水管理・国土保全

  

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筑後川の歴史

筑後川の治水の歴史
藩政時代


筑後川の治水は、慶長年間(1596 年から1615 年)の時代になってから本格化してきました。

主な治水事業としては、江戸期最初の筑後柳川城主となった田中吉政による瀬ノ下の開削をはじめとして、鍋島藩の成富兵庫茂安による千栗堤防の築造、また同時期の有馬藩による安武堤防の築造等が挙げられます。

筑後川の下流右岸の千栗堤防は、寛永年間(1624 年から1644 年)に12 年の歳月を要して、千栗から坂口までの約12km 間に天端幅2 間(約3.6m)で築造されました。一方、左岸の安武堤防は、千栗堤防とほぼ同程度の規模で築造されましたが、対岸の千栗堤防に強度的に対抗できなかったため、有馬藩は成富兵庫茂安に匹敵する土木技術者丹羽頼母重次を招き、河岸防護を目的とした荒籠を築造しました。

藩政時代、筑後川の中下流域は、有馬藩、立花藩、黒田藩及び鍋島藩等の支配下にあり、各藩がそれぞれ自藩に有利な治水工事を行っていました。


千栗堤防(佐賀県みやき町)


荒籠(大川市道海島)


第1期~第3期改修計画
明治時代以降の近代的な治水事業は、明治17 年4 月に国直轄工事として始まりました。内務省はオランダ人技師デ・レーケの協力を得て、河川の測量を実施し、航路維持を主な目的とした水制や護岸等の低水工事を実施しました。

その後、明治18 年6 月の洪水を契機として、明治19 年4 月に筑後川初の全体計画となる「第1 期改修計画」を策定しました。この計画に基づきデ・レーケ導流堤に代表されるような航路を維持するための低水工事のほか、金島、小森野、天建寺及び坂口の各捷水路工事に着手しました。

その後、明治22 年の大洪水を契機に、高水防御を主とした「第2 期改修計画」を策定しました。この計画に基づき、河口から旧杷木町までの間で分水路工事 や築堤及び水門を整備しました。
さらに、大正10 年6 月洪水を契機に、大正12 年に「第3 期改修計画」を策定しました。この計画に基づき、久留米市から上流の連続堤(天端幅約7m法勾配2 割)の整備や河川拡幅のほか、各支川の合流点に水門を設置し、金島、小森野、天建寺及び坂口の各捷水路の開削、大川市若津下流及び派川諸富川を浚渫して洪水疎通と航路維持を図りました。


藩政時代~昭和初期にかけて実施された主な治水事業


デ・レーケ導流堤


昭和28年6月洪水以降の治水事業
昭和28年6月の洪水による未曽有の被害に鑑み、昭和32年に基準地点長谷における基本高水のピーク流量を8,500m3/sと定め、このうち松原ダム及び下筌ダムにより2,500 m3/sを調節し、計画高水流量を6,000 m3/sとする「筑後川水系治水基本計画」を策定しました。この計画に基づき、大石分水路や松原ダム及び下筌ダムを整備しました。


松原ダム(日田市)


下筌ダム(日田市、小国町)

近年の治水事業1
昭和48年には、流域の開発及び進展に鑑み、基準地点夜明における基本高水のピーク流量を10,000 m3/s(概ね150年に1回の確率で発生する洪水規模)と定め、このうち上流ダム群により4,000 m3/sを調節し、計画高水流量を6,000 m3/s、瀬ノ下地点の計画高水流量を6,500 m3/sとする「筑後川水系工事実施基本計画」に改定しました。この計画に基づき、現在までに原鶴分水路(朝倉市)、久留米市東櫛原の引堤、筑後大堰(久留米市)等を整備してきました。


久留米市東櫛原の引堤


筑後大堰(久留米市)

近年の治水事業2
平成9年の河川法改正を受けて、平成15年10月に「筑後川水系河川整備基本方針」を、平成18年7月には基準地点荒瀬における計画目標流量を6,900 m3/sとする「筑後川水系河川整備計画」を策定しました。本計画では対象期間を概ね30年間とし、昭和57年7月洪水と同規模(概ね50年に1回の確立で発生する洪水規模)の洪水の安全な流下を図ります。本計画に基づき、平成13年7月に発生した花月川の支川有田川における越水氾濫を契機とした花月川の整備や、人口及び資産が集中している久留米市街部の久留米市宮ノ陣町及び太郎原町等において、堤防を整備しました。また、福岡県及び佐賀県の支川整備と合わせて大刀洗水門及び寒水川水門を整備しました。さらに、筑後川の下流及び早津江川においては、高潮堤防を整備しています。加えて、平成24年7月九州北部豪雨による氾濫を契機とした花月側での激甚災害対策特別緊急事業により、河道掘削及び築堤等を実施しています。


寒水川水門(みやき町)




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