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機船第一宗像丸機船タラルド・ブロビーグ衝突事件

 第一宗像丸(総トン数1,972トン)が、ガソリン3,642キロリットルを載せ、山口県徳山港を発し、川崎市水江町の油槽所に向け、京浜運河を東行中、昭和37年11月18日午前8時14分ごろ川崎市安善町2丁目埋立地前で、水先人が乗船して同運河を西行中の油送船タラルド・ブロビーグ(総トン数21,634トン)と衝突した。
 海水バラスト12,500トンを載せたタラルド・ブロビーグの船首が第一宗像丸の左舷中央部に食い込み、第一宗像丸から流出したガソリンが付近の海面に流れ出して拡散し、その蒸気が衝突地点の南西方150メートルばかりの地点を航行中の太平丸(総トン数89トン)の操舵室に侵入し、同室の何かの火源により引火爆発したため、第一宗像丸、タラルド・ブロビーグ及び太平丸の後を航行していた宝栄丸(総トン数62トン)にも燃え移った。
 多数の消防艇、消防車等が消火活動に当ったが、宝栄丸は全焼して沈没し、その他の船舶の火災は翌19日午後4時45分ごろ鎮火したものの、第一宗像丸の船長以下36人、タラルド・ブロビーグの1人、太平丸の2人及び宝栄丸の2人の乗組員が死亡し、太平丸の乗組員1人が火傷を負った。
 京浜運河は、横浜市鶴見区及び川崎市と扇島との間に東西に横たわる、長さ約7.5キロメートル、幅500〜600メートルの運河で、両岸には製油所、発電所、製鉄所、造船所など多数の工場や施設があり、同運河沿いに係船岸壁が多数設置されているうえ、同運河からさらに7筋の運河が分岐しており、2万トン以上のタンカーも通航し、昭和37年12月の、同運河西口付近における小型船の一日平均交通量は約800隻となっていた。
 このように石油化学工場等が密集する狭い運河の中で、危険物積載船が衝突事故を起こし、積荷が引火爆発して大惨事となったことから、世間に大変な衝撃を与えた。
 本件については、昭和39年6月10日、横浜地方海難審判庁で裁決があったが、これを不服として理事官及び受審人から第二審の請求があり、同41年5月31日、高等海難審判庁で裁決された。
焼損した第一宗像丸
焼損した第一宗像丸

横浜地方海難審判理事所の調査経過
 横浜地方海難審判理事所では、タラルド・ブロビーグの水先のため乗船していた水先人、第一宗像丸の前任船長等から事情聴取を行ったほか、発生翌日の19日には、衝突地点付近において消火作業中の第一宗像丸及びブロビーグの両船について、実地検査を行った。その後10回にわたる検査を行い、12月14日本件の発生原因に係わりがある者として、タラルド・ブロビーグの水先業務に携わっていた水先人を受審人として、横浜地方海難審判庁に審判開始の申立を行った。
 しかし、その後、審理の過程で新たに受審人及び指定海難関係人の追加が行われ、最終的には、受審人として水先人のほか、第二鶴洲丸船長、第十八鳳生丸船長、指定海難関係人として太平丸甲板員、第一宗像丸運航管理者、第三管区海上保安本部長がそれぞれ指定された。

横浜地方海難審判庁の審理経過
 横浜地方海難審判庁では、本件が原因探究の困難な事件であるとして、参審員の参加を決定して第1回審判を昭和37年12月22日開廷し、重ねること20回の開廷をもって結審した。その間証人尋問15人、実地検査2回が行われた。
 昭和39年6月10日横浜地方海難審判庁で行われ、当裁決に対し不服があるとして、理事官、水先人、第二鶴洲丸船長からそれぞれ第二審の請求が行われた。

高等海難審判庁の審理経過
 高等海難審判庁では、原審と同じく参審員の参加を決定して、第1回審判を昭和40年8月12日開廷し、第7回の審判をもって結審となり、昭和41年5月31日に言渡された。
第二審の裁決要旨は次のとおりである。

裁決

(船舶の要目)
船種船名 機船第一宗像丸 機船タラルド・ブロビーグ
総トン数 1,972トン 21,634トン
長さ 87.00メートル 209.06メートル

 (関係人の明細)
受審人 タラルド・ブロビーグ水先人 第二鶴洲丸船長 第十八鳳生丸船長
指定海難関係人 第一宗像丸運航管理者 機附帆船太平丸甲板員 第三管区海上保安本部長

 (損 害)
第一宗像丸 左舷中央部外板破口、 火災の結果機関室油倉を除く他の区画ほとんど焼損、36名水死
タラルド・ブロビーグ 船首右舷側外板破口、 船首楼、 船尾楼、 船員室倉庫焼損、1名死亡
太 平 丸 爆発により損傷、 1名死亡、 1名水死
宝 栄 丸 宝栄丸全焼、 2名死亡

主文
 本件衝突は、第一宗像丸船長及びタラルド・ブロビーグ水先人の運航に関する各職務上の過失に因って発生したものである。

理由
 京浜運河は、京浜港横浜第4区に属し、横浜市鶴見区末広町2丁目から川崎市浮島町にいたる埋立地と対岸の扇島埋立地及びその東方に連なる防波堤との間に東西にわたって横たわる長さ約7,500メートル、幅500メートルないし600メートルの水域で、1万トン級船舶の通航を目途として開削され、同運河附近一帯の埋立地には、産業の発展に伴い、発電、製粉、造船、ガス、製鉄、製油などの工場やガソリンの油槽所、LPGの貯蔵所などの施設が建設されて本邦屈指の臨海工業地帯となった。
 また、同運河から北方に向けて分岐する旭、境、田辺、池上、塩浜、大師の各運河は、枝運河として同工業地帯の奥部に通じ、かつ、水路で互いに連結されているので、多数の船舶が京浜運河を経由してこれらの枝運河や水路にも出入するようになり、中でも近年特に需要のふえた原油、ガソリン、LPGなどの危険物を積載した船舶の航泊するものが飛躍的に増加した。
 そのうえ京浜運河の東口は、水深が浅くて軽喫水の小型船しか通航できず、また、川崎第10号燈浮標以東大師運河にいたる間の京浜運河もその南側は水深が浅く、川崎第10号、同第12号、同第14号及び同第16号の各燈浮標を設置して同浅所の北縁を表示し、そのため航路筋の幅は280メートルばかりにせばめられ、更に扇島桟橋は、その東方のK1係船浮標とともに、扇島埋立地から100メートルばかり沖合の同運河内に設けられているため、同所附近の航路筋の幅は長さ約600メートルにわたって400メートルばかりにせばめられ、京浜運河における船舶交通の混雑に拍車をかけていた。
また、前記各枝運河の入口、指定バースを連絡してくれる鶴見見張所及び京浜運河沿いの桟橋の大部分が、同運河の北側にあることから、小型船にとって同運河の北岸寄りのところを航行する方が好都合で、自然その航路の左側に偏して東行するものが多く、同航路筋の右側を西行する他船と行き会い関係を生ずることになり、かつ、各枝運河は幅が狭く、その方向が京浜運河に対してほぼ直角で、分岐点附近には高い建築物やタンクなどが建ち並んでいるため、枝運河を出航する船舶と京浜運河を航行する船舶とが、前広に視認しあうことが困難な状況になっていた。
 これらのことは、船舶の交通に混乱を生じやすくさせ、また、危険物積載船が他船と衝突し、あるいは他船の火気から引火して火災や爆発を起こす危険も潜在しており、更に工場の煙突から排出する煤煙によって煙霧が発生し、視界がせばめられて航行上の妨げとなり、その傾向は朝夕に著しかった。
 第三管区海上保安本部長は、昭和37年3月5日に就任し、爾来京浜港長を督励して各船舶に対し港則法をはじめとする関係法令の遵守を要望するほか、航法違反船の取締り、航行の管制、危険物積載船に対する監督の強化、港内船舶の火気取締り及びえい航の制限など港内における船舶交通の安全と港内の整頓に努めてきたが、交通量の増加に応ずる巡視船艇や人員、信号所その他の施設の不足などもあって、その混乱を十分取り締まるまでにはいたりえなかった。
 ことに京浜運河は、境運河を境にして、東側は、いわゆる川崎港と称される川崎市の港湾区域に、西側は横浜市の港湾区域になっていて、両市の港湾管理者がそれぞれ直接管理にあたっており、特に前者は、近年工業港として急激な発展をみせ、これに伴う船舶交通量の増加及び船舶の大型化に港湾施設が追いつかない状況で、隣接の横浜市においても、川崎市の発展に歩調を合わせて計画性のある港湾管理運営にあたってはいたが、管理者として根本的に解決しなければならない重大問題が多く、かつ、横浜第4区においては、両市が直接運営する桟橋は川崎市営埠頭があるだけで、他はすべて民間会社の専用バースになっており、したがって着岸、離岸の指示などは、各社が思い思いに行なっているありさまで、これらのことは、船舶交通の混乱と無秩序をきたすもとにもなっていたが、危険物取扱施設及び危険物積載船専用水面の分離、沖合係留施設の採用及び油艀専用泊地の設置、陸上及び海上における化学消防施設の強化、海底堀下げによる航路筋の拡張並びに煤煙対策などとともに、第三管区海上保安本部長だけの権限では処理できない問題であって、港内における船舶交通の安全及び港内の整頓についての施策が遅れがちになるのを防ぎえない状態であった。
 元来川崎第10号燈浮標以西の京浜運河の南側にも浅所があったので、昭和29年12月10日同浅所の北縁を表示する川崎第4号燈浮標が設置されたが、扇島原料センター岸壁に大型船を着岸させるため同岸壁前面の海底を堀り下げる、工事の妨げになる同浮標の移設方を申請し、これにより第三管区海上保安本部においては、同37年2月14日同燈浮標を扇島埋立地東端の三角点から253度半1,010メートルのところに一時移設し、これを同月24日水路通報で告示し、その後掘下げ工事が終わったけれども、同燈浮標を元の位置に復すると、今度は同岸壁に着岸する船舶の操船上のじゃまになるというので、そのままにしていた。
 他方第2港湾局は、昭和35年度及び同36年度において、川崎第10号燈浮標以西の京浜運河南側の浅所を水深12メートルに掘り下げ、海上保安庁水路部が、同37年3月から同年4月にかけて同堀下げ区域の水深測量を行ない、同年7月14日水路通報をもって海図の改補を告示し、これにより同海上保安本部では、一時移設中の川崎第4号燈浮標が不用になったので、他に転用することを考慮していたが、航路標識法に基づく航路標識の廃止告示を行なっていなかったため、同燈浮標は、たといその存在意義を失ったとしても、有効な航路標識で、その浮標式が偶数番号を付した紅塗り浮標であるからには、京浜運河の航路筋の南側の限界を示す右舷浮標であることにかわりはなく、したがって鶴見防波堤燈台から川崎第10号燈浮標にいたる間の京浜運河の航路筋の北側線は、同運河の北側埋立地の南側に沿う10メートル等深線で、その南側線は、同燈台の北方約10メートルのところ、扇島桟橋北西側、同桟橋北東端、K係船浮標、川崎第4号燈浮標及び同第10号燈浮標を順次結んだ線であった。
 第一宗像丸(以下単に宗像丸という。)は、運航管理者がこれを裸用船し、同船のほかに自社船である第三、第五及び第六宗像丸を運航していた。
 宗像丸は、昭和37年11月14日午後4時30分ガソリン3,642キロリットルを載せ、山口県徳山を発して京浜港に向かった。
 こえて18日午前2時30分同港横浜区鶴見防波堤燈台からほぼ南2分の1東1,300メートルばかりのところに投錨仮泊のうえ、同7時46分ごろ抜錨して同所を発し、川崎市水江町の桟橋に向かった。
 抜錨すると直ちに機関を1時間約4海里の微速力前進にかけ、その後は機関を種々に使用し、同8時ごろ鶴見防波堤信号所を右舷側ほぼ南微東2分の1東140メートルばかりに通過して機関を微速力前進、つづいて1時間8海里ばかりの半速力前進にかけ、同時1分ごろ微速力前進に減じ、船首を徐々に右転して京浜運河に入り、同時6分ごろ同信号所からほぼ北東830メートルばかりのところで同運河に沿うほぼ東北東に針路を定め、航路筋のほぼ中央を進行した。
 これより先、宗像丸の後方をこれと同航していた第十八鳳生丸(以下単に鳳生丸という。)は、同時4分ごろ鶴見防波堤信号所を右舷側ほぼ南微東2分の1東140メートルばかりに通過して機関を1時間約9海里の半速力前進にかけ、船首を徐々に右転して京浜運河に入り、同時6分少し過ぎ、同信号所からほぼ北東2分の1北600メートルばかりのところで先航する宗像丸に向首するほぼ東北東の針路にしたところ、しだいに同船に近づくので、同時6分半ごろ鳳生丸船長は、機関を1時間約6海里の微速力前進に減じたが、同船を追い越すことに翻意し、同時7分ごろ機関を半速力前進に復するとともに針路を少し左転し、同時8分半ごろ横浜市鶴見区安善町2丁目埋立地南東角からほぼ南西微南450メートルばかりのところにおいて、宗像丸を右舷側50メートルばかり隔てて追い越し、原針路にもどして進行中、同時9分少し過ぎ、前記埋立地南東角からほぼ南微西2分の1西320メートルばかりのところに達したとき、ほぼ正船首1,000メートルばかりのところに引き船富士丸を認め、自船が田辺運河に入航するのと富士丸を右舷側にかわすため船首を1点左転し、ほぼ北東微東の針路として続航したところ、前方から機附帆船が来航するのと、富士丸と右舷を相対し6、70メートル隔てて航過できる態勢になったので、同時10分ごろ埋立地南東角からほぼ南東微南2分の1南210メートルばかりのところで、船首を約2分の1点右転したとき、右舷船首約1点1,000メートルばかりのところに、タラルドブロビーグ(以下単にブロビーグという。)の船橋を、ついでその船体を認め、同時12分ごろ川崎市大川町埋立地南東角からほぼ南南西200メートルばかりのところにおいて、同船と互いに右舷を対し150メートルばかり隔てて航過し、間もなく自船は、左舵を取って田辺運河に入航した。
 また、宗像丸の後方をこれと同航していた第二鶴洲丸(以下単に鶴洲丸という。)は、同時5分ごろ鶴見防波堤信号所を右舷側ほぼ南微東2分の1東150メートルばかりに通過して機関を1時間約10海里4分の3の全速力前進にかけ、船首を徐々に右転して京浜運河に入り、同時6分ごろ同信号所からほぼ北北東470メートルばかりのところにおいて、先航する宗像丸を船首少し右舷に望み、同運河に沿うほぼ東北東の針路として進行し、同時9分少し前、鶴見見張所を左舷側200メートルばかりに通過したとき、鶴洲丸船長は、機関を停止して同見張所からバースの指定を受け、同時9分半ごろ機関を1時間5海里ばかりの微速力前進にかけ、原針路のまま航路筋の左側に偏して続航した。
 同時10分ごろ鶴洲丸船長は、安善町2丁目埋立地南東角からほぼ南微西4分の3西300メートルばかりのところにおいて、宗像丸を右舷側約60メートルを隔てて追い越し、同時10分半ごろ同埋立地南東角からほぼ2分の1西240メートルばかりのところに達したとき、右舷船首約2分の1点1,000メートルばかりにブロビーグを認め、同船と宗像丸とがほとんど真向かいに行き会う態勢にあるのを知り、ブロビーグが宗像丸を避航するため船首を右転してきた場合には、自船は左舵を取ってこれを避ければよいと思い、依然航路筋の左側に偏したまま、鳳生丸の後方を同一針路で進行のうえ、同時13分半ごろ前記埋立地南東角からほぼ東4分の3南420メートルばかりのところで、ブロビーグと互いに右舷を対し約80メートルを隔てて航過し、その後川崎市夜光町の桟橋に係留した。
 このようにして鳳生丸と鶴洲丸とに追い越された宗像丸においては、同時11分ごろ船首少し右舷900メートルばかりのところ(宗像丸の船首、船橋間の距離は約62メートル、ブロビーグは約77メートルである。)に京浜運河を出航中のブロビーグの船橋を見る態勢になったとき、宗像丸船長は、機関を停止したが、航路筋の右側につくことなく、同時12分ごろ機関を再び微速力前進にかけて同一針路のまま続航し、同時13分ごろ船首少し右舷300メートルばかりのところに相手船の船橋を望む態勢になったとき、相手船を左舷側にかわそうとして右舵一杯を令し、短音1回の針路信号を行ない、同時13分半ごろ船首が右転しはじめたとき、更に短音1回を鳴らしたが、同時14分半ごろ航路筋のほぼ中央、すなわち川崎市安善町2丁目埋立地南東角から115度370メートルばかりのところにおいて、ブロビーグの船首が、ほぼ東微南4分の1南に向首した宗像丸の左舷中央部に前方から約3点の角度で衝突した。
 また、ブロビーグは、油送船であるが、川崎市浮島町の桟橋に右舷側を横づけして入り船に係留し、原油を揚げたあとの油倉にバラストとして海水約1万2,500トンを入れ、同日午前7時35分同桟橋を発し、サウジアラビア国ラスタヌラに向かった。
 水先のため乗船した水先人は、解らんすると直ちに船首にとった富士丸と船尾にとった関東丸とに引かせ、機関と舵を種々に使用して大師運河を後退し、川崎第16号燈浮標の北側水域で左舷回頭を行ない、同時50分ごろ船首が西方を向いたとき、関東丸を放し、同時51分ごろ機関を1時間7海里2分の1ばかりの微速力前進にかけ、同時52分ごろ同燈浮標から280度420メートルばかりのところに自船の船橋がきたとき、富士丸を放し、千鳥町埋立地南岸沿いにこれを200メートルばかり隔てるほぼ253度に針路を定めた。
 そのころ煙霧がかかっていたので、船長は、船首に一等航海士を立てて見張にあたらせ、富士丸はブロビーグの右舷船首約150メートルのところを、関東丸はブロビーグの右舷船尾100メートルばかりのところを、それぞれその態勢を保ちながら同航した。
 同時55分半ごろブロビーグが川崎第14号燈浮標を左舷側150メートルばかりに通過したとき、水先人は、ほぼ242度に、同時59分半ごろ同第12号燈浮標を左舷側約150メートルに通過したとき、ほぼ240度に各転針し、同8時5分ごろ同第10号燈浮標を左舷側約100メートルに通過したとき、242度に転針のうえ、航路筋の左側に偏して続航し、同時9分半ごろ同第4号燈浮標を左舷側100メートルばかりに通過したが、航路筋の右側を航行すれば右方にあたる枝運河から出航して来る他船を突然近距離に認めた場合、自船が大型船で操船が意のようにならないのでその進路を避けることができず、京浜運河の北岸から約100メール以内の水域には、多数の艀や引き船列が航行していて、これらの船舶との衝突のおそれがあり、また、同北岸に係留している船舶の係船索を破断する心配があるばかりか、多くの船舶が航路筋の方へ錨を投じていることなどもあって、航路筋の右側を航行することに危険を感じ、同燈浮標のところから、しだいに幅の広まる航路筋の中央に向く同一針路のまま進行した。
 同時10分ごろ水先人は、安善町2丁目埋立地南東角からほぼ78度1,020メートルばかりのところに達したとき、ほぼ正船首1,250メートルばかりのところに煙霧の中から現われた宗像丸を、その右方にあたりに鶴洲丸を、また、同船の手前に鳳生丸をそれぞれ認め、いずれも入航して来ることを知り、これら各船の動向を見きわめるため、機関を1時間約4海里2分の1の最微速力前進に減じたところ、その後宗像丸とはほとんど真向かいに行き会う態勢のまま近づいたが、このような場所では自船が大型船なので舵を使って相手船を避譲することは困難と考え、同時11分ごろ機関を停止した。
 同時12分ごろ水先人は、船首少し右舷620メートルばかりのところに宗像丸を望み、鳳生丸と右舷を相対し約150メートルを隔てて航過したとき、機関を再び最微速力前進にかけたところ、船首少し左舷近距離のところに来航する引き船列を認めて直ちに機関を停止し、同時13分ごろ船首少し右舷340メートルばかりのところに宗像丸の船首を見る態勢になったとき、はじめて衝突の危険を感じ、機関微速力後退、つづいて全速力後退を令するとともに短音3回の針路信号を行なったところ、同時13分半ごろ船首少し右舷200メートルばかりのところに宗像丸の船首を望み、鶴洲丸と互いに右舷を対し約80メートルを隔てて航過したとき、宗像丸が短音1回を吹鳴し、その船首が右転しはじめ、自船の前路に向けて進出して来るのを認め、直ちに右舷錨を投じ、錨鎖一節余りを延出してこれを引き、一方船長は、緊急全速力後退を令して短音3回を吹鳴したが、船首がほぼ245度を向いたとき、前示のとおり衝突し、機関を停止した。
 水先人は、自船の船首が相手船の舷側に食い込み、破口からガソリンが流出しているのを認め、両船を引き離さずにおいた方が積荷の流失を防ぎ、かつ、火災発生の危険が少ないものと考え、富士丸の無線電話で東京湾水先人組合事務所に事故の発生を知らせ、その間船橋で指揮をとっていた船長は、同時22分ごろ機関を微速力後退にかけ、両船を分離しようと試みたけれども成功せず、流出するガソリンから火災が発生するのをおそれ、同時22分半ごろ機関を停止した。
 他方宗像丸においては、第4番左舷油倉から第5番左舷油倉にかけての舷側外板に生じた喫水線上の破口部からガソリンが勢いよく流出しはじめたが、同時14分50秒船長は緊急通信を発し、同時16分「SOS、第一宗像丸横浜沖より川崎沖シフト中、京浜港4区鶴見火力発電所にて外国船と衝突、本船ガソリン満載につき発火のおそれあり、附近船注意請う、ダイナモ停止、補助にて発信中」と発信し、引きつづき、「SOS、本船今タグにて引っぱっていますが、外国船が突っ込んでますから離れません、ガソリンが附近に流れ出し危険です、よろしく」と発信し、同時21分「SOS、乗組員は無事だが、油が流れているので他船の通航を止めてほしい」と発信し、これらの通信は、第三管区海上保安本部通信所で受信され、同本部警備救難部を通じて第三管区海上保安本部長及び京浜港長に報告され、同時20分同港長は、巡視艇あやめ及び同さつきに出動を命じ、第三管区海上保安本部長は、同港長のとった措置を確認した。
 これより先、太平丸は、B重油に160キロリットルを載せ、同日午前7時30分ごろ、横浜市鶴見区大黒町を発し、東京に向かったが、発航時船長が健康上の理由で下船していたので、同船機関長、甲板長及び甲板員が乗り組み、機関長が操舵して京浜運河に入り、本件衝突の発生した時刻には、鶴見防波堤信号所からほぼ北北東300メートルばかりのところを機関を1時間5海里ばかりの全速力前進にかけて東行していたが、宗像丸の破口部から流出したガソリンが、さえぎるものもないまま風潮の影響により約100メートルの幅で同船の南南西方200メートルばかりのところまで拡散して海面に進入したため、ガソリン・ガスが操舵室に入り込み、同時23分半ごろ前示衝突地点からほぼ南微西2分の1西150メートルばかりのところにさしかかったとき、たまたま同室内にあったなんらかの火気から引火して爆発し、同室の屋根や窓ガラスを吹き飛ばし、たちまち海面に浮いているガソリンに燃え移って火災になった。
 船尾甲板下の船員室で朝食の用意をしていた甲板員は、同室船尾側の出入口から顔を出していたため、火災になると同時に左舷側から火焔を浴びて右頬に火傷を被り、驚いて同室から出ようとしたけれども、自船の周囲の海面が炎上しているので、そのまま室内に閉じこもっているうち、火災を起こしている海面を通り過ぎたのに気づき、急いで甲板上に飛び出したところ、機関長が全身に火傷を負い、操舵室わきの甲板上にいた甲板長が、顔面に火傷を被って海中に転落しているのを知り、操舵装置に故障を生じた太平丸は扇島岸壁にたどり着き、機関長と甲板員は、他船に救助されて病院に収容された。
 このようにして太平丸から発生した火災は、たちまちのうちにガソリンの拡散している海面一帯に広がり、宗像丸及び生ゴム65トンを載せて太平丸の後方を東行中の機附帆船宝栄丸に燃え移り、ついでブロビーグにも延焼したが、火災の発生を認めた宗像丸船長は、同時24分、「火が出た、退船する」旨の最後の遭難通信を発し、救命艇を降下するいとまがなかったので、他の乗組員とともに海中に飛び込んだけれども、ガソリンの炎上している海面から脱出できなかった。
 他方ブロビーグ船長は、同時26分ごろ機関を微速力後退、つづいて半速力後退にかけ、盛んに燃えている宗像丸から自船を離そうと試みたところ、自船が船尾を左方へふりながら右舷鎖を引いて後退し、前示扇島岸壁に接近するので、同時27分ごろ、ひとまず機関を停止したが、そのころ、ブロビーグの左舷側の火勢が物凄く、熱気とガスと黒煙のために消火作業が不可能であったばかりか、爆発の危険さえ予想されたので、退船命令を発し、救命艇を降下のうえ、同時35分ごろ船長、水先人及び乗組員は、同艇に移乗して退船した。
 これと前後して少数の乗組員は海中に飛び込み、その後ブロビーグは、前記岸壁の西端から9メートルばかり内方のところに船尾を接触し、なおも船尾が左方へふれ回っているうち両船が分離し、ブロビーグの左舷側と宗像丸の左舷側とが接して燃えつづけ、宗像丸の揚錨機が熱せられて制動装置がきかなくなったため、安善町2丁目埋立地南東角から南東2分の1東450メートルばかりのところで同船の両舷錨が自然に落下し、ブロビーグの左舷錨も揚錨機の制動装置が焼損して自然に落下した。
 第三管区海上保安本部通信所においては、宗像丸の発した前示最後の遭難通信を受信し、一方京浜港長は、同時25分ごろ鶴見防波堤信号所から火災発生の報告を受け、直ちに消防艇おとわ及び同なちを現場に急派し、同時26分同信号所にOG旗(港は閉塞せりの意)と6信旗(入出航を禁止するの意)を掲揚させ、同時30分ごろ横浜、川崎両市の消防局に事故発生を通報して消火作業の協力方を要請するとともに、関係先に流出油除去作業について指示し、同時40分横浜、川崎両市港湾局、東京湾水先人組合、船主会、横浜、川崎海難事故防止会などに鶴見航路の入出航が禁止されたことを通知した。
 また、陸上においては、同時30分から同9時18分までの間、安善町2丁目、大川町及び扇町の各埋立地に川崎市消防局及び川崎臨港消防署の化学消防車等10台及び救急車2台などが護岸警備に出動し、海上においては、海上保安庁の消防艇及び巡視艇、横浜市2隻、東京都4隻及び米軍3隻の各消防艇のほか引き船など20隻に上る船艇が消火活動に努めた結果、同日午後0時45分ごろ第一次消火に成功し、翌19日午後1時40分ごろブロビーグが、同4時45分ごろ宗像丸が、それぞれ完全に鎮火した。
 衝突及び火災の結果、宗像丸は、衝突箇所の外板の上縁の幅約3メートル高さ4メートルばかりのくさび型破口を生じ、これに接するフレーム37番から同41番にかけての外板及び甲板を破損し、附随の諸要材を曲損するほか機関室及び油倉を除く他の区画をほとんど焼損した。
 ブロビーグは、船首材に接する右舷側外板の水面上約0.60メートルの箇所に幅約0.5メートル長さ1メートルばかりの破口を生じ、船首材からフレーム76番にかけての左舷側外板及び船首材からフレーム97番にかけての右舷側外板の水線上の部分78枚と附随の諸要材、船首楼、船尾楼船員室、倉庫及び救命艇1隻とをそれぞれ焼損するほか、岸壁との接触により船尾外板を破損した。
 太平丸は、前示爆発による損傷以外に、操縦室内囲壁を焼損し、宝栄丸は全焼したが、宝栄丸を除く他の3隻は、修理のうえ再用された。また、宗像丸では、船長以下36名の全乗組員が水死し、ブロビーグでは、機関部ポンプ・マンが一酸化炭素中毒で死亡し、太平丸では、機関長が火傷により死亡し、甲板長が水死し、甲板員が前示のとおり火傷を負い、宝栄丸では、船長及び機関長が死亡し、宗像丸はガソリン797キロリットルを流失した。
 本件発生後、京浜港長は、港長権限により鶴見航路の航行管制を強化するとともに横浜第4区からの出航制限の措置をとり、船舶交通の安全を図る目的で遊漁船などの航行、停留禁止区域を設定し、海難防止対策の一環として港則法及び関係法令の周知徹底に努め、船舶交通安全思想を広く関係業者及び船員に普及させるための説明会を催し、船舶保安対策委員会を結成して港内の船舶交通安全対策の樹立及び研究を行ない、港湾管理者及び石油会社などに対して消防体制の強化と火気取締りの徹底を要望し、昼間は京浜運河に巡視艇を出勤させて航法の指導及び法令違反の取締りに当たらせ、また、川崎第4号燈浮標については、同年12月25日廃止した旨の告示がなされ、同月26日港則法施行規則の一部が改正されて、従来の航行管制がいっそう強化され、翌38年4月1日京浜運河東口に川崎航路が新たに設けられて大型船の通航が可能になった。
 ブロビーグ水先人は、原審判庁における裁決言渡後、昭和39年7月15日業務を廃止したので、その事由を記載した書面を添えて水先免状を運輸大臣に返納し、翌40年7月12日同人の免許の効力が失われたので、同日水先人名簿の登録が抹消された。

 本件衝突は、第一宗像丸船長が、狭い水道である京浜運河を東行する場合、海上衝突予防法第25条第1項の規定に違反して航路筋のほぼ中央を進行し、かつ、他船に近づいてから針路を右転し、その前路に進出した同人の運航に関する職務上の過失及び水先人が、タラルド・ブロビーグを水先して京浜運河を西行する場合、海上衝突予防法第25条第1項の規定に違反して川崎第4号燈浮標附近においては航路筋の左側を進行し、同燈浮標のところから、しだいに幅の広まる航路筋のほぼ中央に向く針路のまま続航した同人の運航に関する職務上の過失に因って発生したものである。

 第二鶴洲丸船長及び第十八鳳生丸船長が、京浜運河を東行するにあたり、いずれも海上衝突予防法第25条第1項の規定に違反して航路筋の左側を進行したことは遺憾であるが、本件発生の原因とならない。
 太平丸甲板員及び宗像丸運航管理者の各所為は、ともに本件発生の原因とならない。
 第三管区海上保安本部長が、川崎第4号燈浮標が存在意義を失っていたのに撤去に手間取り、そのためにK1係船浮標、川崎第10号燈浮標間の京浜運河の航路筋の幅を多少せばめていたことは遺憾であるが、これをもって、本件発生の原因をなしたものとは認めない。
 太平丸の操舵室内にあったなんらかの火気により同室内に侵入していたガソリン・ガスに引火して爆発の起きたことは明白であるが、その火気がなんであったかを認定するに足る証拠がないので、火災の原因を明らかにすることができない。
 京浜運河における船舶交通の混雑緩和及び航法違反防止のため、川崎第10号燈浮標以東の浅所の掘下げが喫緊事であることは、いうまでもないが、港内の安全を期するうえからも、信号施設を強化するとともに、航法違反や火気取扱いについての指導取締りに当たる巡視船艇とその要員を確保し、原油、ガソリン、LPGなどの危険物積載船の火災に対処しうる化学消防艇を充実し、危険物積載船の操船を援助する引き船に初期消火に有効な化学消防施設を設け、油拡散防止せきを備えておくことが望まれ、また、油送船の火災拡大防止及び消火、流出油対策上から、ボイド・スペースの利用法の研究及び個々の油倉、特に大型船における舷側油倉の容量制限の必要性が強調され、流出油による海面火災に対しては、脱出用の特殊救命艇などの開発が要望され、将来造成される埋立地に石油コンビナートのような危険物を取扱う施設を建設する場合には、他の施設から分離するようにし、危険物積載船のうち、大型船については沖合係留施設を、小型船については専用泊地の採用が切望される。

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