会議記録

【畑村委員】
 それでは、「失敗学のすすめ」について話をさせていただく。
まず初めにイントロダクションとして、問題提起で、今日本で何が起こっているか。
 横軸に時間、縦軸に生産量をとると、このような放物曲線を描いて全ての分野の生産が進んでいる。繊維、鉄鋼、造船、自動車、コンピューターも、皆そうである。30年で大体成熟期の一番上まで行く。萌芽期、発展期、成熟期、衰退期と通過していく。そして今、大体の産業は、成熟期から衰退期に入り込んだ状態となっている。
 そこで起こっている典型的な問題について幾つかお話しする。
 1つは、役割分担の現実である。整合性がとれて、しっかりと仕事の分担ができているはずである。ところが実際には、成熟した組織では、他の部門との摩擦を嫌うために、自分の場所を確保することにより隙間ができる。相手がやるはず、だれかがやるだろうと、隙間が生まれてくる。そしてここに、よそからの口出しを絶対させないような組織運営が行われる。本来やるべき組織の運営は、皆の活動が重なって漏れのない形でなければならない。しかし、現実には隙間が生じている。狂牛病問題というのは、農水省と厚生労働省の間の隙間で出たのではないか。
 実際に行われているいろいろな企業活動を見ていると、非常に気になることがある。それは本来、技術を扱う際に、それぞれを担っている人達が沢山試し、沢山迷い、沢山失敗し、自分達の技術の周辺に沢山の知見や経験を得て、それで動かしている。
 ところが、最適解だけを求めて行くと、その結果がマニュアルという格好で出てきて、全員が同じことしかやらない、同じことしか考えないということになる。他のことを行なうことを全部禁止するので、その組織は一見立派に見えていても、その組織の持っている知見、経験は非常にひ弱なものとなる。少し外に出ると何もできないという人達で社会を動かしているのである。
 これは決断の間違いを示した図であり、分岐点での選択とその結果である。1度間違った選択肢を選ぶと、乗り換えられないということが起こっている。毎回決断をしながら進まなくてはならない時に、ここの部分で楽な方をとる。薄々おかしいとは思いながら1度間違った選択をすると戻ることができない。そして、ある時破滅に落ちる。
 本来、迷いながらも正しい道を通っていたとすると成功に至るのが、途中で間違いに気づいて正しい道に移行する時は、障壁が高くなっており乗り換えられないということが起こる。これは、リコール隠しがなぜ進んで行ったか、そしてそのようなものが続かざるを得なかったということを示している。
ここまではイントロダクションである。続いて「失敗学のすすめ」について述べる。
 まず、失敗の必要性についてだが、失敗は必要かというと、私は必要だと思っている。なぜかというと、成功した方法を踏襲している限りはいつも成功するからである。しかし、新たなことにチャレンジすれば何も知見が無い訳で、ほとんど全部失敗する。10中8、9失敗という甘いものではなく、上手くいくのは1,000個に3個位である。これを経験で「千三つ」という言葉で言う。新たなものにチャレンジして上手くいくのは1,000に3つ、300個に1個位である。
 その時は失敗になる訳だが、失敗した結果、受け入れの素地としての体感・実感を得る。そして、自ら進んで知識や経験を獲得したくなる。そして、思考を重ねることによって、体に染みついて知識や経験を得る。これが一般化された体験である。そして、ここに学習をすることによって、真の科学的理解を得る。
 この真の科学的理解とは、単に法則を知っているといったことではなく、自分の目の前に起こっている事柄について、現象の因果関係を記述することができることにある。それから、現象のモデルを自分でつくることができる。条件変化による現象変化をきちんと記述できる。また、予期せぬ事象へ正しく対応できるということである。科学的な知識や経験があるといったことは別である。
 これが一番大事で、真の科学的理解を得ようすとると、結局、チャレンジするしかない。チャレンジすれば失敗である。だから、失敗が必要だということになる。
 これは島根県の出雲で行われている、たたら製鉄である。このような作業をする人を村下(むらげ)と言う。総作業長のことである。これで玉鋼をつくって日本刀の材料をつくる。ここの炉の中に、砂鉄と木炭を入れて吹子で風を送って精錬をする。
 これを見に行ったのは1994年だが、私はこの人に何を考えているのか聞かせてくれと言うと、非常に不思議なことを言う。まず、どんな邪魔をしても良い、何を尋ねても良いというので、ブチブチ音がしているが、これはどんな音なのかと尋ねると、自分で聞いてみろと竹筒をくれた。中を聴診器のようにして聞いてみると、ブチブチグチグチと音がしている。この人は、吹子で中の鉄のしずくが舞い上がって落ちてくる時の音だと言う。それで、温度は何度かと尋ねると1,000度位で、炭素の含有量は2%位であると、何でも答える。
 どうしてこのようなことをよく知っているのか尋ねると、この人は全部自分で測ったとのことである。では、どうしてこのようなところでこの作業をしているのかと尋ねると、本来、自分は日立金属の安来工場の作業長をしている。しかし、日本の伝統技術がなくなるのはあまりにも惜しいのでこの作業をしており、最後の村下に弟子入りして覚えたとのことである。この人は、完全な科学的知識で頭の中を装備して仕事をしている。この人は見かけ上、伝統的な作業をしているように見えるが、頭の中は完全にサイエンスで装備されている。このように頭の中にほんとうに染み込んだ知識や経験が非常に大事だと思う。
 私は10年前、東大の機械科実習のやり方を変えた。この写真は、学生がブルドーザーに乗って坂道を上ってくるところである。このような実習をやらせてくれたのは日立建機と小松製作所で、10年間協力してくれた。
 このような場合には、いろいろなことを教えてから乗せるのが普通の教育の仕方である。しかし、ここでは逆で、安全教育だけ行い、「とにかく乗って運転をやり続け、走り続けなさい」と言う。そうすると学生は、「この坂道を上るとひっくり返るのでは」、とすごい恐怖心を抱く。しかし、その時に内部の構造がどうなるか、どの運転と何が危ないかということを知りたくなる。
 そのような状態にしておいてから、今度は機械を分解して組み立てさせ、工場見学に行くということをする。そのようにすると、学生は知りたくなった状態になり、そこから今度、自分で知見を獲得するということをする。2週間後、最後に、将来の建設機械はどういう姿になるかを言わせる。
 そうすると、先ほどの講演で言われた将来のロボット開発で、一番大事な技術の構成がどうなるかというところまで、2週間後には学生達はどんどん言い始める。そうして自分達の頭の中に、本当の考えが生み出せるのである。そのためには、本当に自分で体を動かさないと駄目である。
 次に、技術の世界における失敗の生かし方についてだが、技術の世界には失敗というものが沢山ある。新たなことにチャレンジすれば皆失敗する。技術を扱う人達が絶対知っていなければならない、そういう失敗が3つある。
 1つは、タコマ橋の崩落である。今から60年前にアメリカで長さ約1キロメートルの吊り橋をつくったが、秒速19メートルの横風を受けて落橋した。これで学んだのは、吊り橋というのは、桁のねじり剛性が十分ないと駄目であるということと、板の横から風が吹くと板の後ろに渦ができるという流体力学である。この知見を徹底的に使っているため、明石大橋は秒速80メートルまでの横風では絶対に落橋しない。なぜそのようなことが言えるかというと、徹底的なモデル実験が行われているためである。
 同じように、これはリバティ船というものである。第2次大戦の途中にアメリカが兵員と武器を輸送するために、全部溶接でつくる船を約5,000隻つくったが、そのうちの3割が割れてしまった。これが、なぜ割れるのか分からなかった。それを徹底的に調べてみると、原因は3つあった。
 1つは、鋼、鉄の低温脆性、脆くなって割れしまう性質である。もう1つは、溶接の方法が悪く、空気中の水素が入り込んで脆くなったためである。それからもう1つは構造的な問題で、応力集中で壊れる。これらのことを徹底的に学んだため、戦後の世界中の船は全部溶接でつくれるようになり、建物も溶接で構造体がつくれるようになった。
 続いて、コメット機の墜落についてだが、第2次大戦の最中に、イギリスは将来必ずジェット機の時代が来ると考え技術開発を行い、完成したのがコメット機である。商業運行を行うが、何回も落ちる。全く原因が分からないが、チャーチル首相が「イングランド銀行が空になっても構わないから原因を究明しろ」と命令し、徹底的に原因究明を行った。それで分かったのが金属の疲労破壊についてである。疲労破壊は、今でもいろいろなところで時々顔を出す。日航機が落ちたのもそうである。このように技術が進歩し、そのお陰でジャンボ機が飛び、世界中の人が本当に早く移動できるようになるためには、そのような失敗をとおらざるを得なかった。失敗は、皆いけないというのはおかしい。チャレンジしたところに起こる失敗は許さなければならない。
 しかし、世の中で普通に起こっている失敗は、全て許されない失敗である。それは、過去に例があって避けることができたものである。今お話した3つの失敗は、避けることができなかった。
 これが、タコマ橋が落ちるところである。アメリカは、何か様子がおかしいという時に16ミリのムービーをあちこちに置いて記録を全部とっているので、タコマ橋が落ちる時の動画を今でも見ることがでる。そのお陰で完全な解析を行うことができた。
 続いてこれは、戦時に壊れた標準船の写真である。ここに船が2隻写っているというのは正しくなく、これらは繋がっていた。これは魚雷を受けた訳でも何でもない。外力を受けずにいきなり2つに割れしまった。これが低温脆性によるものである。
 技術の進歩に貢献したのはイギリスとアメリカばかりかというと、そんなことはない。日本も技術の進歩に貢献している。今から30年前、三菱の長崎造船所で、タービンローターの試運転をやっている時にそれが割れた。すごい飛び方をして、1.5キロメートル先の標高200メートルの山頂に11トンの鉄の塊が飛んだ。もう一個は800メーター先の長崎湾に落ちた。これは軸が4つに割れた絵を描いたもので、その断面図である。
 三菱はこの事故を隠したりせず、割れた鉄の塊を拾ってきて完全に分析し、徹底的に原因究明を行い、それまでに世界中に売った製品の全てをつくり直した。また、必要な情報発信を全て行った。その結果、この事故の後、世界中からタービンローターの破裂事故はなくなった。そして後々の戒めとし、きちんと見せて勉強ができるようにするということで長崎に博物館をつくった。
 三菱の長崎の人達は、私達はこのようにしてこう失敗した、ということを東大の機械科の授業で伝えてくれた。私もそれで勉強し、これを日本中の人に勉強できるようにしようと、日刊工業から続々実際の設計ということで「失敗に学ぶ」という本を出版した。この本は、研究室のOBが集まり、自分の失敗を全部自己申告してつくったものである。その中には、三菱の福田さんという方で、当時の長崎の所長もいた。
 次に、真面目に皆がいろいろなことをやるのに、人間の欲得と便利さの前には、全ての警告が消えるというのがこの話である。これは、今から120年程前に三陸を襲った津波の地図である。ここに釜石がある。釜石から、少し南に唐仁という村があるが、ここでは6,477人、1人残らず全員死んだ。そして、ここのすぐ南に白浜というところがあるが、ここに来た津波の高さは38メートルに達した。13階建ての建物の高さである。
 これが伝わらなくなることを皆が大変意識しているので、石碑を立てた。今でも海岸の一番低いところから見ると、山の上の方にこの石碑が見える。そこには、「大津波記念碑」、「高き住まいは児孫に和楽、想え惨禍の大津波、ここより下に家を建てるな」と書かれている。ここまで津波が来たのである。
 三陸はすごく海産物が豊かで、皆海に出て仕事をしている。そのため、38メートルの高さを朝に晩に上り下りするのは敵わないので、家が下へ下へと移動して行く。
 しかし、そのような人ばかりかというと、そのようなことはない。これは田老という北の方で撮った写真であるが、10メートルほどの防潮堤をつくっており、向こう側が村落で手前側が海である。ここに津波が来た時にすぐに閉じるように水門をつくり、これをきちんと管理しているのは地元の消防団の若い人達ある。年に2〜3回、訓練大津波という、この裏山に駆けのぼる訓練を行っている。

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