水管理・国土保全

  

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六角川の歴史

六角川の歴史
潮汐と干拓による海岸線の変遷

 六角川は、白石平野を緩やかに蛇行しながら流下し、河口付近で支川牛津川を合わせ有明海の湾奥部に注いでいます。
 六角川下流域一帯は、有明海特有の大きな潮汐作用等による自然干陸化と6世紀頃からの干拓によって形成された低平地で、平均的には100年間で1,000m程度、海岸線が前進しています。


蛇行する六角川


佐賀平野(白石平野)の海岸線変遷図


水運の発達
六角川では、その干満差を利用した舟運が江戸時代以前から盛んであり、陸上交通機関の発達していない頃の物資輸送に関する河川の利用価値は極めて高く、昔から人々の生活に役立ってきました。特に明治以降から住ノ江港を基地とした機帆船による杵島炭等の石炭輸送は盛況で、昭和20年代後半に最盛期を迎えました。
 その一方、六角川は白石平野を大きく南北に二分しており、橋のない時代には南北間の交通には「渡し」を利用するより他に方法がなく、数多くの渡しが利用されていました。中でも現在の六角橋のすぐ東側の中郷と馬田、住ノ江の渡しが最も利用者が多く、昭和20年代まで人々に親しまれ利用されていました。
このように六角川が流域住民の生活や文化に与えた影響は大きく、まさに白石平野の動脈的な役割を果たしてきたといえます。
 六角川流域内には歴史的に重要な指定文化財及び史跡・天然記念物があり、その代表的なものとしては、孔子の祀られる多久聖廟、武雄温泉の楼門、武雄の荒踊りや大聖寺のまき等があげられます。



ベルトコンベアによる石炭の船積


トロッコによる石炭積込風景



治水と利水の歴史
低平地の治水
藩政時代の治水事業として記録に残っているのは成富兵庫茂安によるものが挙げられます。六角川流域において成富兵庫茂安の行った事業としては、大日堰と羽佐間水道が挙げられます。いずれの事業も主目的は利水ですが、治水施設の整備が前提となっています。
 大日堰に関する事業は、六角川(潮見川)に石井樋(現在の大日堰)を設け、野越、戸立を造り、水道を掘って三法潟(沖永、永田、二俣)へ引水したものです。利水施設の整備と同時に、上流側のはん濫水から防御するために、横堤および放水路を設置しています。
 羽佐間水道は、多久市羽佐間から牛津町を経て、江北町に至る12kmのかんがいを目的とした用水路です。羽佐間水道についても、下流の水田をはん濫水から防御するために、羽佐間水道上流部に横堤を設け、洪水被害の軽減を図っています。
 また、六角川では、成富兵庫茂安による治水事業以外にも蛇行部是正や捷水路整備がなされ、元の河道は干拓された水田として利用されてきました。


成富兵庫重康による三法潟の水利事業


藩政時代の蛇行部是正

利水の歴史
六角川流域は、汽水域が河口から約29km付近までと長く、河川水の利用が難しいこと等から、ため池、クリーク、地下水等を組み合わせた水利用が行われています。
 現在、農業用水として約3,400haの農地でかんがいに利用され、水道用水、工業用水として武雄市内、多久市内で利用されています。一方、平成6年の大渇水等、しばしば深刻な水不足に見舞われたことから、水不足を補う地下水の過剰取水が行われ、一時は著しい地盤沈下が生じました。しかし、隣接する嘉瀬川流域などから導水する佐賀西部広域水道用水の供給等により地下水の取水は減少しています。
 現在、六角川下流域における安定的なかんがい用水の補給及び、地盤沈下抑制に寄与すべく、嘉瀬川ダムで開発した水を平成24年度より導水しています。


永池の堤(六角川流域)


羽佐間堰(牛津川)








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