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機船第五北川丸沈没事件

 第五北川丸(総トン数39トン)が、昭和32年4月12日午前10時、約230人の旅客を載せて尾道を発し、同11時に瀬戸田町に着いて観光客を上陸させたのち、同日午後同観光客を収容して同地を発し尾道に向け航行中、午後0時40分、三原瀬戸の寅丸礁付近で船底部を乗り揚げて擦過し、その後附近海域で沈没、旅客112人及び乗組員1人が死亡し、船客49人が負傷した。
 行楽シーズンにおける、観光船の海難事故として社会に大きな反響を呼んだ。
 本件については、昭和32年9月19日、神戸地方海難審判庁広島支部で裁決があったが、これを不服とし理事官及び受審人から第二審の請求があり、同34年3月26日、高等海難審判庁で裁決された。

神戸地方海難審判理事所広島支所の調査経過
 神戸地方海難審判理事所広島支所では、翌13日には尾道市等に出向き調査を開始し、第五北川丸の乗組員、乗客、目撃者等の事情聴取を行い、 また、4月17日と翌18日には、引揚げられた第五北川丸の船体及び発生場所の寅丸礁の状況について実地検査を行った。
 さらに、第五北川丸の復原力試験、舵一杯時の傾斜角度等についての鑑定依頼を行い、これらの証拠を基に、関係者として受審人に第五北川丸船長、指定海難関係人に船舶所有者をそれぞれ指定して、事件発生1か月後の5月11日に審判開始の申立を行った。
引き揚げられた第五北川丸
引き揚げられた第五北川丸

神戸地方海難審判庁広島支部の審理経過
 申立を受けた神戸地方海難審判庁広島支部では、第1回の審判を5月17日に開廷し、6回の審判開廷をもって結審となり、昭和32年9月19日裁決の言渡が行われた。
 この裁決に対し理事官及び指定海難関係人船舶所有者は、不服であるとして第二審の請求を行った。指定海難関係人に第二審の請求権はないが、理事官の請求は当然に有効であるから、本件は高等海難審判庁に係属することになった。

高等海難審判庁の審理経過
 第二審においては、当時、「洞爺丸他青函連絡船遭難事件」及び「宇高連絡船紫雲丸宇高連絡船第三宇高丸衝突事件」が係属中であったため、直ちに本件の審理に入れなかったが、翌33年10月23日に第1回の審判を開廷し、2回にわたる審理経過を経て、昭和34年3月26日裁決の言渡が行われた。
その要旨は次のとおりである。

裁決

(船舶の要目)
船種船名 機船第五北川丸
総トン数 39トン
最大搭載人員 旅客77人、 船員7人 計84人

 (関係人の明細)
受審人 船長
指定海難関係人 船舶所有者

 (損 害)
第五北川丸 船体沈没後引揚、 船客112名及び甲板員見習1名死亡、 船客49名負傷

主文
 本件沈没は、船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したものであるが、本船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。

理由
 第五北川丸は、大正13年6月進水の木造旅客船で、昭和31年3月指定海難関係人の所有となり、根拠地を広島県豊田郡豊浜村大浜に置き、大浜・尾道間の定期旅客輸送に従事していたが、翌32年3月観光季節に入り、西日光と通称される瀬戸田町の耕三寺観光の旅客の多いときには、尾道・瀬戸田間1往復の旅客輸送にあたることもあった。
 こうして本船は、同32年4月12日09時35分ごろ、大浜から尾道駅前桟橋に到着したところ、尾道支社の指示により、同10時尾道発瀬戸田行きの便をとることになり、本船の乗組員は通常5名であったが、1人が所要で上陸したため、4名で瀬戸田に向け出港することとなった。
 船長は、本船で瀬戸田航路の旅客輸送に従事するのは、今回が6回目であったが、旅客定員厳守の重要性を深く認識せず、本船の最大搭載人員が旅客77人、船員7人であるのを知りながら、200名程度を載せても危険はないものと考え、乗船客のおさまり具合をみて、乗船させており、当日も定員をはるかに超える約230名の旅客を載せ、10時尾道を発し、11時瀬戸田に入港して旅客を降ろした後、12時20分の便に就航するため待機した。
 当日の同便には、旅客が相当多いとみて発船時刻の約10分前から改札をはじめたが、およそ200名程度と見当をつけていたところ、客室に入りきれない者が上甲板上の通路に立ち並び、ほとんど立すいの余地がない有様で、乗船実員合計235名(小人12名を含む)に達していた。
 かくして、本船は、同日12時22分瀬戸田を発し、尾道に向かい、船長は、途中見習甲板員に操舵をゆずり、自らはその背後に腰掛けて運航の指揮にあたるうち、機関長が昇橋して瀬戸田桟橋で受けとった乗船切符の整理をはじめたので、これを手伝っていたところ、同時34分少し過ぎ、和霊石鼻45メートル頂を右舷正横北89度東450メートルばかりに並航したとき、強い逆潮流を避けるため、佐木島に接航して布袋岩鼻・寅丸礁間を通航するつもりで、徐々に右舵をとらせ、同鼻を正船首よりわずかに右舷に望む北27度東の針路とし、この針路で続航するよう命じ、布袋岩鼻の沖合には岩があると教えた後、引き続いて切符の整理にあたった。
 当時寅丸礁の頂部は水面下約0.4メートルのところまで潜没しており、見習甲板員は、岩があると聞いたものの、それが現実にどの辺にあるのか、どのように見えるのか知る由もなく、船長も気づかぬ間に、本船は、寅丸礁に向首する針路で進行していた。
 同時40分少し前切符の整理が終った船長は、どのあたりかと前方を見ると、予定針路と違っており、至近距離に茶かっ色の水面を認め、自ら舵輪をとって左舵一杯をとり、船体は、右舷に傾斜しながら左舷に回頭しはじめたが、同時40分、20度ばかり回転したとき、軽い衝激を感じ、船尾船底を寅丸礁の西斜面に乗り揚げて擦過した。
 その直後、船体は、急激に右舷傾斜の度を増し、多量の海水を一挙にすくい上げて、船尾から沈没しはじめ、機関室に浸水して船体後部が水面下に没し、船首を北方に向けて沈没した。
 船客は、予期しない海水の急襲を受け、上甲板にいたものは、海中に投げ出され、あるいは、遊歩甲板によじ登ってから水面に浮び、客室内のものは、出入口や窓から必死の脱出をはかったが、沈没が早かったのと多客で混雑したため、脱出できずに船体とともに海中深く沈んだものも相当数に上り、沈没後直ちに、付近にいた漁船、土運船など数隻が救助にあたったにもかかわらず、船客112名と見習甲板員が死亡し、船客49名が負傷した。

 本件沈没は、第五北川丸は、船体構造上乾舷及び初期復原力が比較的少ない船であったが、法定の最大搭載人員の範囲内であれば、通常の航海に安全を保ち得るものであったところ、最大搭載人員の約3倍もの多数の人員を載せて、復原力が著しく減少し、たとい、残存するわずかの復原力と舷しょうによる一時的復原性範囲の増大とで、直ちに転覆することはなかったにせよ、極めて危険な状態となり、このような状態で急転舵したため、旋回に伴う船体傾斜により、ようやく復原力が失われようとするとき、底触による反動や潮流の影響も加わり、急激に傾斜の度を増して浸水沈没したものであって、船長が、本船船長として、旅客定員厳守の重要性を認識せず、船舶安全法の定むる最大搭載人員を著しく超えた旅客を載せて発航し、且つ、暗岩の存在する水域を通航するにあたり、乗船切符を数えなおすことに専念し、前路の看視をなおざりにしたため、暗岩に著しく接近するまでこれに気づかず、急転舵も及ばず、底触擦過するにいたった同人の運航に関する職務上の過失に因って発生したものである。船舶所有者代表取締役社長は、尾道支社に常駐し、また、尾道・瀬戸田航路同盟の理事として、本航路の定期旅客船につき、船舶の旅客定員と密接な関係をもつ配船、乗船券の発売、改札などに関する運営を支配していたのであるが、旅客定員が船舶運航の安全に重要な関係をもつことについて認識を欠き、所属船舶が法定の旅客定員を厳守していない実情にあるのを知りながら、これを容認し、且つ、乗船券の発売や改札などで乗船客の員数を制限する方法がとられず、改札を経た旅客が無制限に船に赴くという、船長1人では定員厳守の維持が困難な情勢のままで、乗船客の処理を船長に一任していたものであって、このような運航管理が適当でなかったことは、定員の約3倍もの旅客を乗船させる結果となり、遂に本件沈没を発生せしめるにいたった一因をなすものである。

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