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潜水艇支援調査船へりおす遭難事件

 へりおすは、船長ほか3人の乗組員と5人の海洋調査員の計9人が乗り組み、北海道においてシーホースによる魚礁調査及びへりおすの一般公開等を行う目的で、静岡県清水港から北海道羽幌港に向かう途中、塩屋埼沖合に達したとき天候悪化の傾向があったが、そのまま北上を続けていたところ、荒天となり、海水が開放され機関室内に流れ込み、電源が絶たれて操舵が不能になり、左舷横方向から波浪の打込みを受けて昭和61年6月17日午後5時38分ごろ福島県鵜ノ尾埼から30海里ばかり沖合で横転し、遭難信号を行わないまま沈没して消息を絶った。
 その後、付近を通りかかったフェリーが無人の救命筏を発見したのを契機に、捜索活動は丸1日近くたってから開始され、海上保安庁の巡視船により、福島県相馬市鵜ノ尾埼の東方31海里の水深約215メートルの海底に沈んでいる船体が確認されたが、乗組員及び調査員の7人が死亡、2人が行方不明となった。
 本件については、平成2年3月20日仙台地方海難審判庁で第一審の裁決があったが、これを不服として、理事官から第二審の請求がなされ、平成4年6月3日高等海難審判庁で裁決された。

仙台地方海難審判理事所の調査経過
 仙台地方海難審判理事所は、へりおすの沈没状態を撮影したビデオの入手、船舶所有者及び造船所などに対する事情聴取、遭難時の気象、海象の資料収集と解析など行ってきたが、本件発生に直接つながる証拠がないところから船体引揚の情報が入ってからは、船体検査が大きな手がかりとなった。
 船体を水深230メートルの海底から引揚げることは、国内では初めての試みであり、翌62年9月28日から同作業が開始され、そして、翌63年7月14日へりおすが塩釜港中埠頭に係留されたところで、船体検査を行った。
 現場では写真撮影と同時にビデオを使った撮影も行われ、立体的な実地検査が進められ、また、船首部分の損傷から他船と衝突したのでないかとの疑いもあったが、この検査によりその痕跡は認められず、単独事故であることが明らかになった。
 本件は、乗組員等が1人も生還していないことから極めて人証と物証に乏しい事件で、船体構造と沈没の因果関係をどのように判断するかなど、海難原因の究明が非常に困難なケースであったが、審判を維持できるだけの証拠が集ったので、本件を「重大海難事件」に指定し、発生から実に2年半余の歳月を要して昭和63年12月21日審判開始の申立を行った。
 審判開始の申立を行った理事官は、本件が原因探究の困難な事件であるとして、参審員の参加を請求するとともに、本件の発生原因に係わりがあった者として、へりおす建造の基本計画にも関与した運航管理者及びへりおすの設計、建造の責任者であった造船所設計課長を、それぞれ指定海難関係人に指定して、仙台地方海難審判庁に審判開始の申立を行った。
引き揚げられたへりおす
引き揚げられたへりおす

仙台地方海難審判庁の審理経過
 審判開始の申立を受けた仙台地方海難審判庁では、参審員の参加を決定して第1回審判は平成元年3月7日開廷し、同2年1月18日までの10か月間に12回にわたる審判を重ねて慎重に審理し、指定海難関係人及び証人9人の尋問、へりおすに関する鑑定書などの証拠約250点を取り調べて結審し、平成2年3月20日裁決の言渡を行ったが、理事官は、当裁決に対し不服があるとして、高等海難審判庁に対して第二審の請求を行った。

高等海難審判庁の審理経過
 高等海難審判庁では、原審同様本件の原因探究には困難さが予想されることから2名の参審員の参加をもって第1回審判を平成3年7月1日開廷し、7回の審理を経て平成4年6月3日裁決の言渡しが行われた。
裁決の要旨は次のとおりである。

裁決
(船舶の要目)
船種船名 潜水艇支援調査船へりおす
進水年月日 昭和61年2月19日
全長 26.02メートル
総トン数 50トン
航行区域 沿海区域

(関係人の明細)
指定海難関係人 運航管理者 造船所設計課長
 
(損害)
へりおす 船体沈没後、引揚げ解撤、乗組員及び調査員7人死亡、2人行方不明

主文
 本件遭難は、天候悪化の傾向があるときに陸岸に接航する針路をとらなかったことと、開口部の閉鎖が十分でなかったこととに因って発生したものである。

理由
(事実)
 へりおすは、船長ほか3人が乗り組み、調査員5人を乗せ、シーホースを架台とともに上甲板に固縛し、燃料油、潤滑油等約9.4トン、清水約3.3トン、その他必要な品を積み、排水量119.5トン、重心の高さ2.12メートル、横メタセンター高さ0.53メートル、船首1.50メートル船尾2.40メートルの喫水で、昭和61年6月16日午前8時45分清水港を発し、北海道羽幌港に向かった。
 船長は、発航後間もなく機関を約10ノットの全速力前進にかけ、駿河湾を南下したのち、伊豆半島南方沖、伊豆大島北方沖を経て房総半島東岸沿いに北上し、翌17日午前3時40分ごろ犬吠埼灯台から133度(真方位、以下同じ。)9.5海里ばかりの地点に達したとき、針路をほぼ16度に定め、自動操舵によって進行した。
 同日午後0時ごろ船長は、塩屋埼灯台から108度21海里ばかりの地点に達し、同時5分ごろ船舶電話で運航管理者と連絡をとり、午後0時の船位及び針路のほか、気圧1.009ミリバール、天候雨、風向南、風力4、速力9ノット、船酔いの調査員も元気になり食事がとれるようになった旨の報告を行った。
 これより先、同月16日午前9時九州西方の北緯32度東経124度付近にあった996ミリバールの低気圧は、東方に延びる温暖前線と西方に延びる寒冷前線を伴って北東方に進行しており、同日午後9時には992ミリバールに発達して朝鮮半島南部の北緯35度30分東経128度付近にあり、翌17日午前9時には990ミリバールとなって朝鮮半島東方海上の北緯40度東経132度付近に達し、その中心から南東方に延びる前線が能登半島西方を通り、本州を横切って九州南西海上に達しており、そのような状況の下で、同日午前6時仙台管区気象台は、「発達した低気圧が北緯38度東経130度付近を北東進中で、三陸沖では南寄りの風が次第に強まり、最大風速20メートルに達し、ところによっては濃霧となる見込みなので船舶は注意を要する」との海上強風警報及び海上濃霧警報を発表し、これらの警報は同日午後0時も継続していた。
 へりおすは、このように福島県東方海上で南寄りの波浪が少しずつ高まっていて、天候悪化の傾向があるときに、全速力のまま折からの南寄りの風及び波浪を右舷船尾ほぼ一点半に受け、左に3度ばかり圧流されながら約9.5ノットの航力で航行しており、同0時ごろからは航行区域を越えて次第に陸岸から遠ざかる状況にあったが、船長は、同0時の船位測定後も陸岸に接航する針路をとらず、定めた針路及び速力のまま、荒天時速やかに避難できる態勢をとらないで続航した。
 同2時32分ごろ船長は、第一日星丸と右舷を対して航過し、同時58分ごろ塩屋埼灯台から52度33.7海里ばかりの地点において、風力が5になっていたとき、神正丸と右舷を対して1,000メートルばかり隔てて航過し、同5時10分ごろ船舶電話で運航管理者に対し、現在風力5、これ以上天候が悪くなれば最寄りの港へ避難するつもりであるとの臨時連絡を行い、同人から、前線が近づいているのでなるべく避難するようにとの助言を受けた。
 同5時32分ごろ船長は、鵜ノ尾埼灯台から100度32海里ばかりの地点に達したとき、避難することとし、そのころ風下側となっていて開放されていた機関室船首側天窓及び中央倉庫左舷側壁の出入口風雨密扉を閉鎖することなく、340度の針路に転じて同天窓及び同出入口を風上側としたので、これら開口部から波浪が打ち込み始め、同時35分ごろ船首を波浪に立てようとして操舵切替えつまみをダイヤル操舵として左回頭を開始したところ、一際高まった波浪を左舷横方向から受け、多量の海水が甲板上に打ち上がるとともに、機関室船首側天窓から機関室内に流れ込んだほか、中央倉庫左舷側壁の出入口を通って機関室昇降口からも同室内に流れ込み、下方の主配電盤上に落下し、同5時36分ごろ船首が218度を向いたとき、同配電盤の電路に短絡を生じ、電源が断たれて操舵装置の電動ポンプが停止し、舵がほぼ中央の状態でダイヤル操舵ができなくなった。
 へりおすは、電力による操舵が不能となり、船長が手動操舵に切り替えて機関を極微速力前進としたが、操舵困難なまま船首が風下に落とされ、再度左舷横方向から波浪の打込みを受け、機関室船首側天窓及び中央倉庫左舷側壁の出入口のほか浴室舷窓等から海水が船内に流れ込み、同5時38分ごろ鵜ノ尾埼灯台から98度31.5海里ばかりの、距岸約30海里の地点において、船体が右舷側に大傾斜を起こして横転し、遭難通信を行わないまま間もなく沈没して消息を絶った。
 当時、天候は雨で風力6の南風が吹き、風浪の周期は約6秒で波高は約2メートル、うねりの周期は7秒ないし8秒で波高は約2メートルであった。
 運航管理者は、同月17日に、へりおすの航行する海上が次第に荒天となる状況であることを知っていたので、翌18日午後0時の電話連絡がなく、同船の動静に不安を感じながら待機していたところ、翌々19日午前10時ごろ塩釜海上保安部からへりおすの救命いかだを収容したとの連絡を受け、直ちに同保安部に赴いて同船の捜索を依頼した。
 その後塩釜海上保安部巡視船及び多数の船舶がへりおすの捜索を行い、同月28日塩屋埼灯台から75度17.4海里ばかりの海上において、漁業監視船長芳丸が、船長及び一等航海士の各遺体を発見して収容し、越えて同年7月1日サルベージ会社の潜水艇が、水深約220メートルの海底に沈んだへりおすの船体を確認し、また、同月7日操業中の底びき網漁船が、調査員1名の遺体を収容した。
 へりおすは、同63年7月サルベージ会社によって船体が引き揚げられ、塩釜港に引きつけられて船内捜索が行われ、一等機関士、調査員3名の各遺体が船内各所から発見されたが、機関長及び調査員1名は発見されず、のち死亡と認定された。

(原因等の考察)
1 原因についての考察
 へりおすは、航行区域である沿海区域を越えて航行中、遭難通信を行わないまま消息を絶ち、後日その船体が水深約220メートルの海底で発見され、乗船者全員が死亡又は行方不明となったものであり、遭難の原因については種々考えられるので、これについて考察する。
■船体の構造、工作等
 へりおすの船体に生じた損傷は、潜水艇撮影のビデオテープ映像中の記録によれば、水圧ないし着底時の衝撃によって生じた損傷のみであり、構造上の欠陥、工作の不良等によって生じたと思われる座屈、破口、き裂等は発見されていない。
 したがって、構造、工作等に係わるものが原因となったとは認められない。
■復原性等
 鑑定書写中において、波浪中を航行する船舶の復原力は、船体中央が波頂付近に位置する場合に平水中の復原力より低下し、船の長さと波長がほぼ等しいときにその低下が顕著であり、追波中を波速に近い速力で航行すると、復原力が低下した状態が長く続くこととなるので危険性が高いが、想定された風及び波浪の程度では、へりおすは、追波中復原力が低下するとしても直ちに転覆に至ることはない旨記載している。
 本件発生直前は、左舷前方から風及び波浪を受けており、追波航行中ではなかったのであるから、へりおすの復原性が本件発生の原因をなしたとは認められない。
 また、へりおすは、満載状態から50パーセント消費状態までは、清水、燃料油等の消費による船体重心位置への影響がほとんどなく、航行中の清水、燃料油等の消費によって復原力が低下したとも認められない。
■針路選定
 本件発生当日の午後0時には、へりおすは、陸岸から約21海里離れていたうえ、付近の海上では南寄りの波浪が高まり、それまでの針路で続航すれば、陸岸から更に離れる状況にあったから、北又はその少し西寄りの針路とし、陸岸に接航して北上する必要があった。
 へりおすは、北又はその少し西寄りの針路とすることによって、340度への転針又はその後の大きな左回頭を行う必要が生じなかったと認められるので、午後0時の船位測定後も16度の針路のまま北上したことは、針路選定が不適切であり、本件発生の原因となったものと認められる。
■荒天対策
 へりおすの主配電盤の上部には機関室天窓及び中央倉庫から機関室に通じる垂直はしごがあり、これから海水が機関室に流れ込んで同配電盤が冠水すると、電路に短絡を生じて操船上重大な影響を及ぼすので、機関室天窓及び中央倉庫左舷側壁の出入口の閉鎖については十分に注意する必要があった。
 へりおすは、左回頭に左舷横方向から波浪を受けた際、閉鎖されていなかったこれら開口部から機関室内に海水が流れ込み、主配電盤が冠水して電路に短絡を生じ、操舵困難となったところ、再度波浪の打込みを受けて横転に至ったものであるから、これら開口部が閉鎖されていなかったことは、荒天対策が不十分であり、本件発生の原因となったものと認められる。
■他船舶等との衝突
 へりおすの船体には、他船舶等との衝突によると思われる破口、き裂等の損傷がないので、他船舶等との衝突があったとは認められない。
■ブローチング現象
 へりおすは、大角度の左転をしたのち波浪の打込みによって横転したものであり、追波航行中に横転したものではないから、ブローチング現象があったとは認められない。
■波と船体との同調横揺れ
 本件発生当時、風浪の周期は6秒、うねりの周期は7秒ないし8秒で、船体の横揺れ周期は約7秒であり、操舵困難となったあと、速力が減少し船首が風下に落とされる過程で、波と船体横揺れが同調して過大な船体傾斜が生じる可能性があったと考えられる。しかしながらこの可能性があったとしても、開口部へ波浪が打ち込んだのちのことであり、原因とするまでもない。
■船内搭載物の移動
 へりおすは、一般の貨物船のように荷物を積んで航行してはいなかったのであり、シーホースについても、検証調書写中の記載及び写真によればほとんど移動していないので、搭載物の移動があったとは認められない。
■気象海象
 本件発生当時の遭難地点付近の気象海象については、仙台管区気象台の回答書によって認定したとおりであって著しい変化はなく、気象海象が原因をなしたとは認められない。

2 指定海難関係人の所為についての考察
 本件は、陸岸近くを接航する針路をとらなかったことと、開口部を閉鎖しなかったこととが原因と認められる。
 運航管理者は、へりおす運航の責任者であり、安全運航システムマニュアルを作成し、その中で、自らを運航管理者としたうえで運航計画は運航管理者が作成する、航行中風力5波高2メートルに達したときは運航を中止するなどを定め、また、北海道への航海にあたっては、同人が中心となって沿海区域を越える航行をしないよう計画を立てたのであり、本件発生当日の午後0時ごろ船長からの電話連絡で、同船が航行区域を越えて航行していることを認め、また、海上が次第に荒天となる状況であることを知っていたのであるから、同船長に対し、陸岸に接航するよう助言することができたが、航行中の針路は船長が決定するものであり、同人が陸岸に接航するよう助言しなかったことが本件発生の原因をなしたとは認めない。
 造船所設計課長は、へりおすの設計及び建造の責任者としてその職務にあたったが、船体の構造、工作等及び復原性については原因とならず、また、運航については全く関与していなかったのであるから、同人の所為が本件発生の原因をなしたとは認めない。

(原因)
 本件遭難は、天候悪化の傾向があるときに福島県沖合を航行するにあたり、荒天時速やかに避難できるよう陸岸に接航する針路をとらなかったことと、開口部の閉鎖が十分でなかったこととにより、海水が船内に流れ込み、電源を喪失して操舵が困難となり、横方向から波浪の打込みを受けて横転したことに因って発生したものである。
潜水艇支援調査船へりおす参考図

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