
古墳からは、鏡、耳飾りなどの副葬品や、人や動物、家や舟などをかたどった埴輪などがよく出土されます。


生目古墳群(宮崎市)


大淀川流域の主な古墳と古墳の形



大淀川の船運と観音瀬

大淀川は、その源を鹿児島県末吉町の中岳に発し、横市川・沖水川・庄内川・高崎川等を合わせつつ、都城盆地を貫流して、中流部の狭窄部に入り、岩瀬川等を合わせ、宮崎平野へ出てさらに本庄川を合わせ、宮崎市において日向灘に注いでいます。
 流域内の産業は、気候に恵まれていたことから、その歴史は古く、中でも宮崎平野は大陸文化の流入を受けながら日向の穀倉地帯として発展し、弥生・古墳文化を築いてきました。現在でも関東、関西向けの施設園芸、牛・豚等の畜産、木工等の農林業による一次産業が主体となっています。
 陸上交通の発達していなかった時代、大淀川は流域で生産された木炭、櫓木、樟脳、和紙などを、舟を使って河口まで運び、河口部に位置する赤江港から千石船(せんごくぶね)と呼ばれる大きな船に積み替え、江戸や大坂へ運ぶための重要な輸送路となっていました。
 都城盆地を流れ出る所は観音瀬とよばれ、その昔、高さ10mほどの滝で「白浪厳(はくろういわお)に激して水煙霧(すいえんきり)を吹き、その声とうとうとして百雷の鳴るが如し」と表現されていました。響きわたるその音から人々はそのあたりを”轟”と呼び、それが地名となったほどです。
 1791(寛政3)年、都城領主であった島津久倫(しまづひさとも)は、観音瀬開削を藤崎公寛に命じました。川の水量の少なくなる冬季、激流のなかでの難工事でしたが、3年後の1795(寛政6)年、幅一間(1.82m)の舟路が完成し(寛政の開削)、都城から大淀川河口まで舟の通行が可能となったのです。


観音瀬位置図


下流側から見た観音瀬:
(手前)寛政の開削(奥)明治の開削



日向の海運業発展に力をつくした商人・後藤五市

後藤五市(1806年~1881年)の生まれた都城市高城町は、大淀川河口から50kmはなれた所です。
当時、物を運ぶには、道路か川を使うしかなく、また陸の道となっていた薩摩街道は、途中に山あり谷ありで、大きな荷物やたくさんの商品を一度に運ぶことはできませんでした。
そこで、主に材木や米、木炭などを商品として扱っていた五市は、重い材木でも浮かべて流すだけで簡単に運ぶことができる「水の道」大淀川を積極的に利用しました。やがて幕末当時強大であった薩摩藩の御用船をまかされ、日向と大阪、江戸を行き来する大商人となったのです。
こうして取り引きが盛んに行われるにつれて、薩摩や日向の特産品が注目されるようになると、しだいに大淀川を行きかう舟は多くなり、江戸時代の終わりころには、帆かけ舟だけでも100艘をこえるようになり、大淀川は宮崎で最も舟運の盛んな川になっていきました。


『船方諸用控帳』
後藤五市が書き残した古文書


江戸や大坂まで運ばれた主な特産品の産地



橘橋“生みの親”福島邦成

医者になるため、早くから江戸や大坂で勉強し、西洋の進んだ文明を学んだ福島邦成は、人々の暮らしを便利にする橋が、大淀川にも是非必要だ、という強い信念のもと、お役所の力を借りず、自分の財産を投げうって橋づくりを始めました。
そして今からおよそ120年前の明治13年(1880年)、わずか44日で、長さ382m、幅3.9mのりっぱな木の橋を完成させました。子どものころからの夢をかなえた邦成は、この橋を「橘橋」と名づけました。
その後、邦成は明治17年(1884年)に橘橋を宮崎県に寄付しました。


橘橋 初代(明治13年<1880年>完成)


橘橋 4代目(明治21年<1888年>完成)



昭和7年(1932年)、64kmにおよぶ上水道が宮崎市に完成

昭和の初めまで、宮崎には、水道がありませんでした。ほとんどの家が井戸水や山からのわき水を利用していて、料理、洗濯、お風呂にと、いつでも気軽に使うことはできませんでした。必要な水は、バケツで汲んで家まで運ばなければならず、とても大変でした。また、自然の水をそのまま使っていたので、水が汚れたりするとコレラなどの病気の原因にもなることも考えられました。
そこで、いつでもきれいな水を好きなだけ利用できるようにと、昭和7年(1932年)、宮崎市に20年かけてやっと上水道が完成しました。


大淀川の川底に水を集めるための管を埋める工事(昭和5年)


川の水をきれいにするろ過池の地下に集水管を埋める工事




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