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漁船第七十一日東丸沈没事件

 本件は、第七十一日東丸が、船長ほか15人が乗り組み、樺太南部東側海域(多来加漁場)において操業を繰返すうち、次第に南風が増勢して風浪をほぼ左舷正横から受ける状況となり、波浪が載荷門から打ち込んで海水が漁獲物処理場に滞留し、やがてこれが倉口後部の倉口蓋すき間から落下して倉内にも滞留するようになったが、えい網作業に伴って左舵をとったところ、滞留した海水が流動して左舷側に大きく傾斜し、載荷門から多量の海水をすくい込んで復原しなくなり、機関が停止して電気が消え、昭和60年4月23日午前1時30分ごろ、樺太北知床岬南方沖合の地点において、船体は左舷に大傾斜して沈没した。
 その後、5人の遺体が収容され、6人は行方不明となり、また、沈没の際、海中に投げ出された乗組員のうち、二等航海士ほか4人が救命いかだに乗り移ったが、漂流中に2人が死亡し、二等航海士ほか2人はカモメを食べ、流氷水を飲み救助を待つうち、5月9日北知床岬付近に漂着し、凍傷を負ったものの、無事救出された。
 本件については、昭和62年5月28日函館地方海難審判庁で裁決された。

函館地方海難審判理事所の調査経過
 函館地方海難審判理事所は、早速本件を「重大海難事件」に指定し、調査は、第七十一日東丸の一般配置図、線図、復原力交叉曲線図等船体に関する図面の取り寄せから開始し、救助された同船の乗組員について事情聴取を行うほか、船舶所有社の漁ろう部長、同業船の船長及び通信士、建造造船所職員等に対する事情聴取を行い、更に、姉妹船について船体等の実地検査などを行い、これらの証拠をもとに理事官は、第七十一日東丸の二等航海士を受審人に、また、同船甲板長及び船舶所有者を指定海難関係人に、それぞれ指定するとともに、本件の審判には、参審員の参加を必要と認めるとして事件発生から9か月後の、昭和61年1月27日函館地方海難審判庁に対して審判開始の申立を行った。

函館地方海難審判庁の審理経過
 審判開始の申立を受けた函館地方海難審判庁では、海難関係者の健康上の理由等もあって、第1回審判は審判開始申立からほぼ5か月後の昭和61年6月23日開廷され、6回の審理を重ねて、昭和62年5月28日裁決の言渡しが行われた。
裁決の要旨は、次のとおりである。

裁決
(船舶の要目)
船種船名 漁船第七十一日東丸
総トン数 124トン
長さ 32.19メートル
従業制限 第二種
機関の種類・出力 ディーゼル機関・753キロワット

(関係人の明細)
受審人 二等航海士
指定海難関係人 甲板長 船舶所有者

(損害)
第七十一日東丸 船体沈没、乗組員16人のうち13人が死亡又は行方不明

主文
 本件沈没は、沖合底引き網漁船において、船側外板に設けられた載荷門の開閉管理が不適切で、これを開放したままえい網中、高まった波浪がこれから船内に浸入し、浮力を喪失したことに因って発生したが、船舶所有者の乗組員に対する載荷門の管理についての安全指導が十分でなかったこともその一因をなすものである。

理由
(事実)
 第七十一日東丸は、船長外15人が乗り組み、昭和60年4月20日稚内を発し、翌21日樺太南部東側海域の通称多来加漁場に到着して操業を繰返し、翌22日午後9時20分ごろ北緯47度42分東経144度41分付近で中層引き網を投入し、ワープを約1,000メートル延出した後、船橋内において漁労長が手動操舵に、船長が見張りに、また、通信長が無線連絡業務に就き、進路をほぼ西に定めて3ノットばかりのえい網速力で進行した。
 ところで、船舶所有者は、載荷門の開閉管理の指導が適切でなかったため、船長及び漁労長はともに載荷門開閉の責任者を定めていなかったばかりか、開閉について特別注意を与えることなく、これを乗組員に任せていた。そのため、載荷門は積荷のために船あしが入ったり、荒天のため波浪の打ち込むおそれのある場合のみ、気付いた者が適宜閉めるという状況であった。
 甲板長はワープの延出が終わったところで、漁獲量を確かめようとして無人となっていた漁獲物処理場に赴いた際、載荷門が開放状態になっているのを認めたが、心配ないものと考え、閉鎖しないまま船員室に退き、休息した。
 その後、漁労長は、魚群探知器を監視しながら、ほぼ400メートルの屈曲した等深線に沿って、魚群にあわせるようワープの長さを調整してえい網しているうち、しだいに南風が増勢し、本船はこれに伴い高まった南の風浪をほぼ左舷正横から受ける状況となり、横波の周期と船体の横揺れ固有周期とが一致して同調横揺れを生じる際、あるいは浅水域から深い方に向けようとして左舵をとり、これに風圧によるワープの偏角が相まって左舷側にかなり傾斜する際、更にはこの両者が重なる場合には波浪が載荷門から打ち込み、海水が漁獲物処理場にしだいに滞留し、やがて倉口後部の倉口蓋すき間から落下して倉内にも滞留するようになった。
 このように遊動水を生じた不安定な状態でえい網中、翌23日午前1時28分ごろ浅水域に進入したので、漁労長が、両舷ワープを約1,000メートル延出した状態のまま舵角25度ばかりの左舵をとったところ、転舵に伴う左舷傾斜につれ船内に滞留した海水が流動し、横波による船体動揺と相まって左舷側に大きく傾斜し、載荷門から多量の海水をすくい込んで復原しなくなり、流入の度を増して処理場内に増量した海水は後部出入口を越えて居住区通路に流れ込んだ。
 たまたまこれに気付いた甲板員が、大声を発して乗組員に危急を告げたので、甲板長は居住区から脱出したところ、処理場内を海水が天井につかえる程に高く盛り上がったような感じで押し寄せているのを目撃し、沈没は免れないと思い、急激に傾斜の度を増しつつあるなかを操舵室に急ぎ、載荷門から浸水している旨を報告した。
 一方二等航海士も沈没は必至と直感し、30度も傾斜した漁労甲板から右舷船橋上部にたどり着き、いかだの投下に取り掛かった。
 船長らは、甲板長から報告を受け、はじめて驚いた様子で、操舵中の漁労長に向かって「船頭、舵、舵」と叫んで取っていた左舵を戻すよう促し、その間にも刻々と傾斜を増してしぶきが操舵室に打ち込み、危険の切迫を感じた甲板長は、浸水の報告をしたあと遭難信号自動発信器を持ち出すことも、また、船長らのその後の動静を見届ける余裕もないまま操舵室を出て、右舷側に退避し、他方二等航海士は救命いかだを投下したが、これと同時ごろ、機関が停止して電気が消え、救命いかだが展張し終わらない午前1時30分ごろ、北緯47度41分東経144度27分ばかりの地点において、船体は左舷に大傾斜して沈没した。
 その後、捜索により沈没が確認され、4人の遺体が、さらに操業中の漁船に1人の遺体が収容され、行方不明者は6人となった。沈没の際、海中に投げ出された乗組員のうち、二等航海士外4人だけが救命いかだに乗り移り、漂流中2人が死亡し、二等航海士、甲板長及び甲板員1名は5月9日北知床岬付近に漂着し、手足に1箇月ないし3箇月の入院加療を要する凍傷を負ったが、無事救助された。

(原因)
 本件沈没は、沖合底引き網漁業に従事する第七十一日東丸が、夜間、樺太北知床岬南方沖合の漁場において、中層引き網を使用してえい網中、船体の保安に対する留意が不十分で、上甲板上の船側外板に設置された載荷門を開放状態のまま放置していたため、風力増勢により高まった左舷正横からの波浪が同載荷門から船内に浸入滞留し、転舵により船体が傾斜した際、滞留水の流動と横波による船体動揺とが相まって大傾斜を生じ、載荷門から急激に多量の海水が浸入して浮力を喪失したことに因って発生したものであるが、船舶所有者の乗組員に対する載荷門の開閉管理についての指導が十分でなかったことも、その一因をなすものである。

(所為)
 船舶所有者が、載荷門の開閉管理の不適切が船体の保安に及ぼす危険性について関心が薄く、乗組員に対して、載荷門を使用後閉鎖しておくよう指導の徹底を図っていなかったことは、本件発生の原因となるが、本件後載荷門の開閉標示灯を設備するとともに、同門の適正な取扱いについて指導の徹底を図るなど改善措置が講じられた点に徴し、勧告するまでもない。

(要望事項)
 本件の場合、遭難信号自動発信器を持ち出す余裕もなく沈没したため、付近に操業中の僚船が多数存在しながら捜索活動の開始が遅れ、そのため多数の人命を喪失するとともに、奇跡的に生還した3人の乗組員が救命いかだで16日もの長い間不安な漂流を余儀なくされたことは残念という外なく、他にも折角装備された遭難信号自動発信器を持ち出すいとまもないまま消息を絶っている例が多数見受けられる。このようなところから昭和61年6月27日船舶救命設備規則が改正され、一般漁船においても、遭難信号自動発信器は、船舶の沈没の際自動的に浮揚して船舶から離脱するように積み付けることが要求されることとなったが、現存船にはなお従前の例によることができる旨の経過措置が設けられ、同規則が全船に適用されるものではない。漁船の場合、一般船舶と相違して大きさの割に乗組員数が多く、一度海難が発生すれば惨事となるおそれのある点に鑑み、すみやかに救難体制がとられるよう船舶所有者にあっては現存船についてもできるだけ改正の趣旨に沿った措置をとることを望むものである。
漁船第七十一日東丸参考図
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