都市空間の位置づけは、
全体構想の中から生まれるもの
近江八幡市長
川端 五兵衞氏
八幡掘は、天正13年(1585年)豊臣秀次が八幡山城築城の際、町と湖上とを結ぶ流通の大動脈としてつくった運河です。秀次没後、近江八幡が在郷町として再生し、近江商人発祥の地として栄えた経緯の中で、この堀の果たした役割は大きく八幡掘の水深は経済のバロメータとさえ言われるほどでした。 しかし、その八幡掘も、戦後のモータリゼーションの進展など社会事情を背景にして、荒廃への道をたどり始め、昭和40年には堆積へドロは、深さ1.8m総量5万m3に達し大きな公害源と化していました。昭和45年、2,400名の署名を集めた地元自治会の陳情に対し、県は堀を埋め、U字溝を通して駐車場に転用する方針を決めました。当時、私たち青年会議所が行った市民意識調査によりますと、「路上駐車解決策として八幡掘を埋め駐車場をつくる」とする意見が31%を占め、第一位でした。 ところで、住民のニーズによって近江八幡の一つの大きな歴史的遺産が消えていくことに対して、まだこの時点では倫理的な反対理由や具体的な保存計画があるわけでもなく、ただ「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」という感情だけが、半ば確信めいたものとして存在していただけでした。 また、疑問も抱きました。公害という言葉は公衆の利益の妨害であるということです。公衆の公と妨害の害、この公衆というのは住民ではないか。この川を汚したのは、実は公衆ではないか。ここからひとつ発想を変えてみようと。これは公害でなく、自分たちが汚してきたのだということです。 昭和49年、私たちは八幡掘に新しい価値観を創造しようという呼び掛け的な署名運動(7,300名)を行い、県に陳情を行いましたが、その内容に具体性はなく、改修工事は開始され、住民は衛生的見地から大歓迎でした。埋め立ての進む中、あくまでも全面浚渫を訴える私たちは、県から、 @全面浚渫後の具体的な復元図の提供 A2次公害のないヘドロ回収処理の方法 Bへドロ除去後の石垣の強度 Cあえて全面浚渫する意義と必要性、つまり何のために行うのか という回答書の提出を求められました。そして、これらの設問に対して、それぞれ、 @保存修景計画研究会(京都大学西川幸治教授)の指導を得て、保存修景計画書「よみがえる八幡掘」の作成 Aへドロ処理メーカーの協力により調査報告書の作成 B試掘調査による築造時の強度保持の確認 Cこれまでの八幡掘のみの運動から、広く全体構想を描き、その中での八幡堀の位置付けの確立、 以上のような対応をいたしました。 昭和50年、県は私たちの示した4項目の回答を理解され、埋め立てから180度転換、全面浚渫をいただくことになりました。 さらにはこの一連の取り組みが、私たちが今日まで20数年間にわたり、まちづくり運動を続け得るきっかけとなりました。 |
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