水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


球磨川の歴史

球磨川の治水黎明期
利水と一体となった治水のはじまり
球磨川の歴史は、治水と利水をめぐって展開してきました。水田稲作農業を主軸とするところでは、農業用水の開発を中心とする利水が先行し、昔の治水事業の顕著なものは、およそ利水事業と相伴ったものが多くなっています。球磨川流域の沿岸で開田や利水事業が積極的に実施されるようになったのは、人吉に相良氏が入った西暦1200年頃からで極めて古く、このとき開いた土地や領主の城館を洪水から防護するため、局部的に築堤、護岸、水制等が施工されました。そのため、記録をたどってみると、鎌倉時代に人吉城が築造されていますが、これが球磨川治水事業の最古のもののようです。
 下流の八代地方で開田、干拓、利水事業などが実施されるようになったのは、加藤清正の統治下に入ってからの1600年代に入ってからであり、巧妙な水はね水制を備えた強固な萩原堤防、治水と利水を兼ねた旧前川堰、農業用取水堰の遙拝堰が建造されました。


天保7年(1836年八代城主松井督之の時代)に描かれた球磨川絵図
出典)球磨川絵図(熊本県立図書館)を複製




近代の治水
洪水とともに発展した治水
体系的な治水計画のもとに改修工事に着手したのは、昭和2年8月洪水を受け、翌年に旧河川法の適用を受け、昭和12年に河口からの延長9kmの区間が直轄改修区域に指定されてからのことです。これ以降、洪水による被害の発生とともに、上流側の区間も段階的に直轄改修区域に編入され、その度に治水計画が見直されてきました。
 昭和21年には、人吉市から上流に向かって水上村に至るまでの区間が直轄改修区域に編入され、昭和29年8月と9月に相次いで台風が襲来し、上流部では既往最高水位を上回る事態が生じたこともあり、上下流一貫した計画の再検討を行い、球磨川の改修計画が決定されました。
 昭和40年に新河川法が施行され、工事実施基本計画をもとに水系一貫した総合的な河川管理ができるようになるとともに、昭和40年7月に発生した戦後最大となる水害を契機に、球磨川の改修計画は昭和41年に抜本的に改訂され、新たに川辺川筋に計画された川辺川ダムによる洪水調節を基本とした改修計画が確立されました。昭和48年には、山間狭窄部にあたる中流部も直轄改修区域に編入されています。
 平成19年には、現行の河川法に基づき、球磨川水系河川整備基本方針を策定しています。




幸野溝・百太郎溝水路群
世界灌漑(かんがい)施設遺産への登録
治水と利水が一体となった球磨川の歴史の中で、上流の人吉・球磨盆地の水田に必要な農業用水を供給するために建造された幸野溝と百太郎溝が構成する水路群が、平成28年11月に「世界灌漑施設遺産」として登録されました。
 それぞれ1705年、1710年に完成しましたが、その完成までには大洪水による施設流出があるなど多くの苦難がありました。この施設は、今もなお地域の農業を支える重要な施設となっています。




「球磨川」の名の由来

この球磨川、明治の初期には、求麻、求磨、球磨とそれぞれ勝手な文字が使われていたといいますが、その名称の由来については、実はあまり明確な記録が残っていません。
 手がかりとして、1772年に著された「肥後日誌」の記述を引用します。
“この川水は九萬他により落ち入る。故に九萬川と称すとも云う。”
“木綿葉川或いは結入川、また夕葉川とも書す。球磨川とも称す…水上球磨郡より流れ来る故に球磨川とも云う。”
球磨川は人々の生活の背景にあり、色々な観点で見つめられてきた、そのような地域との密接な関係の中で恵みと災いをもたらしてきたのでしょうか。





ページの先頭に戻る