グリーンベルト構想の歴史  東京のグリーンベルト構想とは、昭和14年(1939年)に策定された東京緑地計画の中で、大都市の過大膨張抑制のために現在の23区に相当する東京市の外周に環状緑地帯(グリーンベルト(約962,059ha)下図参照)を設置する、とされた計画である。これは20世紀初頭から1920年代にかけて確立した欧米の地方計画や緑地計画に源流を持ち、特に大正12年(1924年)に国際都市計画会議(アムステルダム)で提唱された大都市の膨張抑制、グリーンベルトの設置、衛星都市の建設等を内容とする7ヶ条の決議に大きく影響されたものである。  東京緑地計画に基づいて大々的な整備が開始された公園・緑地の事業は山の手に大量の緑地ストックを残すこととなり(今日山の手に存在する大公園や河川沿いの公園(渋谷の宮下公園、神田上水沿いの緑道公園等)はほとんどがこの計画による遺産である。)、環状緑地帯を計画した区域は大部分が民有の田畑・山林であったが、昭和15年以降その拠点部を買収し、整備することとなった。  戦後、昭和21年(1945年)に策定された東京の戦災復興計画も同様に、緑地帯(都市計画緑地)や広幅員道路(グランド・アヴェニュー)を根幹とするものであった。しかし、この計画は、東京における戦災復興事業の着手の遅れ、ドッジラインによる政府の緊縮財政政策等による大幅な縮小により、ほとんど実現には至らなかった。  その後、昭和32年に首都圏整備法が制定され、既成市街地の無秩序な膨張発展を抑制し、その健全な発展を図るため、首都圏の外周に緑地地帯(10km程度の幅をもったグリーンベルト)を設定する必要がある区域として指定する制度を設けた。しかし、区域内の市街化を永久に停止させることになると映ったため反対が強く、昭和40年の首都圏整備法改正により、既成市街地の周辺部分の相当広域(約50km)な地域を近郊整備地域として指定し、秩序ある市街化を図るとともに、あわせて緑地の保全を図ることとした。このため、首都圏近郊緑地保全法が昭和41年に制定され、同法に基づいた近郊緑地保全区域が現在では17区域(総面積15,693ha)が指定されている。