国土交通省No.134
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17時に米軍の管制隊が到着し、次々と飛来する米軍機に無線通信で着陸許可を指示。日本における近代的管制業務の始まりでした。 日本各地の飛行場を接収した米軍は、羽田、伊丹、板付といった飛行場で空港の管制業務を始めました。また、米軍は日本本土と周辺海域上空の交通整理や航空路の管制業務も開始。昭和22(1947)年にはジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地(埼玉))に東日本管制センター、福岡に西日本管制センターを設置しました。日本人で日本の空を守るために 昭和25(1950)年、3人の日本人が日本人初の航空管制官になるべく、アメリカ連邦航空局訓練センターに派遣されました。3人は技能資格を取得して帰国後、訓練用教材を作成し、昭和27(1952)年には教官として航空管制官1期生を育てました。 昭和26(1951)年にサンフランシスコ講話条約が調印された後も、航空管制は引き続き米軍によって行われていましたが、昭和30(1955)年の宮崎空港を皮切りに、各地の空港の管制業務が日本に移管されました。航空路の管制業務も米軍から引き継ぐため、多くの日本人が資格取得のための厳しい訓練に汗を流し、昭和34(1959)年、運輸省航空交通管制本部が発足。初めて日本人だけによる航路や高度)を飛行する仕組みができるかもしれません。 近年、東南アジアのLCCをはじめとして、日本の空港に離着陸する航空機は増え続けています。また航空機の性能向上により日本の上空を通過する長距離便も増えていますし、これからも増えていくでしょう。国土交通省は、安全確保を大前提に、環境にも配慮しながら、精度の高い運航環境を構築することで、航空機の増大に対応していきます。空路の管制業務がスタートしたのです。 しかし昭和40年代には、民間機と自衛隊機の空中衝突などの悲惨な航空機事故が相次いで発生しました。運輸省航空局は、事故を教訓に欧米の最新技術を導入しながら、航空路レーダーの整備や管制システムの近代化を推進。さまざまな技術変革とルール改正などを重ね、世界でも先進的とされる、現在の日本の航空管制を築き上げてきました。経済性の効率化も担う航空管制 時代の変化と共に、飛行する航空機は増大し、飛行時間の短縮など、経済的な効率化も航空管制の重要な役割になってきました。例えば着陸地点の混雑が予想される場合、出発時刻通りに出て空で待機するよりは、出発時刻を遅らせ最適な飛行時間で目的地に到着した方が、燃料も無駄にならず、CO2の排出量も抑えられて環境にやさしい運航が実現できます。現在の航空管制官は安全を確保すると共に、こうしたことも視野に入れ、パイロットと情報交換し、最適な運航のお手伝いもしています。 新しい技術開発の挑戦も続いています。将来は、全ての航空機の飛行計画、リアルタイムで更新される気象情報、空の混雑状況など、航空管制に必要なあらゆる情報を一元的にデータ処理し、より最適で安全な軌道(飛行経戦後に始まった日本の近代管制 エンジンを持つ航空機が日本で初めて空を飛んだのは明治43(1910)年。現在の代々木公園にあった練兵場で、日本陸軍の徳川好敏と日野熊蔵がそれぞれ別の機体で飛行に成功しました。それは、アメリカでライト兄弟が世界初の飛行に成功した明治36(1903)年からわずか7年後のことでした。 アメリカでは当時、パイロットの目視や手信号で航空機同士が衝突しないようにしていましたが、航空機が増えるにつれそれだけでは間に合わなくなり、滑走路脇で赤と緑の旗を持って交通整理をするようになりました。これが航空管制の始まりです。 日本では第二次世界大戦前、軍の飛行場の見張台から「吹流し」などで着陸の方向を示したり、滑走路脇で手旗を持った兵士が離着陸の指示を出したりしていました。 戦後まもなく、厚木の海軍飛行場にマッカーサー連合国軍最高司令官が輸送機から降り立ちます。同ジョンソン基地内で訓練室として使用されていたカマボコ兵舎。写真の右手側の地下に、東日本管制センターが設置された。日本陸軍の工兵大尉である徳川好敏が日本初の公式動力飛行に成功したアンリ・ファルマン複葉機。
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