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万世大路

■山形と首都圏を結ぶ明治の一大道路整備事業、万世大路(ばんせいたいろ)
▲南置賜郡万世新道の内栗子隧道西口の図 〜三島県令の依頼により描かれた高橋由一による画〜

明治以前まで米沢と福島の往来には板谷峠を越える米沢街道が利用されていました。しかし、板谷峠には難所が多く、交通に大きな支障をきたしていました。
明治9年、鶴岡・山形・置賜の三県が合併し、初代山形県令となった三島通庸(みしま みちつね)は山形の発展には中央への交通体系の整備が必要とし、県内各地で次々と新道開削を進めました。
なかでも、県令がもっとも力を注いだのが山形と東京間を最短コースで繋ぐための米沢・福島間の道路整備でした。
特に栗子山隧道の開削工事は、立ちはだかる固い岩盤に困難を極めましたが、明治13年10月19日に貫通、当時日本で最長のトンネル(約870m)となりました。
当時としては驚くべき長さにもかかわらず、東西から掘削された隧道は少しもずれることなく合わさり、測量と設計技術の高さを証明する工事ともなったのです。
翌年10月3日には巡幸中の明治天皇を迎え開通式が行われ、11月には国道三等*に指定され、明治天皇より「万世大路」の名を賜りました。
開通当時の交通量は、通行人は一日あたり110人余り、小荷駄(こにだ)**・馬車40台と記録されており、大滝宿などの宿場や運送会社も栄えたそうです。
これほどの規模と技術を誇った万世大路ですが、自動車の登場によって見直しが求められ、昭和8年〜11年にかけて二代目となる栗子隧道、二ツ小屋隧道の改良工事が行われました。
しかしながら、急勾配の多さや雪による冬期間の閉鎖などで、物流の急激な進歩に次第にできなくなり、昭和41な年「栗子ハイウェイ」(「現在の一般国道13号線栗子峠)の完成に伴い、長期にわたり活躍した「万世大路」はその役目を終え、現在は自然の中にひっそりちと眠っています。

*国道三等−当時東京より各県庁に達する道路を指す
**小荷駄 −馬につけて運ばせる荷物

地図

■栗子山隧道と二ツ小屋隧道
万世大路には二つの隧道がありました。ひとつは栗子山隧道で、万世大路でもっとも難航した箇所といえます。
当時世界で3台目となる米国製の穿孔機を購入、坑夫の30人分に匹敵する掘削機と手掘りで山形・福島側の双方から工事が進められました。初代と二代目の坑口が並んでいます。
福島側にあるのが二ツ小屋隧道です。現在残っているものは、初代のものを改修した二代目のものです。
昭和41年からは、西栗子トンネルと東栗子トンネルがその役目を継ぎ「栗子ハイウェイ」として利用されています。
▲2代目栗子隧道 ▲二ツ小屋隧道

■栗子山隧道入口
栗子山隧道の米沢側の坑口には坑夫達の手掘りによるノミの跡がくっきりと残されています。当時の掘削の苦労が伝わってきます。
栗子山隧道
栗子山隧道に残るノミの跡

■大滝宿跡
大滝宿は万世大路建設のための基地として生まれ、開通によって栄えた宿場町です。当時は芝居小屋もあり賑わいを見せていましたが、やがて廃村となりました。この民家からは当時の面影をうかがうことができます。

大滝宿の民家
国土交通省技術調査課