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漁船第五十二惣寶丸遭難事件

 第五十二惣寳丸が、カムチャツカ半島南方沖合の漁場において、すけとうだら約95トンを漁獲したとき、大時化となったのでいったん操業を中止したが、やがて再開して新たに約90トンの漁獲物を得たことから、このうち50トンを魚仮置場に積み、残りの約40トン入りのコッドをスリップウエイに引き揚げたところ、著しい船尾トリムとなったため、漁獲物の一部を投棄したものの、右舷方からの大きなうねりにより船体が左舷に大傾斜し、多量の海水が船内に流入して昭和60年2月26日午後3時ごろ船体は横転、沈没した。
 乗組員は、膨張式救命いかだで脱出したが、船長及び甲板員1人が救助されたのみで、他の乗組員20人は死亡又は行方不明となった。
 本件については、昭和62年2月12日函館地方海難審判庁で裁決があったが、これを不服として、理事官から第二審の請求があり、同63年11月15日高等海難審判庁で裁決された。

函館地方海難審判理事所の調査経過
 函館地方海難審判理事所は、「重大海難事件」に指定し、生存者2名の帰港を待って、青森県八戸市において事情聴取を行ったほか、同型船2隻について、船体及び機関室の検査を宮城県石巻市において実施するなど、証拠の集取を行い、これらの証拠をもとに理事官は、第五十二惣宝丸の船長兼漁労長を受審人に、また、船舶所有者を指定海難関係人にそれぞれ指定して、昭和60年10月9日函館地方海難審判庁に対して審判開始の申立を行った。

函館地方海難審判庁の審理経過
 函館地方海難審判庁では、水産及び機械工学の学識経験者を参審員に参加させることに決定して昭和61年1月20日第1回の審判を開廷し、事件発生から2年余を経過した昭和62年2月12日裁決の言渡しが行われたが、この裁決に対して、理事官は、原因判断に誤りがあるとして、高等海難審判庁に対して第二審の請求を行った。

高等海難審判庁の審理経過
 高等海難審判庁では、第1回審判を昭和62年7月15日開廷し、その後、第3回審判をもって結審し、翌63年11月15日裁決の言渡が行われた。
裁決の要旨は、次のとおりである。

裁決
(船舶の要目)
船種船名 漁船第五十二惣寳丸
総トン数 349トン
機関の種類・出力 ディーゼル機関・1,912キロワット

(関係人の明細)
受審人 船長兼漁労長
指定海難関係人 船舶所有者

(損   害)
第五十二惣寳丸 船体沈没、 乗組員総数22人のうち20人が死亡又は行方不明

主文
 本件遭難は、荒天下、スタントロールに従事中、多量の漁獲物を揚収して著しい船尾トリムの状態にしたことと、コンパニオン出入口の扉を閉鎖しなかったこととに因って発生したものである。
 なお、多数の乗組員が死亡したのは、緊急事態に対処する操練が十分に行われず、膨張式救命いかだの取扱いが不適切であったことに因るものである。

理由
(事実)
 第五十二惣寳丸は、船長兼漁労長ほか21人が乗り組み、昭和60年2月21日釧路を出港してソ連邦操業許可水域第2区の漁場に向かい、同月23日同漁場に至ってオッター式トロール漁業に従事した。
 翌24日船長兼漁労長は、約95トンのすけとうだらを漁獲したところで、低気圧の通過により波浪が高まってきたので、操業を中止して支えに入り、越えて26日午後0時50分ごろ天候が回復し始めたので、操業を再開することにしたが、いまだ風速15メートル前後の北東風が吹き、時折三角波も発生しており、乗組員に作業用救命衣を着用するよう命じないまま投網し、同2時20分ごろ揚網にとりかかった。
 船長兼漁労長は、当時船体が複雑な動揺をし、船尾トリムが大きく、海水が船尾及びスリップウエイから漁ろう甲板上に打ち込み易い状態であったが、コンパニオン出入口の扉を閉鎖しないまま、自らは船橋にあって漁ろう及び操船全般の指揮を執ってトロールウインチの遠隔操作盤の操作にあたり、ほとんど停止の状態で揚網にとりかかり、約50トンのすけとうだらを油圧ハッチから魚仮置場に落とし込み、同ハッチを閉鎖した。
 ところで、船長兼漁労長は、更にトリムが大きくなったことから、魚仮置場に落とし込んだ漁獲物を船首部の魚倉に積み付けたのちコッド後部の約40トンの漁獲物を揚収する必要があったが、これを処理しないまま、同2時40分ごろ後部のコッドをスリップウエイに揚収したところ、トリムが著しく増大し、多量の海水が漁ろう甲板に打ち込むので、このままでは危険と思い、漁獲物の一部をコッドの末端部のチャックを開けて投棄することとし、風波を右舷船首約2点に受けるほぼ20度の針路とし、機関を微速力前進にかけ、約4ノットの速力で進行した。
 船長兼漁労長が10トンばかりの漁獲物を投棄したころ、約10度のローリング及びかなりのピッチングを繰り返していた船体は、右舷正横方からの大きなうねりと船首方からの三角波を受け、大きく左舷に傾斜すると同時にスリップウエイから多量の海水をすくい上げ、約30トンの漁獲物で径約1.6メートル長さ約15メートルとなっていたコッドが、左舷側のインナーブルワークを越え、コンパニオン及び波除板後方のブルワークにもたれかかって同板後方の放水口をふさぎ、すくい上げた多量の海水が左舷側漁ろう甲板上に滞留して左舷に大傾斜し、同2時55分ごろ復原しなくなった。
 船長兼漁労長は、この事態に驚き、僚船に大傾斜の旨無線電話で急報するとともに、傾斜を直そうと左舵一杯、全速力前進にかけ左回頭中、海水が左舷ブルワークの放水口から同コンパニオン出入口を経て機関室内に流入し、ほぼ1回頭した同3時ごろ北緯50度20分東経156度50分の地点において電源が切れ、主機が停止した。
 そのころ、危険を感じて操舵室付近に集まった乗組員は、平素から緊急時の退船訓練が実施されておらず、また、船長兼漁労長からの指示もなかったので、勝手に操舵室上部両舷側のいかだを投下したところ、右舷いかだは操舵室後部の船首楼甲板上で、左舷いかだは海上で、それぞれ展張し、救命胴衣を着用しないまま15人の乗組員が左舷いかだに乗り移った。
 やがて、船体の左舷傾斜が増大し、船長兼漁労長は、転覆が免れないものと判断して同3時10分ごろ退船を決意し、1人で右舷いかだを左舷ブルワーク付近まで移動させたとき、船体が左舷に横転し、残り6人とともに海中に投げ出されたが、たまたま近くに浮いていた右舷いかだにつかまってこれに乗り移り、付近で泳いでいた甲板員1人を助け上げたものの他の5人の姿はなく、同いかだが風下に流され始めたころ、船体は船尾から沈み始めて沈没した。
 その後、救助にかけつけた僚船が、両舷のいかだを収容し、右舷いかだの船長兼漁労長と甲板員1人を救助したが、左舷いかだから遺体で1人を、また、仮死状態で1人を収容したものの看護の効なく死亡し、残り18人は行方不明となった。

(原因)
 本件遭難は、冬期、荒天下の北洋漁場において、スタントロールに従事中、多量の漁獲物を揚収して著しい船尾トリムの状態にしたことと、コンパニオン出入口の扉を閉鎖しなかったこととにより、船尾から打ち上がった海水がコッド・エンドを移動させて船体が大傾斜し、多量の海水が同出入口から船内に侵入したことに因って発生したものである。
 なお、多数の乗組員が死亡したのは、緊急事態に対処する操練が十分に行われず、膨張式救命いかだの取扱いが不適切であったことに因るものである。
(所為)
 船長兼漁労長が、冬期、荒天下の北洋漁場において、スタントロールに従事中、多量の漁獲物の入ったコッド・エンドを揚収する場合、漁ろう甲板上の海水の打ち上げを考慮し、船尾トリムを小さくするよう魚仮置場の漁獲物を処理するとともに、コンパニオン出入口の扉を閉鎖すべきであったのに、これを怠り、同漁獲物を処理することも同扉を閉鎖することもしないままコッド・エンドを引き上げて著しい船尾トリムとし、海水を船内に侵入させたことは職務上の過失である。
 船舶所有者が、乗組員に対する操業及び運航に関する安全上の指導教育を十分行わなかったことは、本件発生の原因となるが、その後関係官庁の指導を受け、所属漁船の運航基準、運航管理規程及び事故処理基準を作成し、各船毎に総員退船部署、防火部署及び防水部署の非常配置表を提出させるなど改善に努めるほか、北洋の遠洋底びき網漁業から撤退したこと及び事故時の代表取締役社長が辞任したことに徴し、勧告するまでもない。

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