コラム 北海道奥尻島の復興  平成5年7月12日22時17分、北海道南西沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生した。地震発生の2〜4分後に津波が到達し、死者・行方不明者計230人(うち奥尻町が198人)の犠牲が生じた。  復興の過程においては、集落の高台移転や漁業の再生等東日本大震災の被災地にも通じる課題に直面した。  奥尻島南部の奥尻町青苗地区は、津波とその後に発生した火災により、島で最大の被害であった。奥尻町は海抜約20〜30mの高台に四つの団地を整備し、青苗の住民を中心に約190戸が集団移転した(うち防災集団移転促進事業の対象は55戸)。  青苗の住民を中心に結成された「奥尻の復興を考える会」は、集団移転をめぐり、行政と住民との「中間組織」として機能した。同会は、雲仙普賢岳の復興過程を調査したり、被災者へのアンケートをもとに復興について町に提言した。これをもとに、町は全戸移転案ではなく一部移転案を採用したほか、復興基金の被災者支援事業の調整、義援金の配分に係る調整の役割も担った。  震災から5箇月後の12月、北海道の支援を受け、住民説明会を重ねた末に町の復興基本計画案がまとまった。中間組織としての会が住民の声を届けるパイプ役として何度も町と話し合い、互いの協力がスピーディーな復興につながったといえる。  また、奥尻町では、集団移転に際しては、高齢化率が高くなるのでコミュニティでの見守りを行うなどの対策、移転先の住宅建設には耐震、防災に関する専門家のアドバイスを受けるべきであること等を指摘している。