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瀬渡船開洋丸転覆事件

 本件は、開洋丸(6.7トン)に船長が1人で乗り組み、最大とう載人員23人のところ、釣客26人及び1人当たり平均35キログラムにもなる釣道具などの携帯品を載せ、瀬渡しの目的で、串木野港小瀬船だまりから下甑島へ向かったが、港外は北西風が強く吹いていたので、下甑島に直航することを避けて上甑島へ北上することとし、同島トノ埼付近に向けて約8ノットの半速力で自動操舵により進行していたところ、さらに風浪が高まり、昭和60年3月31日午前5時ごろ大波を受けて復原力を失い、里埼灯台から南東微東(磁針方位)5.1海里ばかりの地点において、左舷側に傾斜転覆したもので、同日夕刻、帰りの遅い船長の家族からの届け出を受けて、海上保安庁の航空機、巡視船艇が捜索に当たった結果、翌4月1日朝、鹿児島県坊ノ岬灯台の北方約5海里の地点で船体を発見し、串木野港に引きつけられたが、船長外釣客26人の全員が死亡又は行方不明となった。
 本件については、昭和61年7月14日門司地方海難審判庁で裁決された。
引き付けられた開洋丸
引き付けられた開洋丸

門司地方海難審判理事所の調査経過
 門司地方海難審判理事所は、27名もの死亡又は行方不明者を出したことが明らかになったことから、「重大海難事件」に指定したが、船長、釣客の全員が死亡して生存者がなく、目撃者もいなかったことから調査に困難が予想されたが、船体建造者、同業者、開洋丸を利用した釣り客等から事情聴取を行う一方、漂流中に発見された開洋丸について船体等の実地検査を行い、更に、開洋丸の波浪中の復原性等に関する鑑定を実施するなどして、審判開始申立に必要な証拠の集取を行い、瀬渡し業を営む船主船長が死亡し、他に海難の原因に関係があると考えられる指定海難関係人に該当する者もいないところから、海難関係人不在のまま、かつ、原因の探究が困難と思慮されるので、参審員の参加を請求して、昭和60年9月30日門司地方海難審判庁に対して審判開始の申立を行った。

門司地方海難審判庁の審理経過
 門司地方海難審判庁は、第1回審判を昭和60年12月12日開廷し、5回の審判をもって結審することとなったが、その間、9名(うち2名は鑑定証人)の証人尋問と開洋丸に対する実地検査を行って、同61年7月14日裁決の言渡しが行われた。
 裁決の要旨は、次のとおりである。

裁決
(船舶の要目)
船種船名 瀬渡船開洋丸
総トン数 6.71トン
機関の種類・出力 ディーゼル機関140馬力
長さ 10.65メートル
2.33メートル
深さ 0.88メートル
船質 FRP

(損害)
開洋丸 船体転覆、機関及び電気系統に濡損、船長及び釣り客13名溺死、13名行方不明

主文
 本件転覆は、船体に改造が加えられたこと、最大搭載人員を超過する釣客を乗せたこと及び釣客の多量の携帯品が甲板上に積載されていたことにより、乾舷の減少と復原力の低下とをきたしていたところ、これに波浪注意報発表下の海上を堪航性についての配慮不十分のまま自動操舵で航行中、海上模様が悪化するなどの悪条件が重なったことに因って発生したものである。
 なお、転覆によって全員が死亡又は行方不明となったことは、遭難時における通報、連絡の手段を有しなかったことによるものである。

理由
(事実)
 開洋丸は、一本釣り漁船として建造されたが、その後一部改造されて串木野、下甑島間の釣客を輸送する瀬渡船として使用されていた。
 昭和60年3月31日午前2時少し過ぎ、瀬渡業を営む開洋丸の船主船長は、自宅を出て通称小瀬船だまりに係留中の開洋丸に至り、最大搭載人員を超える釣客26人及び1人当たり平均35キログラムにもなる釣道具などの携帯品を載せ、喫水不詳のまま、同3時15分ごろ係留岸壁を発し、下甑島へ向かった。
 同船長は、離岸後間もなく機関を15ノットばかりの全速力にまであげたが、港外に出たところ北寄りの風に対して陰となっている同船だまりと異なり、北西風が強く吹いており海上には白波も立っていたため、下甑島に直航することを避け上甑島まで北上し、以後甑島東岸寄りに南下する進路をとることとし、8ノットばかりの半速力におとし、同時50分ごろ薩摩沖ノ島灯台を右方近距離に隔てて航過したのち、針路を上甑島トノ埼付近に向くほぼ北西微西二分の一西に定め、操舵を自動として進行した。しかし、付近海域は北西の風が強吹しており、そのためこれに伴う波浪を右舷斜め前方から船体に受けて進航していたところ、中瀬南方の急潮の発生し易い海域に接近するに従い次第に風浪が高まってきたのに、なおも原針路、半速力のまま目的地に向かって続航した。
こうして上甑島に向かっているうち、同5時ごろ急潮域に入り船首が振りまわされたとき大波を受け大角度の横揺れを生じたものか、荒天時における自動操舵の使用がときおり襲来する大波に船首を立てて対処することができず船体に大きな転覆力が加わったものか、これらの競合によるものかが、最大搭載人員を超える釣客やその携帯品を載せていたことなどにより乾舷が減少していたこととあいまって、里埼灯台から南東微東5.1海里ばかりの地点において、船体は復原力を失い左舷側に傾斜転覆した。
 船長の妻は、開洋丸が予定の時間を過ぎても帰港しないため各所に連絡をとってみたが、全くその消息をつかめないため不安を感じ、同日午後9時30分串木野海上保安部に届け出てその捜索を依頼した。
 その結果、多数の巡視船艇、漁船及び航空機などにより大がかりな捜索が行われ、翌4月1日午前8時45分坊ノ岬灯台から北西微西四分の一西約5海里の海上において転覆漂流中の船体が鹿児島航空基地所属のビーチクラフト機によって発見され、排水作業ののち巡視艇くしかぜによって串木野港内に引付けられた。
 なお、開洋丸備えつけの救命浮器、救命胴衣及び遭難信号セット等は全く使用されない状態のまま船内格納場所から発見された。
 船長及び釣客13名は溺死体として発見収容され、残りの釣客13名は行方不明となり、のち死亡と認定され、船体は機関及び電気系統に濡損を生じた。

(原因の考察)
1 船体について
 一本釣漁船を瀬渡船に転用するために行われた種々の改造工事により乾舷の減少と重心の上昇をきたし復原性能が低下していた。
2 釣客等のとう載について
 当該船舶の安全性を保持するための必要な限度を示したものである最大とう載人員が厳守されず、これを超過しており、釣客一人当たり平均35キログラムにものぼる携帯品重量に対して考慮が払われていなかった。
3 気象・海象の状況とその判断について
 当時、波浪注意報が継続発表されており、次第に風浪の強まる海上であったのに、船長が自船の堪航性と海上模様についての配慮不十分のまま迂回航路をとってまで続航した。
4 転覆のメカニズム
 航行中、船体が急潮域に入り船体が振り回され、大波を受け大角度の横揺れを生じ、これに風圧が加わりついに復原力を喪失するにいたったものか、次第に風浪が高まる中を自動操舵のまま進行していたため、船首を立てて波の力を緩和することができず船体に大きな転覆力を受け瞬時にして転覆するにいたったものか、あるいはこれらの競合によって転覆したものと考えられる。
5 乗船者の全員が死亡又は行方不明になったことについて
 遭難時における通報・連絡の手段をもたなかったため関係機関への捜索、救助要請が遅きに失したことによる。

(原因)
 本件転覆は、建造後船体に種々の改造工事が行われたこと、最大搭載人員を超過する釣客を載せていたこと及び釣客の多量の携帯品が甲板上に積載されていたため乾舷の減少と復原力の低下をきたしていたところ、波浪注意報が発表されており、迂回航路をとらなければならない程の海上模様のなかを堪航性についての配慮不十分のまま自動操舵で航行中、さらに風浪が増勢するなどの悪条件が重なったことに因って発生したものである。
 なお、転覆によって全員が死亡又は行方不明となったことは、遭難時における通報、連絡の手段を有しなかったため関係機関への捜索、救助要請が遅きに失したことによるものである。
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