国土交通省No.136
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04昨年11月、MRJ試験機の初飛行が成功。いよいよ本格化した国産旅客機開発のこれまでの奮闘と今後について、三菱航空機株式会社航空機安全統括室長の犬飼賢一さんに伺いました。国産旅客機の開発は6合目に突入平成27年11月11日、MRJが名古屋空港を飛び立った瞬間、涙がこぼれました。感極まるとはまさにこのこと。開発関係者はみんなそうだったと思います。同時に、三菱が航空機を造ることができると証明できたことに心から安堵しました。第二次世界大戦中の日本は、零戦で知られるとおり航空大国でしたが、敗戦後、航空機に関する物や情報はGHQに没収され、造る術が無くなってしまいました。昭和39年にようやく戦後初の国産旅客機YS-11を世に出しましたが、性能は優れていたものの、さまざまな意味で世界標準ではなかったため、販売機数182機で昭和48年に生産終了。以来、国産旅客機は造られていませんでした。しかし、航空機は100万点以上の部品からなる最新技術の集合体であり、航空機産業は多くの分野が関わる裾野の広い産業です。日本の技術向上を考えれば、ほそぼそとでも航空機産業に携わっておく必要がありました。三菱も含め日本が米ボーイングとの取引を始めたのはこうした理由からです。その後、最新鋭のボーイング787型機では日本の製造分担比率は構造の35%となり、三菱が主翼の製造を任されるまでになりました。これにより、信頼できるパートナーとして確立されたと感じています。しかし、部分的な下請けのままでは発展が限られます。「旅客機の製造に関わるならば、国内外のいろんなパートナーと共に技術を構築していかないと日本の技術が廃れてしまう」。その思いから、国産旅客機をもう一度造りたいという気持ちが日本の技術者たちの中でくすぶってい国産旅客機が世界の空を翔ぶ日を追い続けてMRJは、リージョナル機としては天井が高く、広い空間でゆったりと座れるのが特徴。客室を再現したモックアップに立つ犬飼さん。初飛行後に本格化する型式証明の取得に備え、昨年10月に社内の機能を航空機安全統括室に一本化した。
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