第2節 みんなで支える

コラム 江戸時代のPFI−豪商による運河開削−

 文豪森鴎外の著「高瀬舟」の舞台として有名な京都の高瀬川は、江戸時代初期に豪商の角倉了以・素庵父子が江戸時代のPFIとも言える手法で開削した運河でした。インフラ整備は、これまで行基に見られたように宗教家の手による事例がありましたが、多くは、時の為政者によって行われました。しかし、この時代、海外交易等の経済発展を背景として豪商と呼ばれる資本家が活躍するようになり、インフラ整備の新たな担い手として、角倉了以という資本家が登場しました。
 了以は、朱印船貿易を行ったことで有名で、遠く安南(現在のベトナム)まで渡航し莫大な利益を得たと言われています。このように資本を蓄える傍ら、了以は、新たな投資先として馬や牛といった陸上輸送と異なり、安く大量に運ぶことが可能な河川舟運に目を向けました。河川舟運は古来よりありましたが、京都市内を流れる鴨川は、平安時代末期に絶大な権勢を誇った白河法皇をして、天下三不如意のひとつと言わしめたほど氾濫を繰り返した暴れ川で、この鴨川の例のように、交通の要所にも関わらず河川舟運に不向きな川が多くありました。
 了以は、こうした河川に対して、自らの投資により舟運を開通していきました。なかでも、高瀬川は、水路として不適当と考えられた鴨川に代わって、京都市内の鴨川から水を引き伏見の宇治川に注ぐまでの約10kmの運河開削となりました。了以は、この工事に当たって用地の買収費を負担しただけでなく、運河開削のために買収した土地から従来得られていた年貢も負担したと言われています。了以は、1614年夏に亡くなりましたが、運河の完成は、子の素庵に事業が引き継がれた同年の秋のことでした。同区間の開通により大坂から京都までが一つの水路で結ばれ、広域商業流通圏が形成されることになり、地域産業の振興や地域住民の生活安定に貢献しました。なお、本白書が公表される2014年は、了以没後400年という節目にあたります。
 
図表2-2-16 江戸時代の高瀬川
図表2-2-16 江戸時代の高瀬川

 
図表2-2-17 高瀬川流域図
図表2-2-17 高瀬川流域図

(参考文献)
 宮田章(2013)「角倉了以の世界」 大成出版社
 石田孝喜(2005)「京都 高瀬川‐角倉了以・素庵の遺産」 思文閣出版


注 白河法皇は、意のままにならないものとして「鴨川の水害、双六の目、山法師」の3つを挙げ嘆いたと言われています。


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