1−1−1表 戦後から現在までの我が国の交通の発展の推移(昭和30年の数値を100とした場合の指数)
| 人口 | 就業者数 | 実質GDP | 国内旅客輸送 (人キロベース) |
国内貨物輸送 (トンキロベース) | 出国日本人数 | 入国外国人数 | 貿易額 | 公的交通ストック |
昭和30年 | 100 | 100 | 100 | 100 | 100 | − | 100 | 100 | 100 |
35年 | 105 | 108 | 152 | 146 | 162 | − | 206 | 191 | 127 |
40年 | 110 | 116 | 236 | 230 | 219 | 100 | 356 | 371 | 232 |
45年 | 116 | 125 | 400 | 354 | 412 | 417 | 829 | 852 | 420 |
50年 | 125 | 128 | 498 | 428 | 424 | 1,551 | 788 | 2,089 | 702 |
55年 | 131 | 135 | 617 | 471 | 516 | 2,458 | 1,279 | 3,803 | 1,043 |
60年 | 136 | 142 | 729 | 517 | 511 | 3,112 | 2,259 | 4,525 | 1,421 |
平成2年 | 138 | 153 | 913 | 782 | 644 | 6,916 | 3,142 | 4,666 | 1,656 |
7年 | 141 | 158 | 981 | 836 | 658 | 9,621 | 3,248 | 4,528 | − |
8年 | 141 | 159 | 1,031 | 849 | 674 | 10,500 | 3,725 | 5,125 | − |
9年 | 141 | 160 | 1,047 | 855 | 669 | 10,568 | 4,095 | 5,694 | − |
10年 | 142 | 159 | 1,021 | 858 | 649 | 9,941 | 3,986 | 5,409 | − |
注1.運輸省資料、総務庁統計局「日本統計年鑑」、経済企画庁「国民経済計算報告」、「日本の社会資本」より作成。 注2.「旅客輸送」、「貨物輸送」については年度の値。 注3.国内旅客輸送は、昭和62年度から軽自動車を含む。 |
(1)戦後復興期から高度成長期にかけての交通
終戦後の昭和20年代前半は、戦災復興等の戦後処理と戦後の経済の混乱の収束という2つの大きな課題に対応した時期である。また、20年代後半は、朝鮮動乱による特需ブームを契機とした好景気等により、30年代以降の高度経済成長の基礎を築いた時期である。
交通分野で見ると、終戦直後には戦前水準の10%まで低下した生産活動が26、27年には戦前の水準まで回復したことを受け、国内貨物輸送量(トンキロベース)では25年から30年の間に26.2%増加するとともに、国内旅客輸送量(人キロベース)もこの間に41.5%増加した〔1−1−3〜6図〕。
このため、行政面では、20年代前半は戦災復興のための施設の応急復旧、復員者・引揚者輸送、生活必需物資の輸送等のための輸送力確保に重点が置かれた。
また、わが国経済の復興が進んだ後半には、占領軍の対日管理方針の変化と特需ブームに伴い、自立的な経済復興を支えるための陸運・海運のインフラ整備と産業振興が最も重要な課題となった。
具体的には、日本商船隊の再建、計画造船による造船業の復興と近代化、港湾の復興・近代化に積極的に取り組んだ一方で、鉄道の復興にも努力がなされ、24年には運輸省が設置されるとともに、公共企業体として日本国有鉄道が分離されて発足した。
また、経済の民主化に向けた過度の経済力集中排除のための一連の施策の実施と交通に関する法律制度の制定がなされ、交通事業の許認可に関して公平かつ合理的決定を担保する運輸審議会が設置された。また、国際収支改善のための国際観光の振興等が進められた。
1−1−2図 昭和20年代における主な交通関連法規の整備 1−1−3図 国内旅客輸送の推移(昭和25年〜30年) 1−1−4図 昭和25年における国内旅客輸送の機関分担率 1−1−5図 国内貨物輸送の推移(昭和25年〜30年) 1−1−6図 昭和25年における国内貨物輸送の機関分担率 |
昭和30年代に入ると、31年から32年の神武景気、34年から36年にかけての岩戸景気という2つの大きな好景気により大きくわが国経済が成長し、それに伴い貿易の自由化、開放経済体制への移行が進んだ時期である。この時期には農村部から都市部に人口が急激に移動し、農業と工業との間、大企業と中小企業との間、都市と農村との間の各種の格差が拡大した〔1−1−8、9図〕。交通分野で見ると、経済の高度成長とともに貨物輸送、旅客輸送ともに大幅に輸送需要が増加し、「大量化」が進んだ時代である。
具体的には、需要の急激な増加に伴い、港湾、道路、鉄道等において激しい混雑や積荷の積み残し等の機能不全が生じ、交通インフラ整備への要請が表面化した。また、この時期には、四大工業地帯を中心として太平洋ベルト工業地帯への工業立地が進んだこと、海運分野において機帆船(木船)から汽船(鋼船)が主流になったことに併せて、国内貨物輸送の機関分担率の首位が鉄道から海運に替わった。その後、日本国有鉄道は39年度から単年度収支が赤字に転落した。
輸送量が増加した反面で、交通事故も急激に増加し、交通安全への取組みも重要課題となったほか、3大都市圏への人口集中が急速に進み、都市鉄道における通勤混雑をはじめとする都市交通問題が社会的課題となった。
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日本国有鉄道の発足 | 海運企業の集約(日本郵船と三菱海運の合併) |
行政面では、このような課題を踏まえ、東海道新幹線・首都圏の地下鉄をはじめとする鉄道の整備、港湾整備五箇年計画による計画的な港湾施設の整備、道路整備五箇年計画、高速自動車国道法及び国土開発幹線自動車道建設法等による道路施設の整備、空港整備法による空港整備など、輸送力増強を目的として各種交通インフラの整備を精力的に進め、大量輸送の実現に邁進した。首都圏では、都市鉄道の通勤混雑等への対応として、世界的にも珍しい郊外鉄道と地下鉄の相互直通運転が実施された。
また、急増する交通事故への被害者救済への取り組みとして自動車損害賠償制度が整備された。
さらに、35年に策定された国民所得倍増計画等に基づき、経済発展を支える海運の発展と国際競争力の向上のために海運企業の再編成が行われたほか、国際収支を改善し、開放経済体制への移行に備えるため、造船業等についても国際競争力の強化が図られた。
1−1−7図 内航海運における汽船と機帆船 1−1−8図 全国の都市化率 1−1−9図 三大都市圏の転入・転出者数 1−1−10図 昭和25年〜40年の国内貨物輸送の機関分担率の推移 1−1−11図 日本の一次エネルギー消費の推移 1−1−12図 三大湾の港湾取扱貨物量の推移 |
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掘り込み方式により整備された鹿島港 | 東海道新幹線の開通 |
昭和40年代は、わが国が、高度経済成長により、西ドイツを抜いて自由主義世界で国内総生産が第2位になる一方で、公害の発生、生活関連社会資本の整備の立ち遅れ、交通事故の増大、国土の過密・過疎化の進行といった高度成長期の「ひずみ」が顕在化した時期である。また、40年代後半には、米国の新経済政策発表いわゆるニクソン・ショックによる金・ドル兌換制の停止と円の変動相場制への移行、第一次石油危機等により、深刻な不況の時代を迎えることとなる。
交通分野でも、40年代の10年間で、企業の生産・民間消費が増大したことを受けて、国内貨物輸送量(トンキロベース)が1.3倍になった。また、通勤旅客や業務旅客の拡大、生活の質の向上による観光旅客の増大により、国内旅客輸送量(人キロベース)も1.8倍になるなど、輸送量が拡大した。
輸送需要が増大する中で、貨物輸送における鉄道輸送から自動車・海上輸送へのシフトと国際の雑貨輸送等におけるコンテナ化の進展、旅客における航空輸送のジェット化、輸送量の増大など、「大量輸送」から「大量高速輸送」への指向が高まった〔1−1−13〜16図〕。旅客、貨物輸送両面でのモータリゼーションの進展により、自動車を運ぶフェリー航路が全国的に増加する一方で、バス・鉄道貨物・鉄道旅客の輸送量がピークを迎え、その後減少に向かったのもこの時期であり、バス等の旅客交通事業の経営が圧迫される一方、それまでの交通を支えてきた日本国有鉄道の長期債務残高が増加した〔1−1−17図〕。
大量高速輸送の実現と地域間格差の是正のために、運輸省では、現在の交通の基礎となっている大規模な交通インフラ整備を積極的に推進した。
旅客輸送の分野では、新東京国際空港(53年開港)の整備に着手するなど、空港整備五箇年計画に基づき積極的に空港整備を進めた。また、45年に制定された全国新幹線鉄道整備法に基づき、東北・上越新幹線等の新幹線の整備が進められるなど、幹線鉄道の整備と充実が図られた。
海上輸送の分野では、港湾整備五箇年計画に基づき、外貿定期船港湾である横浜、名古屋、神戸及び北九州港等の整備や外貿のコンテナリゼーションの進展に伴うコンテナ埠頭の整備が進められた。また、船舶の輸送力増強等も推進された。
また、上記の「ひずみ」への対応として、自動車排出ガス対策や大阪空港の騒音問題などの交通公害問題への対応〔1−1−18図〕、相次いだ航空機事故や「交通戦争」と呼ばれた自動車交通事故等の交通安全への対応、モータリゼーションの急速な進展に伴う都市交通の過密化と過疎地域での公共交通の維持への対応等にも取り組み、総合交通体系の実現に向けて幅広い施策を展開した。
1−1−13図 陸上旅客交通におけるモータリゼーションの進展 1−1−14図 貨物輸送におけるモータリゼーションの進展 1−1−15図 輸送機関別輸送状況(コンテナ化率の推移) 1−1−16図 航空のジェット化 1−1−17図 国鉄の輸送量、設備投資額、損益状況の推移 1−1−18図 航空騒音対策予算の推移 |
海上輸送におけるコンテナ化の進展(我が国初のコンテナ専用船、箱根丸)
コラム 総合交通体系論の提唱と運輸行政の企画機能の充実 |
昭和40年代は、これまで述べたとおり経済社会の「ひずみ」が問題となった時期であり、交通分野でも、交通公害、交通安全、都市と農村の格差の拡大による都市交通の混雑の激化、地方圏交通の維持など、様々な課題が顕在化した時期である。これらの課題への対応のため、「総合交通体系論」が40年代後半から唱えられた。 30年代にも、「経済自立五ヵ年計画」(昭和30年)において、総合的な交通体系の整備の必要性は説かれていたが、それは、戦争により整備の遅れた交通関係社会資本を充実し、交通の近代化を図ろうとするものであった。 45年以降本格化した総合交通体系論は、社会の「ひずみ」から生じた様々な課題への対応として、 1.高度成長により生じた過密過疎問題を解消するための全国的な高速交通体系の整備 2.国鉄財政の悪化に象徴される公共交通の経営危機を打開するための各種交通機関の競争条件の均等化 3.単なる量的サービスの向上を目的とする従来の隘路打開的な交通投資から、長期的視点に立った交通投資への転換 などを示したものであり、30年代のものとは内容を異にしていた。 この総合交通体系論は、45年に設置された運輸政策審議会答申で示されたのち、46年12月には、内閣に設置された臨時総合交通問題閣僚協議会において「総合交通体系について」決定がなされ、その後の交通政策の基本的な役割を担った。 運輸省も、総合交通体系論の高まりの中で政策立案機能の強化を図るため、昭和40年代後半に企画機能の強化のための体制整備を行った。 |
昭和50年代は、49年に勃発した第一次石油危機を契機として安定成長に移行した時期であり、国民の所得水準の大幅な向上の結果、生活の質的向上が求められるようになった時代である。
他方、石油危機により、資源・エネルギー供給の制約問題が顕在化して省資源・省エネルギー型の社会が指向された時期であり、我が国の経常収支黒字が国際的に問題視され、内需拡大による国際経済社会発展への協調が進められた時期である。
交通分野においては、高速交通網の形成のため、新幹線、空港、道路、港湾等の整備が進められる中で交通機関相互が厳しい競争を展開し、サービスの質的向上を図ることが求められた。また、省資源・省エネルギー型社会の構築に向けて、乗用車の燃費改善等省エネルギー型の交通が求められた。
国内の貨物、旅客輸送は、両者とも交通需要の急激な拡大がおさまった一方で、国民生活の質的向上に伴って、商業貨物の高付加価値化や貨物の宅配輸送に代表される多頻度少量輸送への指向が強まった〔1−1−23図〕。また、国際貨物輸送の分野では、40年代に進んだコンテナリゼーションを基礎に、輸送量が大きく伸びた。このような状況の中で、モータリゼーションが急速に進展し、国内旅客輸送の機関分担率の首位が鉄道から自動車に交代した。
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タンカーの大型化:タンカー日精丸(4884DW)(昭和50年) | 53年排出ガス規制適合車(シャルマングランドカスタム) |
1−1−19図 アラビアン・ライト原油価格の推移(1970〜1998年) 1−1−20図 原油可採年数の推移 1−1−21図 外国貿易における輸出入総額の推移 1−1−22図 国内旅客輸送の機関分担率の推移 1−1−23図 宅配貨物輸送等の推移 |
(イ)バブル経済期以降の交通
この時期は、昭和60年9月のプラザ合意以降、急速な円高が進んだことで円高不況となった後、不況対策として実施された内需拡大策、景気対策等により冷え込んでいた企業マインドが刺激され、長期にわたる力強い景気拡大が実現した。
そのなかで、資産価格の値上がり期待を前提とした投機的需要が膨らむことにより60年代からバブルが発生したが、平成2年の金利引上げ等の金融環境の変化等により投機的需要が急速にしぼみ、一挙に資産の需給バランスが崩れてバブルが崩壊し、その後も、その後遺症が長く続いた。
この時期は、経済のグローバリゼーションの進展、環境問題への関心の高まり、少子高齢社会への移行等の諸課題がバブルの崩壊とともに顕在化し、わが国の先行きが不透明になるなかで、自由で活力のある経済社会の実現をはじめとする構造改革が求められるなど、現在のわが国が抱える課題が噴出した時期である。
交通分野では、瀬戸大橋の完成、青函トンネルの開通により本州と北海道、四国及び九州が陸上交通機関で結ばれるとともに、関西国際空港(第1期)の開港、東京国際空港の拡張等も行われ、我が国交通体系の骨格が整備されるに至った。また、厳しい国際競争のもとで円高の影響を受け、海運で日本籍船・日本人船員が減少するなどの影響が出た一方で、日本人海外旅行者が急激に増加し、地方空港からの国際線の増加も見られた〔1−1−26図〕。
行政では、他分野に先駆けて改革が進められ、日本航空の完全民営化、日本国有鉄道の民営化が実施された。さらに、近年、需給調整規制の廃止等の規制緩和による市場の活性化が進められた結果、交通分野における高コスト是正等の改革が進められた〔1−1−29図〕。また、重点的・効率的な社会資本整備のため、様々なコスト削減策や実施、公共事業の事前評価の取り組みが進められるとともに、インターネット等の高度情報通信ネットワークへの対応が必須となってきた。
1−1−24図 昭和60年以降の公共交通と自家用車の輸送の推移 1−1−25図 昭和60年以降の国内貨物輸送量の推移 1−1−26図 出国日本人数の1年当たり平均伸び率の推移 1−1−27図 旅行における「小ロケット化」〜個人化の進展 1−1−28図 貸切バスにおける小ロケット化の進展 1−1−29図 規制緩和前後のトラック事業者数 |
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青函トンネル | 本州四国連絡橋瀬戸大橋 |
コラム 総合的な交通政策の展開と運輸政策審議会 |
運輸政策審議会は、総合的輸送体系の確立、運輸行政の遂行に必要となる基本的な政策及び計画の策定等を行う運輸大臣の諮問機関であり、昭和45年に設置された。運輸政策審議会答申において、その後の時代展開を見据え、以下のような交通政策全般についての方針が示されている。 1.「総合交通体系のあり方及びこれを実現するための基本的方策について」(昭和46年) 本答申は、前述のコラムで述べたとおり、総合交通体系論を提唱したものとして、その後の交通政策に重要な役割を果たした。 その具体的な内容としては、航空、新幹線、高速道路、コンテナ船の航路等の全国的な交通網の整備や、国際航空及び外貿港湾の国際交通網の整備等が示されている。 2.「長期展望に基づく総合的な交通政策の基本方向」(昭和56年) 本答申は、安定成長期に示されたものであり、資源・エネルギー問題に対応した効率的な交通体系の形成や輸送需要の伸びの低迷を踏まえた長期的な視点でのインフラ整備、国民の「ゆとり」に対する指向を踏まえた輸送の実現が示された。 現在の多様化した交通行政の取組みのスタートが、この答申の中ですでに現れていることがわかる。 3.「21世紀に向けての90年代の交通政策の基本的課題への対応について」(平成3年) 本答申は、バブル経済以降の時期に示されたものである。 この時代の国民のニーズの変化に対応するため、交通システムの整備のみならず、国際観光の振興方策等についてもその方針が示されたのがこの答申である。 これまで、時代のニーズに対応して適時適切に交通政策の方針を示してきた運輸政策審議会も、13年1月からは交通政策審議会として生まれ変わり、それまで担ってきた役割を引き続き果たしていくこととなっている。 |