都市化と災害  
都市型水害はなぜ起きるのか
 関東学院大学教授 宮村 忠

都市水害の原因は雨水のラッシュアワー

一般的に都市水害というと、木を切って自然を破壊したため起きた・・・というように単純に考えられがちだが、本来、木を切るとか切らないということは、都市の洪水とは関係がない。私たちは「洪水は、水資源や保水力と深く関係している」と子供の頃から教わり、しかも専門書にも書いてあるから、何の疑問もなくそう思い込んできた。しかし、その具体的な検証となるとなかなか難しい。しかもそれを都市水害にも適用するとなると、「ちょっと待て」と言いたくなる。それに、都市水害と呼ばれているものについては、定義も定かでない。社会学的にいえば「都市」に対応して「農村水害」とか「山村水害」などと呼ばれる水害があり得るはずだが、そう言われないからには、「都市水害」と敢えて称する特徴が顕著だからといえる。 都市水害を理解するためには、2つの視点が必要となる。1つは洪水という自然現象、もう1つは水害という社会現象についてである。都市水害と称されるからには、洪水にどのような変化が認められるのか、そして水害の内容がどんな変貌を見せているのか、ということになる。洪水でいえば、量より質、つまり洪水の期間に流れる全量の変化より、ピーク時の流量だけが極端に大きくなってくることである。水害ということでいえば、従来は水害にならなかった洪水氾濫でも水害になってしまうということである。 都市が造られると、それに伴って道路が整備され、その道路には側溝が造られる。当然、住宅には雨どいが作られ、できるだけ早く川に雨水を流そうとするようになる。そのため降る雨の量が昔と変わらなくても、降った雨が川に到達する時間は飛躍的に短縮されることになる。もともと、地中にしみ込む雨の量はたかが知れているもので、どんなに自然が残っていても、短時間に大量の雨が降るとしみ込まないで流れてしまう。逆に言えば、しみ込むような雨なら洪水は起こらない。だから、しみ込むかしみ込まないかが問題なのではなく、降った雨を時間を短縮して流そうとするから洪水が起きるのである。そうした現象を都市型洪水(自然現象)と呼ぶ。これは朝の通勤時のラッシュアワーを例に取ると分かりやすいだろう。一日の乗降客はそんなに変わらなくても、皆、同じ時間帯に電車に乗ったらラッシュアワーが起こる。その込み具合を何とか緩和しようと、ダイヤを過密化して輸送量を増やしてみるが、それも限界に達し、そして遂に企業はフレックスタイム制を導入して回避するしかなくなってしまうのである。 川の場合も同じで、洪水が起こらないようにコントロールをしてきたが、それが上手くいかなくなってきて、フレックスタイム制(=遊水池造り)を導入しようということになった。また、水田であれば洪水になっても水害とは呼ばれなかったが、家が建てば水害になってしまう。かつては雨が降ると、雨水は田んぼなら約24時間、蓮の生えるような池なら約48時間位の間遊んでいた。しかし、今ではそのような所にも住宅を建てるようになり、そして少しでも雨水が溜まると、住民は「被害が出る」と騒ぐようになった。要は住民にとって、周囲に雨水が少しでも滞留することは許されないことなのだ。今まで許容してきたことが被害になってしまう、その住民意識が都市水害発生の根っこのところにあるといえる。さらに近年では、単に田んぼを潰して住宅を建てるから都市水害が発生する、というシンプルな図式だけではない。田んぼを潰して住宅を建てる時は、水に浸かりたくないから盛土をする。皆が盛土をするから、雨が降ると風呂にたくさんの人が入った時のように水位が上がるというようなことも起こり、盛土をするのを敵視する所さえ出ている。このように水害が以前より悪い方向に進んでいくことを、都市型水害の進化という。現在の都市型水害は様々な内容を伴って進化している。

 

昭和42年7月の豪雨では神戸に大きな被害がもたらされた(上2点)。浸水の水位はひざ下までしかなかったのに、数人が溺れ死んでいる。市街地が冠水して方向を見失った人が、水路などに落ちて亡くなったのである。それが都市型水害の特徴だといわれた 
 
住民の我慢度の低下が都市水害を悪化
 
平成11年に起きた都市型水害の特徴は、地下空間への浸水だった。地下街や地下鉄へと流入した水は都市機能を麻痺させ、福岡、東京では相次いで地下室での水死者を出すなど、地下空間における浸水対策の脆弱さを露呈する形となった(8月末の集中豪雨で浸水した渋谷の地下街)
 

社会的な変化として、住民の我慢度がどんどん落ちていることも指摘しておきたい。実際に少々の被害でも、精神的な苦痛を感じて我慢ができなくなってきている。例えば床下浸水が起こると、たいした被害ではないけれども、自分の家だけが水に浸かっているとすれば癪に障る。そうでない家と比べて不公平だと不満が出る。洪水時に車を走らせると波が起こり、その波が二次災害を招く。それを回避するために車を止めると、道路が渋滞するが、その渋滞を住民は許さない。このように社会現象は、水害を拡大する方向で進化する。これは住民の精神的な耐久力が落ちてきていることに起因する。都市型水害はこうしたことも要因となっている。 極端なことを言うと、今の若い人は雨が降っても長靴を履かない。履きたくないのである。実際、長靴などどこにも売っていないが、雨が降って靴が汚れることもすぐ被害へと直結する。例えば持ち物もそうだ。雨が降っても中にしみ込まないバックとか時計が作られる。つまり、人々の生活の便利度がどんどん引き上げられ、それに反比例するように我慢度がどんどん下がっていく。しかし、そのことによって昔より被害を大きくし、被害額も大きくしてしまう。そこに都市型水害の特徴がある。 「必要は発明の母」という言葉があるが、昨今の状況をみると、「発明は必要の母」といった状態である。降った雨を滞留させず一気に集めて流し込むシステムが作られると、それに対する要求がどんどんエスカレートする。したがって「少しぐらい水溜まりがあってもよい」という許容量はなくなり、「水溜まりはあってはいけない」という極端な方向に突き進む。当然、「都市とは長靴など履かないで歩ける所」という概念が生まれてしまった。 しかし、都市においては、便利度が上がれば上がるほど弱さを増す。それだけではない。便利度を上げると、引き換えに魂まで売り払うという現象を生むことになる。

便利度の無限大の追求が水害を招いた

私は東京の深川に住んでいるが、最近、行政が花火大会をやってくれるようになった。地元住民はお金を出さない。だから、「止まらないで、歩きながら見て欲しい」というように花火の見方まで指示を受けるようになる。多くの人が花火見物にやってくるので、ネオンや街灯もつく。当然、快適な花火見物とはならない。私の知っている限り、花火は家の中の電気を全部消して真っ暗にして見るものであった。よく見えることと、他人に迷惑をかけないエチケットであった。しかし、便利度を上げるために行政任せにすると、住民が本来持っているものを全部譲り渡さなければならなくなる。そのことにもう一度立ち返って考えて欲しい。最近、都市で集中豪雨が降ると、マンホールの蓋が飛んでしまう事故が多発している。そうした事態に対応するため、演習をやろうということになる。しかし、そんな演習は煩わしいので住民は迷惑がる。無理にやれば、サイレンの音で子供が昼寝できないと怒られる。日曜日に騒々しいことは止めろと怒鳴られる。そんな光景が都会の中ではたびたび見かけられる。 深川には、かつて下町特有の雰囲気が残っていた。平然と人の家を覗き、べたべたと干渉する。それが嫌だからといって深川を脱出して郊外のマンションに移り住んだ人も多い。しかし、そんな人たちが「下町は人情があっていい」「風情がある」「コミュニティがある」などと言う。そして自分たちの住むマンションでも、「コミュニティづくりをやろう」と運動を始める。 「他人に干渉されるのが嫌だ」と言って出ていった人たちが、今度は「助け合おう」などと言っている。しかし、コミュニティは不要だといってマンション住まいを始めたわけだから、多くの人にとってマンションの中でコミュニティが出来るとやはり煩わしい。つまり、本来あるものを拒絶しておいて、その反動が起きたから、「じゃあそれを作ろう」と言っているようなものなのだ。それを繰り返し、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、何が何だか分からない。 都市水害も同じようなメカニズムで進んできている。皆自分たちが種を蒔き、便利度を無限大に追求してきたから、今、その反動として被害を受けているのである。

本来あるべき姿に立ち返ることが大切
 
下]新宿のビルでも地階が水没し、男性1人が死亡している
 

最近の環境問題にも同じことがいえる。40数年前、人々は道路も住宅もコンクリートがいいと言ってきた。そのため手厚い行政サービスをしてもらった。そして行政の方も、住民の要望を聞いてさえいれば良いと主体性を喪失し、どんどん住民寄りにエスカレートしていった。一方、住民は提供されるものは何でも貰うという意識が当たり前となっている。 しかし突然、環境問題が浮上して、コンクリートはけしからんと住民も行政も騒ぎ立てるようになった。双方に問題があったことはすっかり忘れて、互いに責任の追及を始める・・・そんな構図に見えてならない。都市水害も同じで、無くすためには、互いに相手に責任を転嫁するだけでは解決しない。住民も行政もここで原点に立ち返り、従来の考え方を根本的に改めて解決策を模索する必要がある。 都市水害を考える上で最も重要なのは、本来のあるべき姿に立ち返ることである。最近、死語になりつつあるが「もったいない」という言葉がある。「もったい」とは広辞苑を引くと「物の本来の意」とあり、「もったいない」とは、「物の本体を失する意」とある。私は「もったい」とは「本来あるべき姿」であったり、「もともとあるもの」であり、それは物だけでなく、心や風土も含むと解釈している。 都市が便利さを追求することは決していけないとは言わないが、そのためにどんなことが失われるかをよく考えることが必要だ。そして、もし大切なものを失ったとするならば、原点に立ち返って取り戻したらいい。そうすると都市は強くなる。しかし、小手先でいくらいじっても都市は強くならない。 また、「もったいない」ことを知るためには「もったい」が何であるかを知る必要がある。しかし、それを知ろうとしないから、そのためにどんどん悪い方向に進んでしまう。 なぜ知ろうとしないのか。その一因は、住民史がないからではないか。住民史とは住民の歴史であるが、私は住民史を持たない住民は住民ではないと思っている。ふっと来て、ふっと去っていく。そんな住民が40年代に「隅田川は汚い、臭いから蓋をして欲しい」と言った。しかし、今はどうだろうか。「隅田川は東京の目玉だ」「隅田川のある街並みは素晴らしい」と言う。そして最近は遂に「隅田川百景を作ろう」という運動すら起こっている。地元に長く住んでいる住民にとっては、隅田川が臭いか、臭くないかではない。どんな隅田川でも自分たちのものなのである。だから「今更何を言うのか」と腹立たしく思うことさえある。


今こそ「もったい」を見直そう
 
月末の豪雨では博多駅が浸水。地下鉄空港線は運転を一時見合わせたた
 
住民史といっても、そんな面倒なことではない。例えば、深川はこれまでに何度も火災にあって消失している。当然「歴史を生かした街づくり」といっても、古い建物や大木があるわけではない。しかし、もう一度造ろうという意欲があった。もう一度それ以前の深川を知っているから、前の良さを残しながら造ってみようという心意気が、何回も町造りをやり遂げさせてきた。非常に革新的なことである。同時に昔のものを引きずるという保守的なものがある。 しかし、決して新しいものを拒否しない。新しいものを造るのだったら、造ったらいい。たとえ失敗と言われても、俺たちが使ってみせるから、というのがスタンスだ。これは「もったい」から生まれた心、あるいは風土かも知れない。決して誇るべき建造物はないが、もう一度造ろうという心、風土がある。これも住民史といってよいだろう。したがって、新しく移り住んだ人たちが「隅田川は都会のオアシス」とか「隅田川は心のふるさと」などと言うと、どことなく空々しく感じる。それは、住民史を持たない人たちが言うからではないだろうか。 現在、都市水害が起こると、危機管理の必要性が声高に叫ばれているが、都市の中で起こる水害に対して危機管理が及ぶことはないだろう。しかし行政サービスの枠がどんどん広がるのは仕方がない。そのため、往々にして危機管理と行政サービスの区分けが良く分からなくなってきた。 しかし、どうしても危機管理でやりたいというのであれば、次のような行動を取るしかない。水位が上がって堤防を乗り越えて市街地に水が流れ込むかも知れない時にどうするか。例えば、反対側の堤防を切って水を流す。これが危機管理である。ある特定の人が特定の行政判断でそれを行う。それがプロであり、危機管理である。したがって危機管理ができるか否かは、プロかそうでないかの分かれ目といってもよい。ただ、いざという時にどこの堤防を切るのか。それが分かっていないと河川管理はできない。切らないように事を収めようとするのは、河川管理者としてはアマチュアである。最近は、このプロとアマチュアの境目がなくなっているのが気になるところだ。 都市水害は社会現象である。人間は生きていく上で自然を土台にして生かしてもらっているから、当然、時として自然の猛威にさらされる。それが水害である。したがって、災害を調査し、対策を練ることは極めて重要である。しかし、災害は繰り返し起きているのだから、すべて経験済みである。逆にこれまで起きなかった全く新しいものは起きないともいえる。だから、いざという時にどのように対処すればいいか、解答は出ているともいえよう。 これまで日本の都市計画は欧米に追い付き追い越せで、自分たちの「もったい」を捨ててきた。そのため自分を見失い、都市水害という新しい災害を誕生させた。都市水害の根本的な対処のためには、もうこの辺で模倣を捨て、日本の自然や風土の中に存在していた「もったい」を見直し、それから都市のあるべき姿を考えてみてはどうだろうか。そうすれば、都市の中で顕著に起こるようになった現象、例えば地下街への浸水や情報中枢基地の浸水などの対応も、むしろ容易となろう。何が新しいかが判るからである。