リレートーク

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中條 亜希子(高松市屋島山上交流拠点施設 やしまーる館長)

中條 亜希子

なぜ香川には美しいものがたくさんあるのか

私は兵庫県西宮市出身で、高松に住み始めたのは今から26年前。ちょうどサンポート開発のために高松駅は移設工事中だったこともあり、田舎にきた気がして寂しい気持ちがしたことを覚えています。

香川漆器 香川漆器

でも、少しずつその印象は変わっていきました。まず、穏やかな瀬戸内海、シンボリックな屋島、海岸沿いから見る夕陽の美しさに心を奪われました。さらに、暮らしの中に根付いた美しいものがあることにも気が付きました。どの家にも漆器の盆や器、嫁入り人形やうちわなどの工芸品があり、商店街にはハイセンスな喫茶店、香川県庁舎などのモダニズム建築やパブリックアート、少し歩けば大名庭園の栗林公園があり、商工奨励館や讃岐民芸館の中には新旧の良いデザインを見ることができます。古いものと新しいものが調和し、風土に馴染んだ美しいものは、次第に私の心を豊かにしてくれるものになっていました。

県庁舎東館ロビー陶板壁画「和敬清寂」 県庁舎東館ロビー陶板壁画
「和敬清寂」

では日本一小さい県で、なぜこれほどたくさんの美しいものが生まれたのだろう?
理由の一つには、讃岐漆芸と香川県工芸学校(現・県立高松工芸高)が誕生したことがあります。工芸学校初代校長の納富介次郎はウィーン万博に派遣されたほど工芸事情に精通した国際人で、東京美校出身の一流教師を高松に招き、漆芸をはじめとする工芸品を量産化するための職人教育をスタートしました。しかし、教師陣へ憧れもあって、芸術家を目指す生徒が増え、結果として日本の工芸界をリードする作家を輩出することにつながったといいます。(だから量産漆器も作品もレベルが高いのか)

やしまーるからの夕景 やしまーるからの夕景

戦争で高松が焼け野原になった時には、工芸学校卒の芸術家らが立ち上がり、美術館建設運動を起こしたことには驚きました。当時在京だった猪熊弦一郎に助言を求め、市民に募金を募り、高松市長だった国東照太ら政治家も動き、昭和23年に「高松美術館」が完成。ここでは香川県美術展覧会(県展)も開催され、戦後初の公立美術館として注目されました。(なんて市民の文化度が高いんだ)
終戦から5年後に県知事となり「デザインガバナー」と呼ばれた金子正則の存在も大きいことがわかりました。彼は県民の記念塔となるような香川県庁舎を丹下健三に依頼し、イサム・ノグチや流政之らを香川に招いただけでなく、デザイン研究所や讃岐民芸館では伝統工芸の技に新しいデザインを施して新商品にしました。この頃にアーティストと職人が共同開発した商品は、県産品として海外でも販売され、中にはニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久館蔵品となっているものもあります。(瀬戸芸の土壌はこうして育まれていったのか)

これらはほんの一端にすぎません。「なぜ香川には美しいものがたくさんあるのか」を紐解くうちに、私は香川・高松に暮らすことがいっそう誇らしく思えるようになっていました。先人の郷土愛が今の高松をつくってきたことを思うと、屋島山上から見下ろす街や瀬戸内海の美しさもまた格別です。

G7香川・高松都市大臣会合きっかけに、私たち市民も誇りを持てる持続可能な街づくりを考え、子供たちの世代につないでいきましょう。

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