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17水を東京湾に流すための水路、「放水路」をつくるしかない。そう決断した明治政府は、荒川放水路の計画に着手しました。 荒川放水路は現在のJR京浜東北線付近から東京湾まで全長約22㎞に及ぶ大工事となりました。人家が密集した地域は迂回しましたが、それでも約1300世帯が移転しなければなりませんでした。風水害や関東大震災に見舞われながらも工事は続けられ、昭和5(1930)年、荒川放水路はようやく完成したのです。工期は約20年間に及びました。荒川放水路の全面竣工に先駆けて、大正13(1924)年に完成したのが旧岩淵水門です。この水門は、台風などの洪水時に上流からの水が荒川(現・隅田川)に流れ込むのを制御する役割を持っています。放水路と水門は共に流域の資産を守るためには欠かせない存在なのです。 旧岩淵水門の建設に関わった人物の一人に青あおやまあきら山士がいます。青山は日本人で唯一、パナマ運河の建設に参加した土木技術者です。8年間にわたりパナマでの工事に参加し、世界でも最先端の土木技術を学んだ青山は、水門の基礎を川底より地下20mにわたり鉄筋コンクリートにすべきだと主張したのです。そこまでの堅けんろうせい牢性を持たせるべきかの議論はありましたが、最終的には青山の案が採用されました。結果とし 旧岩淵水門も地盤沈下の影響を受け、維持すべき水門の高さを満たさなくなってきたことや、老朽化も進んでいたため、昭和57(1982)年に300m下流に現在の岩淵水門がつくられたのです。以後、岩淵水門は4回ほど水門を閉じて、隅田川に流入する洪水を止めています。平成19(2007)年に発生した大型の台風9号では、もし荒川放水路がなければ、北区や荒川区、台東区に及ぶ広い範囲で2m以上の浸水被害が発生したであろうとシミュレーションされています。 国土交通省では、河川の維持管理や、水門の耐震補強工事に力を入れながら、荒川を決壊させないように、日々業務を続けています。て、工事途中で関東大震災が起きた際も被害を受けずにすんだのです。台風や大雨などの水害から流域の増大する資産を守る 荒川放水路が完成した後、昭和22(1947)年にはカスリーン台風の来襲によって関東地方は大きな被害を受けましたが、東京の中心部は荒川放水路によって守られました。洪水の水位は、計画されていた最大水位を1m以上も上回りましたが、放水路区間では決壊した堤防はありませんでした。 太平洋戦争後、荒川放水路流域の都市は発展を遂げていきます。しかし、その一方で急激な地下水のくみ上げによって地盤沈下が起こりました。地面の高さが低くなっても、川の水位は変わりません。水害を防ぐために荒川放水路の堤防を高くする工事が行われてきました。最先端の技術でつくられた荒川放水路と岩淵水門 現在の隅田川は、かつての荒川下流域であり、江戸時代から物資を運搬する重要な航路でした。しかし、大雨などで洪水が起こるたびに人々の暮らしを脅かしていました。江戸幕府は「日本堤づつみ」と「隅田堤づつみ」という堤防をつくりました。この二つの堤防により下流側へ流れる洪水の量は制御できたため、江戸中心部の被害は減りましたが、上流側の農村では大きな水害に見舞われ続けました。 明治43(1910)年、大洪水が発生し、荒川の堤防から水があふれて市街地に流入し、大きな被害が発生しました。東京の中心部を守るには荒川の大正13年9月の旧岩淵水門。増水のため閉鎖している。左は荒川放水路の施工責任者として約16年間、工事を指揮・監督をした青山士。荒川放水路をつくるため、掘った土をトロッコで運ぶ人々。工事は工程によって蒸気機関車や蒸気船なども使われたが、現在と比べると人力の作業の比率が大きかった。この工事で掘った土は2180万m3(東京ドーム18杯分)にも及んだ。もっと知りたい人は行ってみよう!荒川知水資料館(通称:アモア)住所 東京都北区志茂 5-41-1電話 03-3902-2271休館日 毎週月曜(祝日を除く)、祝日の翌日、年末年始開館時間 9:30~17:00(7~9月17:30、12~2月16:30まで)入館料 無料詳しくはホームページをご覧くださいhttp://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage_index007.html
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