第I部 これからの社会インフラの維持管理・更新に向けて〜時代を越えて受け継がれる社会インフラ〜 第1章 これまでの社会インフラとこれからの課題 第1節 社会インフラの歴史とその役割 ◯1 時代別に見るインフラ整備  我が国においてもインフラの整備には長い歴史がある。ここでは、古代(平安時代末期まで)、中世(鎌倉時代から江戸幕府成立前まで)、近世(江戸時代)、近代(明治時代から戦前まで)、現代(戦後から現在まで)と時代を追って我が国におけるインフラ整備の歴史を振り返る。その際、整備されたインフラがどのように維持管理がなされていたのかもあわせて考察していく。 (1)古代−我が国におけるインフラ整備の草創期−  我が国有史以前のインフラ事情は、古くは3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に見ることができる。当時、対馬や九州北部を訪れた魏の使者によると、道路は「けものみち」に等しく、生い茂った草木によって前方を歩く者すら見ることができなかったという。やがて、古墳時代を迎え、各地に古墳が作られるようになるが、この巨大な構築物からは、当時の土木技術の高さがうかがえる。我が国の史伝によれば、難波に都を構えた第16代の仁徳天皇によるインフラ整備の記録が残されており、最古の治水事業として淀川に茨田堤(まんだつつみ)を築き、猪甘津(いかいづ)注1に橋を架け、難波の都から丹比邑(たぢひのむら)注2へ大道を通したと言われている。  645年には、大化の改新と呼ばれる政治改革が始まり、国家が土地と人民を所有する公地公民の制や地方の行政区画が定められるなど、律令制に基づいた中央集権体制の国造りが進んだ。相次いで造営された藤原京や平城京では大規模な排水施設として道路側溝網が張り巡らされていた。また、水運に恵まれた我が国では、古来より津や泊等と呼ばれた現代で言う港が見られたが、律令時代、国家への貢納物の発送を目的として、国ごとに国津が整備された。  道路整備は、国内統一のための軍事的観点により始まり原型は大化の改新(645年)以前に形成されていたが、天智・天武期(668〜686年)頃に本格的な整備が進み、7本の幹線道路(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)を指して「七道駅路」と呼ばれた。 図表1-1-1 七道駅路概要図  当時のインフラの維持管理については、718年に編纂された養老律令の「営繕令」によれば、各地域において津、橋及び道路を9月半ばから10月に修理を行うことや重要な道路が壊れて通行ができないときは時期を問わず修理を行うこととされていた。また、大河に近い堤防は、国司・郡司に巡視させ、修繕を要する場合は秋の収穫後に修理を行うことや大破の場合は時期を問わず修理を行う旨が命じられている。 (2)中世−武家の時代のはじまりとインフラ整備−  武家政権の成立した中世では、古代律令制に基づいた中央集権的な国家とは性格が異なり、封建制度に基づいた地方分権的な国家が続いた。そのため、国内のインフラ整備は、統一的で全国規模のものではなく、地域的に整備される傾向が強くなった。  鎌倉幕府では、鎌倉の地において、古代では見られない大規模な城塞都市としての都市づくりが進められた。防衛上の観点による切岸・堀切・切通の設置、側溝を持つ道路、護岸された川のほか、僧侶往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)の申請に基づいて築かれた和賀江嶋(わかえじま)は、現存する最古の築港として知られている。道路政策においては、源頼朝が1185年に駅路の法を定め、鎌倉と京都を結ぶ東海道の整備を行った。また、「いざ鎌倉」という緊急事態の場合に備え在地の武士と鎌倉を結ぶ「鎌倉往還」が整備された。維持管理に関しては、保奉行人と呼ばれる役職が設置され鎌倉市中の土地・道路の管理から橋の修理・道路掃除まで行っていた。  戦国時代に入り、有力な戦国大名が登場するようになると、国力を向上させるために、領国内におけるインフラ整備が行われるようになった。代表的なものとして、武田信玄による、甲府盆地を流れる釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)の合流部の改修工事があげられる。この工事は、一般に信玄堤と呼ばれ、堤防、分水、霞堤(かすみてい)、遊水機能等をもつ総合的な治水技術が用いられた。また、堤防上に神社を設け、祭りを開催し人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫を行ったともいわれている(図表1-1-5)。 図表1-1-5 信玄堤 (3)近世−太平の世におけるインフラ整備−  強固な幕藩体制が敷かれた江戸時代は、太平の世が約270年にわたって続くこととなり、全国規模においても地域的にもインフラ整備が進むこととなった。江戸幕府は、地方分権的な国家であったが、諸大名の領地に対して改易、転封及び減封を行うなど強力な力を持ち、自ら行うインフラ整備に対しても「御手伝普請」として諸大名の資金や労力を負担させることができた。  江戸期の道路整備では、五街道が挙げられる。五街道は、江戸を基点とした東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の5つの陸上交通路を指し幕府直轄とされた。各道では、一定間隔で宿が設置され、宿には人馬の常備を義務づけた伝馬制が実施された。五街道は、道中奉行によって管理され、宿駅の取締り、道路・橋梁の修築、並木・一里塚の保全等を担った。日々の維持管理は、沿道の宿駅や村々が負担し、大きな工事は代官や大名が行った。街道は、諸大名の参勤交代の通路としてだけでなく商人や一般民衆の通行として使われることも多く、街道筋の整備や修理はよく行われていた。 図表1-1-6 五街道の標準的横断面 図表1-1-7 主要街道概要図  治水の面では事業はさらに大規模となり技術も高度化していった。関東平野では関東郡代の伊奈備前守忠次とその子孫が、現在の東京湾に注いでいた利根川を、度重なる洪水から江戸を守るため、流れを東に替えて、太平洋側の銚子に注ぐようにした「利根川の東遷」と呼ばれる大治水事業を60年かけて成し遂げた(図表1-1-8)。こうした江戸時代の治水事業は幕府の統制下で実施されており、その費用は幕府・藩・村等で負担され、公儀・国役・領主普請、自普請といった工事の規模に応じて分担が定められていた。 図表1-1-8 利根川の東遷  下水道については、中世末期の大阪において豊臣秀吉により「太閤下水」と呼ばれる背割下水が作られたといわれているが、江戸時代になっても拡張が進められ、その維持管理は各町内の町衆の手によって行われていたといわれる。下水溝の清掃は「水道浚え(さらえ)」と呼ばれ、各町が共同で実施し、また、下水溝の補修も町衆が費用を出し合って行っていたことが記されている。この太閤下水は、その後明治政府に引き継がれ、その一部は現在でも使用されている。  また、我が国の都市公園の原型は、江戸時代に見られるといわれている。8代将軍吉宗は王子権現飛鳥山に桜を植えて花見の場をつくり、また「江戸名所図会」のような、いわばガイドブックも作られるなど、江戸時代には人々が四季の自然に触れ、集う、公園的な場所が存在した。 (4)近代−近代化への歩みのなかでのインフラ整備−  1868年に成立した明治政府は、版籍奉還や廃藩置県を通して中央集権国家体制を固め、富国強兵や殖産興業の理念のもと、新しい国家づくりを進めていった。インフラ整備においては、産業革命により近代化が進んでいた欧米諸国の技術を積極的に導入することによって、飛躍的な発展を遂げることになった。また、インフラの整備・維持管理については1873年(明治6年)に出された「河港道路修築規則」に見られるように、国と地方との間で工事の実施や費用を分担することとされた。また、民間資本の活用によるインフラ整備・維持管理の事例も見ることができる。 (交通分野におけるインフラ整備)  鉄道整備では、政府は、1872年(明治5年)に我が国最初の鉄道を新橋・横浜間(約29km)に開通させたが、西南戦争等により次第に財政がひっ迫し、1877年(明治10年)の京都・神戸間をもって鉄道建設は停滞し、その後は民間資本による私設鉄道の建設に積極的となった。1881年(明治14年)に私設鉄道の敷設を目的とした日本鉄道会社が設立されると、鉄道投資の有利性が認識されるようになり、明治20年代には私設鉄道ブームが訪れた。しかし、1892年(明治25年)に成立した鉄道敷設法により鉄道は政府が建設主体となって推進する方針が確立し、1906年(明治39年)の鉄道国有法に至って明治末期には全国の鉄道の9割あまりが官設鉄道の占めるところとなった。昭和期に入ると、都市化の進展に伴い郊外電車網が整備され、1927年(昭和2年)には、浅草・上野間に東京地下鉄道による日本最初の地下鉄が開通した。  1859年(安政6年)に開港した横浜港は、東西2本の船着き場が築造されたもので、本船は沖に停泊し、小型の艀(はしけ)等により舟着き場と本船の間を往来し貨客を運送するものであった。横浜と新橋間に鉄道が開通したことにより、横浜港では輸出入貨物量が増大し、大型本船が直接繋船できる施設整備の要請が高まったが、財政難から即座に築港事業に着手することができず、1889年(明治22年)になって、ようやく我が国における近代的港湾の修築事業が始まることになった。修築第1期工事(1889年(明治22年)〜1896年(明治29年))、修築第2期工事(1899年(明治32年)〜1916年(大正5年))を通じて、接岸や荷役作業が容易となり、鉄道の貨物引込線を含む総合的な港湾施設が完成するなど、世界でも有数の港へと変貌した。日清・日露戦争後、日本では重工業が進展するなど産業構造の転換が促され、時代の変化に対応できる港湾の政策的導入が必要とされたことから、港湾の築造・計画に関する諮問機関として内務大臣の管轄下に「港湾調査会」が設置された。同調査会は、1907年(明治40年)に「重要港湾ノ選定及ビ施設ノ方針」と題した答申を政府に行い、第1種重要港湾として4港、第2種重要港湾として8港が指定された。重要港湾の選定は、外国貿易港の整備に向けた国庫助成を行うものであり、国内産業の発展につれて追加されていった。  空港については、1911年(明治44年)に埼玉県所沢に軍用の飛行場が設置されたのがはじまりである。1931年(昭和6年)には、国営民間航空専用空港「東京飛行場」(のちの羽田空港)が開港し、滑走路は「延長300m、幅15m」の1本が設けられた。1939年(昭和14年)には、大阪伊丹飛行場が完成するが、太平洋戦争に突入すると戦時体制の移行とともに民間人が私用のために航空輸送を利用することができなくなった。  道路整備では、明治政府は鉄道優先策をとったため、全体として後れを取ることとなった。  最初の道路法制は、1871年(明治4年)12月に太政官布告第648号として出された「治水修路等ノ便利ヲ興ス者に税金取立ヲ許ス」と言われている。これは、料金徴収を認めることによって私人による道路や橋梁整備を促したもので、この布告により、東海道の小夜の中山峠の改修や天竜川の架橋等が行われた。1876年(明治9年)には太政官布告第60号において、道路の分類を国道、県道、里道の3種類とし、1885年(明治18年)に至って、40路線の国道が認定された。その後、1896年(明治29年)より帝国議会において道路法案が審議され、1919年(大正8年)に旧「道路法」が制定されるに至り、現在の道路法が制定(1952年(昭和27年))されるまで、我が国道路行政の中心として重要な役割を果たすこととなった。 図表1-1-11 近代日本における「粗国民生産」及び「政府資本ストック」 (生活関連分野におけるインフラ整備)  治水整備については、大量物資輸送の主役である舟運の活性化を目的として、河道を矯正し河底を浚渫(しゅんせつ)する低水工事が実施された。明治中期以降になると、鉄道網の整備によって舟運が衰退し低水工事の重要性は低下していった。一方で、淀川、利根川、木曽川等の大河川で洪水被害が頻発し、抜本的な治水対策の必要性が高まったことから、堤防による高水工事への転換が図られ、次第に洪水被害は減少していった。  なかでも、荒川放水路は、1910年(明治43年)の大洪水を契機に東京の下町を水害から守る抜本策として基本計画が策定され、翌年1911年(明治44年)に着工した。人力掘削、機械掘削、機械浚渫等を駆使し、1923年(大正12年)の関東大震災等により工事に難航を極めながらも、20年の歳月を経て1930年(昭和5年)に完成した。これにより荒川等の洪水が抑制され、周辺地域の防災に寄与している。 図表1-1-12 完成当時の旧岩淵水門  下水道整備では、都市化の進展により、大雨による浸水被害や停滞した汚水による伝染病の流行が引き起こされるようになったことから、1881年(明治14年)に着工した横浜のレンガ製大下水や、1884年(明治17年)に着工した東京の神田下水といった汚水排除も含めたヨーロッパ式の近代下水道が造られた。その後、1900年(明治33年)には下水道法が制定され、1922年(大正11年)には我が国初の下水処理場として東京の三河島処理場が運転を開始した。しかし、衛生環境整備の面で下水道より上水道の整備が優先されたこと等により、下水道が全国に普及するまでには至らなかった。 図表1-1-13 横浜のレンガ製大下水  都市公園整備では、我が国の制度は、1873年(明治6年)の太政官布達第16号によって、江戸時代の緑の名所といった人々が集い、憩う「群衆遊観の地」を「公園」として公有地化し開放することから始まった。この布達に基づいて、東京府において浅草公園、上野公園等が「公園」として指定された。計画的に造成された初の近代都市公園は1903年(明治36年)に開園した日比谷公園である。西洋の公園をモデルにして設計された日比谷公園は、以降に整備される各地の都市公園のデザインの手本となった。 (5)戦後から現代へ  戦後、我が国は復興期を経て1955年頃には高度成長期を迎え、1973年の石油危機を境に安定成長期へと移行した。1990年代初頭のバブル崩壊により、我が国は、低成長時代を迎え現在に至っている。  国土の総合的利用、開発及び保全に関しては、長期的かつ国民経済的視点に立った国土総合開発の方向を明らかにするものとして、国土総合開発法に基づき、1962年以降5次にわたり全国総合開発計画が策定され、それらに基づいて地域振興政策、社会資本整備等が実施されてきた(図表1-1-14)。また、分野別のインフラ整備については、1954年の道路整備五箇年計画をはじめとしたそれぞれのインフラごとの長期計画が策定され、長期的な視点による方針を明確にした上で整備の推進が図られてきた(図表1-1-15)。 図表1-1-14 これまでの全国総合開発計画 図表1-1-15 各分野における主な長期整備計画  分野ごとの長期計画は、より横断的に事業間の連携強化を図り、インフラの整備を重点的、効果的かつ効率的に推進するため社会資本整備重点計画に一本化された。また、全国総合開発計画については、今後の成熟社会に対応し、既存ストックの「利用」や自然環境との調和といった「保全」の側面をより重視するなどの観点から2005年に国土総合開発法が国土形成計画法に全面的に改正されたことを受けて、2008年に国土形成計画注3が策定され、現在に至っている。  また、インフラの整備や維持管理は、一般的に市場原理に馴染まないことから主として公的機関が担ってきたところであるが、世界における民営化の潮流等を踏まえて官と民との役割の見直しが進められてきている。例えば、鉄道では、1987年に国鉄改革が実施され、1872年以来115年続いた国が保有・運営する国有鉄道は、歴史を閉じることとなり、事業は新たに発足したJRへ承継された。また、空港では、2004年に、新東京国際空港公団が解散し、成田国際空港株式会社が発足することとなった。  インフラの整備・維持管理の方式としては、英国において導入されたPFI方式が「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」(PFI法)の制度により、1999年より導入されている。さらに、2011年には、PFIの対象施設の拡大、民間事業者による提案制度や公共施設等運営権の導入等、更なる活用の促進が図られている。  このように、我が国のインフラの整備・維持管理には、古代からの長い歴史があり、それぞれの時代の社会情勢や国と地方、官と民との関係に応じて、インフラの整備や維持管理が行われてきた。これからのインフラの維持管理を考えるに当たっては、このような歴史的な変遷を踏まえつつ、時代の要請に応じて最も効率的・効果的なマネジメントを模索していくことが求められている。 注1 現在の大阪府大阪市東成区・生野区の一部地域と推測される。 注2 現在の大阪府松原市、羽曳野市、堺市等の一部地域と推測される。 注3 計画年次は2008年よりおおむね10年間としている。