大淀川は、その源を鹿児島県末吉町の中岳に発し、横市川・沖水川・庄内川・高崎川等を合わせつつ、都城盆地を貫流して、中流部の狭窄部に入り、岩瀬川等を合わせ、宮崎平野へ出てさらに本庄川を合わせ、宮崎市において日向灘に注いでいます。
流域内の産業は、気候に恵まれていたことから、その歴史は古く、中でも宮崎平野は大陸文化の流入を受けながら日向の穀倉地帯として発展し、弥生・古墳文化を築いてきました。現在でも関東、関西向けの施設園芸、牛・豚等の畜産、木工等の農林業による一次産業が主体となっています。
陸上交通の発達していなかった時代、大淀川は流域で生産された木炭、櫓木、樟脳、和紙などを、舟を使って河口まで運び、河口部に位置する赤江港から千石船(せんごくぶね)と呼ばれる大きな船に積み替え、江戸や大坂へ運ぶための重要な輸送路となっていました。
都城盆地を流れ出る所は観音瀬とよばれ、その昔、高さ10mほどの滝で「白浪厳(はくろういわお)に激して水煙霧(すいえんきり)を吹き、その声とうとうとして百雷の鳴るが如し」と表現されていました。響きわたるその音から人々はそのあたりを”轟”と呼び、それが地名となったほどです。
1791(寛政3)年、都城領主であった島津久倫(しまづひさとも)は、観音瀬開削を藤崎公寛に命じました。川の水量の少なくなる冬季、激流のなかでの難工事でしたが、3年後の1795(寛政6)年、幅一間(1.82m)の舟路が完成し(寛政の開削)、都城から大淀川河口まで舟の通行が可能となったのです。