コラム 江戸時代から続く橋のメンテナンス  山口県岩国市に架かる5連のアーチ橋である「錦帯橋」は、岩国藩主吉川広嘉により延宝元年(1673年)に創建されました。翌年延宝2年(1674年)の洪水で流出するものの年内に再建され、以来276年間、昭和25年(1950年)の台風被害まで流出することはありませんでした。  再建当初から、定期的に架替等が行われ、桁(柱)橋(両端の2つの橋:第1橋と第5橋)は約40年毎、アーチ(反)橋(中央の3つの橋:第2〜4橋)は約20年ごとに架け替えられ、橋板や高欄は約15年ごとに取り替えられてきました。 錦帯橋架替年表  定期的な架替等の費用を確保するために、以下の制度が設けられました。  ・「橋催相(はしもやい)」延宝3年(1675年)〜延宝4年(1676年)   (延宝4年に前年分もまとめて徴収)   架替・改修費用を藩のすべての階級(武士から農民まで)から徴収したものでした。   武士は石高10石につき1人役、屋敷1建につき1人役でした。  ・「橋出米(はしだしまい)」延宝6年(1678年)〜明治4年(1871年)  橋催相を発展させて、目的税として恒常的に毎年徴収するようにした税制です。家中と寺社は、知行高10石につき米7合5勺、別に屋敷を持つ者は軒別に米7合5勺、在方(農村地)には軒別に米7合5勺が、毎年課せられました。町方は、表家の間口1間(1.8m)につき米5合又は3合7勺2才が、毎年課せられました。  岩国藩は6万石(1703年時点)でしたが、橋出米としては、弘化4年(1847年)頃には、年に97石余集まったとの記録があります。現在の価値で示すと約4,850万円になります。  ちなみに、平成に行われた全面的な架替では、総工費は26億円の費用がかかっています。  創建以来、架替等に係る技術が受け継がれてきましたが、その中には大工の個人的な経験によるものもあります。例えば、「木を観る」技術は、同じ種類の木材でも一つ一つ違った性質を持っているので、現場で先輩から言葉で代々伝えられてきたものです。これまで定期的に架替が行われてきた背景には、このような大工技術の伝承がありました。  これからも、計画的に架替等が行われることになっています。 元禄12年(1699)第2・3・4橋の架替図面