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機船ぼりばあ丸遭難事件 ぼりばあ丸(総トン数33,768トン)が、ペルー国サンニコラスで1番、3番及び5番各船倉に計53,746トンの鉄鉱石を積み込み、2番及び4番船 倉を空倉のままとし、昭和43年12月10日同地を発して京浜港川崎区に向かい、針路を西北西として航行中、翌44年1月4日夕刻から風力8の西ないし西 北西風を左舷船首から受け、8.7ノットの平均速力で続航し、翌5日午前10時30分野島埼南東沖合において、突然船体が2番船倉付近から折損し船首部分 が脱落して航行不能となり、機関を停止して遭難信号を発し、救命艇降下の準備中、同11時27分船首を下にして沈没した。 付近を航行中の貨物船健島丸が、遭難信号を受信して現場に急行し、漂流していた二等機関士と司ちゅう員1人を救助したが、船長ほか乗組員30人が行方不明となった。 建造後3年3箇月余りの大型貨物船が、船体を折損して沈没するという事実は、海運、造船界は勿論のこと世間を大いに驚かせた。 本件については、昭和47年11月28日横浜地方海難審判庁で第一審の裁決があった。 横浜地方海難審判理事所の調査経過 横浜地方海難審判理事所は、ぼりばあ丸に関する情報の収集を行う一方、船舶所有者等から同船の乗組員名簿、一般配置図、修理関係図など関係資料の取り寄 せを行い、また、本件は、大型船の船体折損という海難だけに、その調査は、本船の建造計画、船体構造強度及び工作、船の運航状況など多方面におよび、証拠 の収集にはかなりの時間を要することとなったが、造船所の船舶事業本部の関係者や船主の工務、海務、船員部の関係者、ぼりばあ丸の乗船経験者で歴代の船 長、機関長などの乗組員、ぼりばあ丸遭難の救助に向かった救助船の乗組員など多くの関係者から事情を聴き、さらに、実地検査は、ぼりばあ丸の揚収品、ぼり ばあ丸の救命艇の船体及び艤装状況について行われるなど、3回の実地検査が実施された。 審判開始の申立は、発生から8か月後の昭和44年9月5日に行われ、重大事件の申立としてはかなりの日時を要したことになったが、それだけ調査が困難であったこと及び証拠の収集が多岐にわたったことから、申立が遅れたものである。 証拠の収集は申立後も活発に行われ、新たな関係者に対する質問調書や既に聴取済みの関係者に対する再度の質問調書が提出されたり、更には、神戸商船大学 航海学科助教授に「波浪状況について」、九州大学工学部教授に「ぼりばあ丸貨物倉二重底及び船側構造の強度について」の鑑定を依頼して、同鑑定書を証拠と して提出したほか多くの書証が提出された。 審判開始の申立を行った理事官は、本件が原因探究の困難な事件であるとして、参審員の参加を請求するとともに、本件の発生原因に係りがあった者として、 ぼりばあ丸二等機関士を受審人に、船舶所有者及び造船所を指定海難関係人にそれぞれ指定して、横浜地方海難審判庁に審判開始の申立を行った。 横浜地方海難審判庁の審理経過 横浜地方海難審判庁では、早速参審員の参加を決定すると、第1回審判期日を昭和44年12月17日開廷された。 本件は、造船大国日本で建造された大型船舶の海難審判だけに、世間の関心が高く、横浜地方海難審判庁の審判廷には、報道関係者約20名、一般傍聴者約70名が詰めかけた。 本件は、荒天化における不可抗力なのか、運航上のミスなのか、船体構造上の問題なのか、ということで審理内容も多方面にわたり、従って審理期間も2年9 か月の長きを要し、その間の審判開廷回数は39回の多くを要することとなり、審理開始から実に3年余を経過した昭和47年11月28日裁決言渡の運びと なった。 その間証人尋問23回、実地検査3回を行ったほか、鑑定依頼が、審判庁から船体構造に関して2件、理事官から波浪と船体構造に関して各1件の計4件が出 されるなど、これまでの審判ではみられなかった審理の困難さが見られた。しかしながらそれを乗り越えて裁決が行われ、裁決書は、534ページに及ぶ分厚い ものとなった。 横浜地方海難審判庁で言渡された裁決の要旨は、次のとおりである。 裁決 (船舶の要目)
(関係人の明細)
(損 害)
主文 本件遭難は、ぼりばあ丸が鉄鉱石を貨物倉ひとつおきに積載した場合、船側構造及び二重底の各強度が不足していたところ、バラストタンク内が予想外に腐食 し、船体主要鋼材の腐食衰耗箇所に応力集中をきたした結果、第2番貨物倉付近において折損するにいたったものと考えられるが、船体の折損状況を確認でき ず、他方では、その他の原因が単一または重畳して船体、折損にいたった可能性も考えられ、結局、本件の発生の原因を断定することができない。 理由 ぼりばあ丸が建造された当時の海運界をとりまく社会情勢及び本船の建造経緯等は、次のとおりである。 昭和38年7月1日我が国海運の国際収支の赤字改善と海運企業の体質強化を図るため、「海運業の再建整備に関する臨時措置法」並びに「外航船舶建造融資 利子補給及び損失補償法及び日本開発銀行に関する外航船舶建造融資利子補給臨時措置法の一部を改正する法律」の、いわゆる海運再建二法が制定公布された が、これを追って同年末ごろ、翌年春に予定されていたIMF8条国移行、更にOECD加盟を控えて国際収支の一層の改善が論議され、政府はこの改善策の一 環として貿易外収支のうち最も比重の大きい海運関係国際収支の改善を図るため、大量の外航船舶建造を改めて検討することとなった。運輸省は、この方針に基 づき海運国際収支改善の目標、これに必要な船腹量、所要資金、船腹拡充計画遂行のための措置などについて検討を進めていたが、同39年2月27日次のよう な「海運国際収支改善策」を発表した。 ■昭和42年度において貨物運賃収支を均衡させる。 ■このため39年度から42年度央までに538万総トンの外航船舶を建造する。 ■所要資金は、すでに手当ずみのものを除いて約3,234億円である。 ■船腹拡充計画遂行のための措置として船台の確保、船価の低減、開銀融資方針の再検討、邦船の効率的使用などが必要である。 この改善策は、前示海運再建二法とともに第20次計画造船以降の飛躍的な新造船腹拡充の推進力となったものである。 一方、造船界においても技術革新の波が押し寄せ、船舶の巨大化、専用船化、高速化、自動化等の要望が一時にわき上がり、ばら積貨物船については、従来船 倉部がトップサイドタンク、船側肋骨、ビルジホッパー二重底及び前後の隔壁によって囲まれる船型で、比較的小型のものは建造されたが、船の長さが200 メートルを超える大型船は、国内船としてはまだ建造されておらず、昭和39年第20次計画造船において建造トン数が飛躍的に増大した際、大型ばら積貨物船 に鉄鉱石など比重の大きい鉱石をも積載できる、いわゆる多目的ばら積貨物船が建造されるようになり、ぼりばあ丸はこの種貨物船の第一船として、指定海難関 係人船舶所有者の発注により、指定海難関係人造船所東京第二工場において建造された。 また、本船の事故に至るまでの運航模様は、次のとおりである。 ぼりばあ丸は、40年9月13日完工のうえ造船所に引き渡され、アメリカ合衆国、ペルー国、オーストラリア国等と日本との間に石炭及び鉄鉱石の輸送に就航した。 昭和43年10月18日相生工場において第二種中間検査に伴う修理工事を終え、試運転を終了した同日午後5時空倉のまま相生を発し、グラッドストンを経 てタコマにいたる第25次航の途につき、こえて23日台風21号に遭遇したので、適宜減速し、また、針路も種々に変えながら進行したが、空船航海であった ため船体が激しく動揺して炊飯することもできず、この時の荒天は本船が就航後遭遇した荒天のうちで最大のものであり、23日午前3時から同5時までの間の 最大風速はほぼ55ノットに達した。 同台風が通過したのち、船尾機関室附近にある清水タンクのタンク底板等に長さ約100ミリなどのき裂を発見し、航行中及びグラッドストン入港時にそれぞ れ機関部員の手により溶接修理を施工しタコマに向かったが、この航海では、風力7以上のしけにはあわず同地に翌11月19日入港して第25次航を終えた。 次いで本船は、空倉のままサンニコラスに向け第26次航の途につき、出港後船倉内に荷役による損傷を発見したので、機関部員の手により溶接修理を施工 し、甲板部員の手により倉底の掃除を行ない、平穏な航海を続けたのち、翌12月9日サンニコラスに到着した。同地で積載の鉄鉱石は、径1ないし2センチの ほぼ球状のAPPJペレットで、荷くずれのおそれはなく、その積付方法は、第2、4番倉を空倉とし、第1番倉に11,604ロンググトン、第3番倉に 24,185ロングトン、第5番倉に17,111ロングトンのオルト積みとし、計52,900ロングトン(53,746キロトン)を積載した。 こうして本船は、船長ほか32名が乗り組み翌10日サンニコラスを発して京浜港川崎区に向かった。 発航後順調な航海が続いたが、翌44年1月3日正午(本船時刻、以下同じ。)ごろ本船は、大陸から南西諸島を経て日本の南海上に張り出した高気圧の圏内 にはいったため、同日午後から風力5ないし6に増勢した季節風のなかを航行するようになり、本船は、船舶所有者あてに電報で、「5日朝川崎着予定」、つい で「5日午後3時着予定」、更に「6日正午着予定強風のため遅れる」との連絡をし、4日夕刻ころから風力8の西ないし西北西風を左舷船首に受け、ローリン グはほとんどなく、ピッチングはあったけれども、平均速力8.7ノットで航海を続け、5日午前10時30分ごろ北緯33度0分東経144度36分ばかりの 地点において、突然船体が第2番倉付近から折損し、本船は航行不能となった。 直ちに機関を停止し、同時に「遭難、遭難、本船位置北緯33度0分東経144度36分、フォックスル二つに折れた、前部沈没航行不可能、まもなく短艇に 乗り移る、直ぐ救助頼む」との発信をし、同時36分ごろ再び同様の発信をし、同時58分ごろ健島丸に対し、「2番ハッチより折損、1、2番ハッチ浸水現在 浮上しているが海没のうれいあり、総員非常配置退避準備した」と、同11時11分ごろ健島丸に対し、「船舶所有者本社に至急連絡頼む、2番ハッチより折 損、1、2番ハッチ浸水現在浮上しているが海没のうれいあり、総員非常配置準備した」と重ねて打電し、これに対し健島丸は、「今の電報承知した、すぐ本社 に連絡する」との返電を打ち、「貴船の煙突の色は何ですか」と尋ねたところ、「赤です」との応答があり、その後「本船は貴船の風下に回るからそちらのほう にボートを回して下さい」と発信したが、ぼりばあ丸からは応答がなかった。 これよりさき二等機関士は、同日午前10時15分ごろ起床し、ボートデッキの娯楽室通路に掲示してあるテレファックスニュースを読んでいたとき、突然船 橋あたりで一等機関士が「おもてが折れた、あれ見い」と大声で叫ぶ声が聞こえたので、娯楽室前面の左舷寄りの丸窓から前方をのぞいたところ、いつも見える フォアマスト、ウインドラス、船首楼の後壁、階段などが見えず、前部上甲板の断面から波が打ち上がっていたので、前部が落ちてしまったと思い、急いで自室 に帰って上着を着用し、身じたくしたうえ救命胴衣を手に持って室外に出た。そうしているうちに「何々浸水何々短艇部署につけ」との声を聞き、救命艇のとこ ろまで行ったが、そのときには甲板部員たちが救命艇降下作業を開始していた。 二等機関士は、とりあえず機関室に降り日誌類を持って上がり、自室に帰ってズボン下をはくなど耐寒の用意をしたのち、1号救命艇に日誌類を運び込んだ。 そのころほとんどの乗組員が救命胴衣を着装して救命艇の近くに集まっており、相前後して2号、1号救命艇が振り出され、乗組員は救命艇内に用具の積込にか かった。同11時ごろには来援中の健島丸の煙が左舷正横付近に見え、次第に近づいてくるのがわかり、そのころ2隻の救命艇は、まだキャビンデッキより上に あって、すぐ乗艇できる位置までは降下されていなかった。 こうしている間に船体が徐々に沈みつつあったが、乗組員たちは本船が沈没するなどとは思わず、キャビンデッキの後部に集まり救助船の近づくのを待ってい たところ、同時27分少し前突然ぎしぎしと異音がしはじめ、2号救命艇付近の乗組員のなかから「沈むんではないか」との声が上がり、そのとき船橋から 「ボートをおろせ」との指令が発せられた。直ちにめいめいの救命艇にかけ寄ったところ、その瞬間ギューッという音がして船体は急速に沈みはじめ、1号救命 艇のそばに集まっていた乗組員らは、前方への傾斜が大きいため救命艇を降下することができず、キャビンデッキの階段から上甲板後部のほうにかけ降り、二等 機関士は、船体の大傾斜のため前に進むことができず、そのままハンドレール越しに海中に飛び込み、同時27分ごろ本船は、前示船体折損地点付近において、 船首を下にして逆立ちの状態で沈没した。 二等機関士は、海中で渦に巻き込まれたが、やがて浮上して付近にあった救命浮環にすがり、それから転覆している救命艇に泳ぎつき、ローリングチョックに つかまって漂流中健島丸に救助された。二等機関士と司ちゅう員の2人は健島丸に救助されたが、船長ほか30名の乗組員はついに行方不明となり、のち死亡と 認定された。 本件遭難は、ぼりばあ丸が、鉄鉱石を貨物倉ひとつおきに積載した場合、第2番貨物倉と第3番貨物倉との境界付近において、ビルジホッパー斜板の上部にか なり広い範囲にわたって過大な剪断応力が発生し、この部分で降伏を生ずる可能性があり、また両倉の各中央における二重底肋板端部の剪断応力の値が過大で あって、この部分で降伏を生ずる可能性があり、更に両倉の各中央における船側肋骨下端の応力の値がかなり大きく、工作の不良等が重なればクラックを生ずる 可能性があったところ、3年3箇月にわたる就航中バラストタンク内が予想外に腐食し、船体主要鋼材の腐食衰耗箇所に応力集中をきたした結果、第2番貨物倉 付近において折損するにいたったものと考えられるが、船体の折損状況を確認することができず、他方では、鋼材の不正使用の疑いがあるほか、第1番燃料油タ ンクの送油口工事の不手ぎわ、溶接工作の不良等の原因が単一または重畳して船体折損にいたった可能性も考えられ、結局、本件発生の原因を断定することがで きない。 二等機関士の所為は本件発生の原因とならない。 船舶所有者及び造船所の各所為が本件発生の原因となったか否かについては、いずれも断定することができない。 海難防止上の要望事項 本件遭難に関連し、この種海難を防止するうえに必要と思われる事項は、次のとおりである。 ■新しい構造の船で基準に定められていないものを設計、建造するにあたっては、この種船舶の十分な運航実績を得るまでは積付方法、積載量等に慎重な配慮を 払うとともに精度の高い計算を行なうべきである。今日のような大型船が建造されなかった時代には、剪断応力の値は一般に小さく、剪断応力はあまり重要に考 えられていなかったようであるが、最近の大型船では船が大きくなった割には板厚が大きくならないため、剪断応力の値がかなり大きくなる場合が多い。今後大 型船を設計する場合には剪断応力の値にも十分注意する必要がある。 ■外力、特に波浪外力については、まだ十分に究明されていない分野があり、波浪に対する船体構造計算法のいっそうの精密化を図るため、実船による計測、模型船による実験、構造解析の応用等により、波浪外力全般にわたって実験的、理論的考察を進める必要がある。 本件遭難は、冬季北太平洋において例年起こり得るかなりのしけのなかで起こった海難であり、巷間には、予想もできない波浪外力、または波浪以外の特別の大 きな力が加わったためではないか、あるいは船体のどこかに構造寸法からは考え及ばない弱いところがあったためではないかとの説をなす者もいるが、事件を安 易に不可測のベールによって包み去ることは、いたずらに乗組員に悲惨な海難の結末のみを背負わせることになり、この種海難の原因探究に資することにならな い。当審判庁が船体強度に関する精密計算と同時に波浪外力究明の必要性を強調するゆえんもここにある。 ■船の運航は、いかなる場合においてもその性能に適応したものとする必要のあることは多言を要しないところである。かって漁船が木造船から鋼船に変わった とき、船の乗組員のなかには鋼船だから大丈夫とのばく然とした考えから、荒天の場合もしいて航海を続け、このため遭難が続発した例がある。船が巨大化した からといって、部材寸法はそれに対応した割合で増大しているわけではなく、波長が200ないし300メートルの海上では巨大船の方がむしろ危険にさらされ ることもあり、荒天に遭遇した場合には、巨大船といえども適宜変針、減速等の措置をとらなければならないことはいうまでもない。 ぼりばあ丸においては、台風21号に遭遇したときはもちろん、遭難時の航海においても、日本に近づき季節風の強吹する圏内にはいってからは、冬季北太平洋 において例年起こり得るかなりのしけであったので、慎重な配慮をして幾度かハンドルノッチを下げたことは優に肯認できる。 しかして気象庁の予報が必ずしも適中するとは限らず、ときには台風が自船針路の右を通過するか、針路線上を通過するか、あるいは左を通過するか、台風が間 近に接近するまで予測できないこともあり、船長はこれを入念に検討している時間的余裕がなく、また、不正確な外国の気象通報に悩まされることもしばしば経 験するところである。このような場合、船長の判断に反して自船が暴風圏内に突入しても、船体の強度についての明確な認識があれば、船長は自信をもって適切 な荒天操船を行なうことができ、乗組員は安心して物資の輸送に専念できるのである。 船が著しく巨大化した今日、造船所においても船が遭遇すると思われる風速、波浪等について船体強度上の具体的判断資料を提供し、設計者と運航者との密接な連絡を図り、乗組員の不安一掃に努めることを期待するものである。 ■バラストタンク等の電気防食については、随時点検、定期点検を行なって防食効果の実態を把握し、要すれば実績のある塗装をもってこれに代え、あるいは電気防食の方法を改善するなどの必要がある。 日本海事協会はこの点に注目して、塗装の要求範囲及び電気防食の基準を定め、昭和46年1月19日通ちょう71HC5RZをもって各支部長にこれを通知 し、更にその取扱について、同年3月25日通ちょう71HC54RZをもって各支部長に、「バラストタンク等の塗装及び電気防食の取扱要領」を通知した。 この通知は、やや遅かったうらみはあるが、適切な措置である。 ■水密隔壁の総数については、すでに説示したとおり日本海事協会が長年にわたる造船界の経験、実績によって規定したものであり、世界各国の船級協会の規定 も結論的には日本とほぼ同様である。日本海事協会は、船の強度が同等と認めた場合に水密隔壁の省略を承認しているが、その裏付けとなる精密な立体強度計算 を行なっているわけではない。 しかして水密隔壁の総数を減少して船倉が長くなると、鉄鉱石等比重の大きい貨物をオルト積みした場合には、船体の縦曲げによって生ずる最大剪断力及び船側 肋骨の下端における内側板の曲げ応力が著しく大きくなり、また、二重底の撓み、船底外板に生ずる船横方向の曲げ応力及び肋板端部の剪断応力も増加し、更に 載貨重量トン数が50,000トンを越え、船倉の数がぼりばあ丸と同じく5個のばら積貨物船では、船倉の長大化による損傷が少なからず発生しており、水密 隔壁の数と船の強度との関係が理論的にも究明されつつある。水密隔壁の数が少ないと荷役には好都合であろうけれども、いったん船体に損傷が発生した場合に は、浸水を抑止する障壁が少なく、沈没しなくともよい船が沈没する場合すらある。 人命尊重に関しては、船客と乗組員との間に軽重の差を設けるべきでなく、この面からは区画可浸の考えを国際航海に従事する旅客船に限定することなく、貨物 船にも及ぼすべきものと思料する。他方、油槽船が衝突、座礁などして貨物油倉に損傷を生じ、積載油が流出した場合には、水密区画の大きい船舶ほど港湾等に 甚大な損害を与えるおそれがあり、水密隔壁の総数は、荷役の都合の面からだけでなく、損傷発生の場合も含めて慎重に決定する必要がある。 ■船の検査については、従来期間を定めて検査が行なわれているが、最近では船の稼働率が大幅に向上したため、10年前に比べると船の航海時間は飛躍的に増大しており、それだけに部材の損耗も激しい。 したがって船の検査も航海時間に応じて実施するのが合理的であり、中間検査の際に内部検査を行なうなど検査基準を厳格にするのも、ひとつの方法である。 船が経済上の要求により著しく巨大化したため、検査には多大の労力を要し、限られた少ない日数で広い船内各部を入念に検査することは至難である。このため 検査は局部的になりがちであり、その際見落とされた損傷が大海難を惹き起こしかねず、用船契約上の制約等があるにしても、工事期間は船内各部の検査を重視 して決定する必要がある。 ■船の建造当時の図面、資料等の保存期間、保存方法等については、なんら規定されていないが、ぼりばあ丸のように新らしい構造の船で設計上基準に定められ ていないものの場合には、特に図面、資料等の管理を厳重にし、第2船、第3船の建造に直ちに役立ち得るよう、また、同型船あるいは類似船に事故があった場 合、調査活動に利するよう図面、資料等を一定期間保存することを義務づける必要がある。 ぼりばあ丸の基本設計の段階で作成された諸計算、仕様書、図面、カッテングプラン等が滅失してしまい、建造当時のミルシート、その他の資料が新造後はじめての定期検査の到来を待たずに廃却されたが、このような処置は、はなはだ遺憾なことである。 ■船の救命設備については、大きな海難が起こるたびごとに問題になるが、まだ十分有効な設備が開発されず、救命艇は波が高いと降下の途中で転覆するおそれ があり、また、ゴムボートは軽くて風に吹き飛ばされ、強風の場合にはあまり有効でないといわれ、結局、昔からの救命胴衣しか頼るものがない現状であり、そ の救命胴衣も寒い海中では短時間しか役に立たない。 最近安全かつ容易に船から離脱し、洋上に浮上し続けうるカプセル型救命容器、平服の上に着用して保温をはかり、長時間漂流できるような耐寒、耐水服等が開 発されつつあるが、これらの一日も早い実用化を望むものである。船は年々しかも急速に巨大化しつつあるが、乗組員の人命についても同様に深い考慮を払い、 船が荒天下沈没するようなことがあっても、人命だけは無事救助されるよう、救命設備面はもとより、総合的海難救助システムの確立を切望するものである。 |
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