白川の治水は16世紀の加藤清正公の時代にさかのぼります。
清正公は城下町を白川の洪水から守るために、それまで合流・分派する形態となっていた白川と坪井川を別々の川とする治水事業を行いました。
清正公が入国した頃、白川は北へ屈曲して隈本城付近を蛇行していました。蛇行に沿って敵が舟で侵攻してくると危険であると考えた清正公は、現在の白川から坪井川へ蛇行する区間を遮断し、この間を掘りきって直通させ、現在の白川の流れを作りました。そして北の屈曲部に流入していた坪井川を旧白川へ通して南側へ流入させ、さらに井芹川まで新川を掘って井芹川に合流させる大工事を実施しました。これにより白川は城の外堀に、坪井川は内堀となり、2つの川に挟まれた地域に新たに武家屋敷を、坪井川両岸に新商人町を造成しました。
その後、新城・熊本城を築城し、この時期に白川の改修も進めて、熊本城下町も整備されました。特に慶長7年(1602)に白川の大洪水で城下町が被害を受けたことを契機に、城下で合流していた白川と坪井川を遮断して、坪井川は高橋方面に流下させ、それまでの合流点にはいわゆる背割工事である石塘工事を行い、白川の洪水から城下町を守る工事を行いました。石塘工事は非常に難工事でしたが、その後、城下町は洪水の氾濫から免れ、坪井川の利水や井芹川を利用した城下町と高橋・有明海を結ぶ運航路もできて、経済活動が活発になりました。