(都市景観を振返る)  これまでの我が国の都市景観を振り返ると、必ずしも賞賛されるべきものばかりではなく、反省すべき点が多い。  総理府の実施した世論調査「住宅・宅地に関する世論調査(平成10年12月)」においても、「日本の住宅地や市街地における街なみや景観を、あなたはどのように評価しますか。」という問いに対し、「良いと思う」「どちらかといえば良いと思う」と答えた人は合計で23.4%であるのに対し、「良くないと思う」「どちらかといえば良くないと思う」と答えた人は合計で48.3%であり、我が国の景観については、否定的な評価を持つ人が多いことが分かる(図表4-1-1)。  我が国がこれまで景観に関心を払ってこなかったわけではない。歴史的に見ても、我が国の四季のある気候は、自然景観に微妙な色を与えており、「日本三景」「近江八景」などのように、古くから人々に鑑賞され、和歌などでも歌われてきており、美しい自然を愛でる文化的な素養は十分備わっていた。  都市も洗練した景観を呈していたといわれる。人口百万人を越す当時世界最大の都市であった江戸や「天下の台所」大坂をはじめ各地の城下町などは、都市の町人が主役となって文化を発展させてきた。当時の江戸を描いた絵図などによると、江戸の町は整っていて美しかった、という印象を受ける。また、明治期に日本を旅したイギリス人旅行家イザベラ・バードも「旧市街は、私が今までに見た町の中でもっとも整然として清潔であり……」として、「家と庭園」「清潔な街路と緑(並木道)」「堀(運河)」から構成される東京、新潟、山形、秋田等の日本のまちなみを賞賛する表現を残している。  明治以降、西洋建築物の出現により新たなまちなみ景観が形成されたところもあるが、富国強兵の産業優先政策により、産業振興と都市市民の生活は必ずしも調和がとれたものとしては扱われなくなった。地方都市も含め、相次ぐ震災等に見舞われたこともあり、まちは大きく変わってしまった。  大正期は我が国の都市景観施策の歴史の始まりである。大正8年には、旧都市計画法に風致地区が、旧市街地建築物法に美観地区が創設された。また、国の顔として帝都の整備を意識した都市美運動が展開され、都市美化について啓発宣伝と事業研究を行う「都市美協会」が設立された。  このようにして迎えた戦後、我が国は戦災復興から高度経済成長、都市への人口の大移動とその結果の急激な都市化の中で、都市基盤施設の整備に重点を置いた。モータリゼーション社会の到来と激動の時代を迎え、「追いつき追い越せ」のキャッチアップが唱えられる中では、まずはナショナル・ミニマムな住宅・社会資本を整備することが最優先課題と考えられてきた。また、高度成長期以降、地方の中心市街地は、人口の流出により活力を低下させ、まちなみの個性も失われた。  なお、そのころ整備された名古屋、広島の100m街路をはじめとする幅員30〜40m以上の広幅員の道路・街路は、後に貴重な空間として都市景観形成のため活用されることとなる。  この中で、昭和30年代後半以降、保存修景の動きが始まる。これは、都市化の急速な進展が次々とまちの景色を塗り替えて行くことに対し、古くから伝わる景観を大切にしよう、という動きである。昭和40年、皇居お堀端の高層ビルの建築の自由を擁護するべきか、景観保全のための規制をするべきか、という、いわゆる丸の内美観論争をはじめ、京都タワー建設をきっかけとした古都景観の保存と開発をめぐる論争、鎌倉鶴岡八幡宮の裏山開発反対運動等の社会運動が起こった。これらに象徴される伝統的な文化景観に対する社会的な意識の高まりから古都保存法の制定、地方公共団体での景観条例の制定、文化財保護法と都市計画法上の伝統的建造物群保存地区(「第1 総説」の第4章第2節1[伝統的建造物群保存地区・歴史的風土特別保存地区]を参照)の創設等我が国の景観行政の第一歩が築かれた。  昭和40年代後半からは、保存修景から、さらに踏み込んだ形で良好な都市景観の整備・誘導の動きが起こり、アーバン・デザイン活動が始まった。特に横浜市では企画調整局に「都市デザイン室」が設けられ、また、神戸市では初の都市景観の積極的な創出を目指す条例が制定されるなど、その後の多くの地方公共団体における都市景観条例等の制定や、美しい景観形成への積極的な取組みに先鞭をつけた。都市計画法も昭和55年の改正により、地区計画制度(「第1 総説」の第4章第2節1[地区計画]を参照)が創設され、建築物の形態・意匠等を含む詳細な計画が都市計画の中に位置付けられることとなった。  経済成長も安定し衣食足りた現在、「都市化社会」から「都市型社会」に移行して人々が定住を始めた中で、人々の価値観の多様化により歴史や文化、美しさ、環境など経済効果では捉えきれない要素が脚光を浴びてくることにより、ゆとりとうるおいのある生活環境や暮らしの「質」、環境への配慮などが求められるようになる。  このような国民意識の高まりを受け、建設省においては、都市景観やまちづくりについての基本理念の整理・検討、及びこれを受けての積極的な施策の拡充を行ってきた。  昭和56年の「うるおいのあるまちづくりのための基本的考え方」の策定にはじまり、「美しい国土建設を考えるために -景観形成の理念と方向-」(昭和59年11月)(美しい国土建設を考える懇談会(井上孝座長))においては、「景観は国土を基盤としてその上に人間の営為が積み重ねられ統合化された、“自然と人間との合作による環境の眺め”であり、その時代・民族・地域の文化を反映している」とした上で、「今後の住宅・社会資本整備に当たっては、安全、快適で活力ある経済社会を築くための基本的機能を確保するとともに、美しい景観形成への配慮を合わせ行う総合的かつ長期的な考え方に立った施策の推進が必要である。」と提言している。昭和61年5月に都市景観懇談会(芦原義信座長)の取りまとめた「良好な都市景観の形成を目指して -都市景観は地域の共有財産、景観への配慮は都市生活のマナー-」においては、景観の形成を上からの押し付けで行うのではなく、公の先導的役割を自覚しながらも、地域住民主体に進められるべきもの、との認識を明らかにした。  また、「建設省所管施設間における景観整備マニュアル」(昭和60年)(建設技術開発会議環境保全技術開発部会)や「シビックデザイン導入手法に関する調査」(平成3年11月 建設省技術調査室)においては、美しい景観やデザインのまちをつくるための技術的な課題に対する対応方法を提供してきた。  こうした中で、昭和62年には、総合的な都市景観の形成を推進するため、「都市景観形成モデル都市」を制度化し、施策を重点的に行う重点地区の候補地区を有する都市を都市景観形成モデル都市として指定した。指定を受けた市町村は景観ガイドプランを作成し、それを基に建設省所管事業及び各種の規制・誘導方策を重点的複合的に推進することとした。  景観の形成が具体的に施策として事業化されたのは、モデル都市への重点化が最初の始まりであるが、平成4年の都市計画法改正による「市町村の都市計画に関する基本的な方針」(いわゆる「市町村マスタープラン」)(「第1 総説」の第4章第2節1[都市計画マスタープラン]を参照)により、望ましい都市像・ビジョンを明確化して分かりやすい形で住民に伝えることとする中で、景観についても都市景観形成の指針や景観形成上配慮すべき事項の方針を明らかにすることとし、広く市町村の自主性により、景観を都市計画行政の中に根付かせるべく施策が進められることとなった。