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機船内郷丸遭難事件

 昭和29年10月8日昼過ぎ、神奈川県津久井郡相模湖において、長さ11.58メートル、幅2.04メートルの木造遊覧船内郷丸が、旅客定員の約4倍にあたる修学旅行中の中学校の生徒75人と先生2人を乗船させて遊覧することになり、離岸して2〜3分過ぎたころ客席の後部にビルジが現われ、生徒たちが驚くうち徐々に水量が増加していき、ついに午後1時5分船尾から沈没し、その後先生と生徒53人は救助されたが、生徒22人が死亡した。
 本件は、昭和30年3月4日横浜地方海難審判庁で裁決され第一審で確定した。

横浜地方海難審判理事所の調査経過
 横浜地方海難審判理事所は、事件発生の知らせを受けると直ちに3名を相模湖へ派遣し、事件発生の翌9日現地に赴き、引揚げられた内郷丸の船体について早速実地検査を行うとともに、貸ボート業者、当時生徒を引率して内郷丸に乗船していた先生の事情聴取を行い、その後も、救助に加わった遊覧船会社の専務、営業部長、事故を目撃した他船の機関士、遭難した中学校の生徒等に事情聴取を行い、こうして事件発生からわずか2週間余りの10月25日に、内郷丸船頭、船舶所有者を指定海難関係人に指定して、横浜地方海難審判庁に審判開始の申立を行った。


横浜地方海難審判庁の審理経過
 本件は、審判開始の申立がなされてから約2週間後、事件発生から1か月後の11月9日に第1回の審判を開廷することになり、傍聴席は、中学校の生徒の家族をはじめ、報道関係者など多数の傍聴者でうまり、一種異様な雰囲気に包まれていた。
 その後審判は、同30年2月5日の第5回の審判をもって結審となり、その間15人の証人尋問を行うなど集中的に審理が行われ、翌3月4日裁決言渡となった。
 本件裁決は、2人の指定海難関係人に対し勧告を行い、第一審で確定した。
 
横浜地方海難審判庁での審判模様
横浜地方海難審判庁での審理模様

裁決の要旨は、次のとおりである。

 (船舶の要目)
船種船名 機船内郷丸
長さ 11.58メートル
 (関係人の明細)
指定海難関係人 船 主 船 頭
 (損 害)
内郷丸 沈没、 乗客22人死亡

主 文
 本件遭難は、船舶所有者の業務上の過失と船頭の運航に関する職務上の過失とによって発生したものである。

理 由
 内郷丸は、昭和22年春、相模川で渡船及び遊覧に使用する目的で、船大工によって底の浅い川船式手法で建造し、動力としてオール4本を備えた。同年7月相模湖ができたとき同船は内郷と与瀬との間の渡船として使用、同26年内郷丸に簡単な屋根をつけ屋形船とし、4馬力のエンジンを備えた。同29年3月4日小型船舶安全規則による検査を受け、復原力の算定によって、最大とう載人員を旅客19人船員2人と定めた。
 同29年4月15日内郷丸を指定海難関係人船舶所有者が所有することになり、同人は内郷丸の外観を美化し、サービスを向上する目的で、船首に甲板を、船尾に甲板兼用の展望台をそれぞれ新設し、両舷船縁を170ミリ高くし、客席の両舷内壁にベニヤ板を張る等の改造を行ない、同年7月15日に工事が完了し、その結果、検査証書面記載と実体とは非常に異なる船舶となったが、遊覧船のかき入れどきであったので、船主は届出を怠り、同船の構造上の欠陥が船舶検査官に指摘される機会を失った。同29年6月16日相模湖一周の旅客定期航路事業及び同年8月18日相模湖三角間の旅客定期航路事業の各免許を受けた。
 中学校2年生227人は、教員に引率されて、貸切りバス6台に分乗し、午前11時半頃相模湖畔の嵐山橋のたもとに着いたが、降雨のため、弁天島・発電所・ダム等の見学をして与瀬のバス溜場に集合する予定を取り止め、運転手の紹介で茶店を借り、茶の接待を受けながら昼食をとりはじめた。その折、茶店の主婦から遊覧船に乗らないかとすすめられたが、旅行の予定になかったので、希望者だけ船賃25円を各自が払って遊覧船に乗ることとなり、希望者を募ったところ80人あった。
 内郷丸の所有者は、そのころ小学生40人を乗せる予約があって、対岸から同船を茶店の船着場に回航させたが、未だ予約の小学生の団体が到着していなかったので、中学校の生徒を誘い、生徒の乗船を引率の先生と約束した。引率の先生が内郷丸を見ると小さいので、乗船希望者が80人あるのだがと言うと、大人の定員は60人だが子供なら80人位乗せたことがあると言われて、そんなものかと思い、先生2人が附添って乗船し、湖を一周してから与瀬公園の下に着船して下船する予定にした。引率の先生は、乗船希望の生徒が茶店前に集まったので、今から3、40分したらバスを与瀬のバス溜場に回わすから、そこに集合するようにと告げたが、生徒たちは先生、船主、船頭のいずれからも乗船の心得は注意されなかった。 生徒たちは、手回り品をバスの中に預けて身軽になり、カメラを持っていたのは16人で、船着場に約30度の角度で左舷おもて着けをしていた内郷丸に、客席の前部出入口から1人ずつ順序よく静かに乗り込み、おおむね両舷と中央とに設けられた座席に着席したが、展望台に7、8人立ったものもあり、生徒75人と先生2人とが乗って、総重量約3,660キログラムが乗り込んだ。
 このようにして、内郷丸は、ほぼ船首0.199メートル船尾0.650メートルの喫水で、両舷外板に大きく「内郷丸」と書いた文字の約半分が水につかり、窓の下かまちから水面まで約25センチとなるまで船脚を入れて、排気管が戸建の右舷側で突き出しになっているところ及び操舵索二条が別々の孔で戸建を貫通しているところから浸水が毎分23キログラムばかりの割合で既にはじまって、船尾へのトリムは漸次増えつつあった。同日午後0時55分に乗船が終わり、船頭は、人数を確認もしないで、喫水やトリムについて何の懸念もなく、船賃を取り終わって船着場に来た船主から「早く回ってこい。」といわれ、岸づたいに右回りで湖上を一巡して3、40分後には与瀬ボートのところに着けて客を揚げて白須に帰る予定で、同時55分少し過ぎ竹竿で岸を突いて船首を岸から離し、操縦席に着き、客席の方を見て、かなり乗ったなと思ったが、平素と別に変ったことは感じないで、機関を微速力前進にかけ漸次増進して全速力前進とし、約4ノットで航走をはじめた。
 一方、陸上の船主は、発航した内郷丸の船尾の排気管が水につかりあまりにも下っているので、同管の突き出し口からの浸水が気になり、内郷丸を呼び止めたが通じないので崖をかけ上って、そこにあった自転車に乗って約300メートル離れた内郷船着場に行き、第三内郷丸に乗って内郷丸の後を追った。
 内郷丸は、岸を離れて2、3分過ぎたころ、客席の後部にビルジが現われ、そこにいた客のうちには足が濡れるのを避けるため展望台に出るものもあったが、この浸水に対しては不審を抱かず、客席の前部では事情がよく判らないから先生達が「静かにしなさい。」と注意をしていたが、船は漸次船尾が沈み、船首が上がり気味となり、展望台に15人ばかり出た1時3分ごろには、ビルジは客席の前部にいた客の足元にも現われ、座席に上ったり、足を上げたりして、船内はようやく不安にかられて、総立ちになりそうな気配となり、船が左右に揺れたので、転覆するのを案じた先生が、「静かに」と叫び、また、船頭も「静かにするように」といったが、先生から「水だ」と告げられ振り返って見たところ、客席の前部フロアには足を下していられない位のビルジが溜り、足を上げている人も見え、後方では腰掛の高さの半ば位まで、運転席ではグレーチングが八分目位まで水につかっていた。
 船頭は、ここに至ってはじめて危いと思い、同時5分少し前機関を停止し、音響信号を行って救助を求め、取舵一杯にとったが、そのころは多量の水が、展望台の下から船尾船縁を越えて船内に侵入し、浸水が急激に増加、舵効が現われないうちに、本船は船尾から沈没しはじめた。
 乗客は、出入口、または、窓から船外に逃れ、あるいは屋根によじ登ったが、同時5分内郷丸は、船首を西方に向け、船体は船尾を低くして5度ばかり縦に傾き、宝峰(三角点374メートル標高)の北東方約1キロメートルの青田鼻附近で日連村地先距岸100メートルばかり水深約25メートルの地点において船尾から沈没した。
 沈没と同時に操縦席から脱出した船頭は、泳ぎながら身近に浮いていた生徒の手を引いて船にすがらせたうえ屋根に上って、手を振って陸に向け救助を求めた。内郷丸は沈没したが間もなく水面上に平に、わずかに屋根を浮き揚げたので、附近で泳ぎながら避難中の客は、それにすがりつき、またははい上がって救助を待っていたところ、沈没後10分ばかりの後に、第一振興丸、勝瀬第一号、第三内郷丸その他多数の救助船に生徒53人、両先生及び船頭が救助されたが、生徒22人は水中に沈み、その後いずれも遺体となって沈没地点附近の湖底から引き揚げられた。内郷丸は、ハウスのガラス張り引違戸のガラスが破れ、戸のかまちが4、5枚流失し、外板に軽微な損傷を生じた。

 本件遭難は、昭和29年3月4日内郷丸は小型船舶安全規則第27条第1号の規定により行った検査に合格し、同年6月9日その所有者に対し小型船舶検査証書が交付されたが、その検査後において船体及び機関の要部を改造し、それについて重要な変更を生じたのに、同人が小型船舶安全規則第47条の規定に違反して、遅滞なく、その旨を管海官庁に届け出ず、また規則第19条の規定に違反して、最大とう載人員をこえて旅客をとう載した同人の業務上の過失と船頭が、同規則第19条の規定に違反して、最大とう載人員をこえて旅客をとう載し、船尾より浸水がはじまり、次第にとも脚になって、船の安全性が阻害されていたのに、危険が切迫するまでこれに気づかないまま航行した同人の運航に関する職務上の過失とによって発生したものである。
 船舶所有者及び船頭に対しては、海難審判法第4条第3項の規定により、それぞれ勧告する。

 また、勧告書については、次のとおりである。

勧 告 書

 機船内郷丸遭難事件
    指定海難関係人 船主
    指定海難関係人 船頭

 昭和29年10月8日相模湖で発生した上記事件は、船主がその所有船内郷丸の船体及び機関の要部を改造し、それについて重要な変更を生じたのに、小型船舶安全規則第47条の規定に違反して、遅滞なく、その旨を管海官庁に届け出ず、また、同規則第19条の規定に違反して、最大とう載人員を超えて旅客をとう載した同人の業務上の過失と船頭が、同規則第19条の規定に違反して、最大とう載人員を超えて旅客をとう載し、危険が切迫するまで、これに気付かないまま航行した同人の運航に関する職務上の過失とによって発生したものと裁決した。
 この種、海難の再発を防止するには、
1 船舶の要部について、重要な変更を生じた場合は、遅滞なく、その旨を管海官庁に届け出で、公の手続を経て、船舶の安全を遅滞なく再確認しておかなければならない。小型の旅客船においては、多数の客が片げんに移動し、または、高所に登ることの危険については、周知されているが、船の前方、または後方に片寄って縦の復原力に大きく働らく場合も危険であるから、船舶の外観を現代化し、併せて客への奉仕を厚くする場合でも、船舶の安全を阻害しないよう慎まなければならない。
2 小型船舶の最大とう載人員(定員)は、旅客の乗り方が、座席に適当に着席して乗ることを前提とし、当該船舶のたん航性(安全性)を保持するために必要な限界を明示したものであって、小型船舶における定員超過は、即ち、その船の安全性が失われたことである。ややもすれば定員を軽視しがちである現下の社会状勢ではあるが、水上の危険は、その襲いくるや待ったなきを深く銘記して、定員を厳守し、船舶を運航しなければならない。
 よって、海難審判法第4条第3項の規定により、船主及び船頭に対し、それぞれ勧告をする。 

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