官庁営繕

霞が関の歴史

「霞が関」の由来

 「霞が関」という地名の由来には諸説あり、古くは、日本武尊が蝦夷に備えて設けられたもので、雲霞を隔てる地であったことからつけられたという伝説があり、平安期より歌枕の地として多くの和歌によまれています。また江戸期以前、荏原郡の東境にあった奥州路の関名によるといい、江戸期には坂名となり、汎称として用いられました。明治五年、東京府の町名「霞ヶ関」となり、昭和四十二年、地名変更により、現在の霞が関一~三丁目・永田町となりました。(角川日本地名大辞典より)
中央合同庁舎第2号館の桜田通りの側に「霞ヶ関跡」の碑が建っています。
 
霞ヶ関碑
霞ヶ関碑

 


明治初期の官庁

 明治初期の官庁は、武家屋敷を利用したものが多く、皇居周辺を中心に点在していました。現在の霞が関に初めて立地したのは、明治三年の外務省といわれています。

 
明治初期の外務省
  明治初期の外務省(旧黒田邸)
『実写奠都五十年史』
(国立国会図書館所蔵)より

官庁集中計画(明治初期~中期)

1.皇居への官庁集中計画
 
 維新政府は天皇親政の目的のため、諸官庁を皇居周辺に配置しました。明治3年には皇城内本丸跡に諸官庁を集中するよう大蔵省に命じましたが、実際には着工されませんでした。その後明治6年皇城は焼失し、皇城の再営と本丸に諸官庁を集中することを計画しました。しかし、地質不良により計画は実現をみませんでした。 

 
 
   
2.井上馨の欧化政策
 
 明治政府にとって、治外法権を撤廃し、諸外国との対等な国交を樹立するための条約改正が大きな課題でした。明治19年5月の条約改正会議を控えて、外務大臣井上馨は欧化政策をとり、明治16年にはジョサイア・コンドルの設計で鹿鳴館が建設されました。さらに井上は、近代的な国会議事堂、裁判所、司法省を含む諸官庁建築が整備された姿を諸外国に示そうと計画しました。明治18年にはコンドルに官庁集中計画を二案作成させますが、実施には至りませんでした。 
 
 
   
3.ベックマンの来日
 
 明治19年ドイツ人技師ベックマンが来日し、官庁集中計画を作成しました。本計画は、東は築地本願寺から西は日枝神社に及ぶもので、中央には四角く博覧会場がとられ、日本大通りが東西軸をなしています。また東からは、天皇通りと皇后通りが結集し、西へは国会大通りが延びています。現在と同じ場所に計画された国会議事堂からはヨーロッパ通りが南を走り、これらの道路沿いに官庁建築が配置されています。 

 
官庁集中計画 ベックマン案
官庁集中計画(ベックマン案)
『明治の東京計画』
(藤森照信著,岩波書店)より
   
4.ホープレヒト案とエンデ案
 
 ベックマンが帰国した翌年、ドイツ人技師ホープレヒト、エンデが相次いで来日しました。ホープレヒトは、ベックマンの案に大幅に手を入れ規模縮小を図り、日比谷練兵場跡を60m幅の並木通りで囲んだ内側に諸官庁を並べ中心を庭園とするロの字型のホープレヒト案が生まれました。その後具体的な官庁の配置とデザインはエンデに任されることとなります。エンデは、美術上の不都合と地盤の問題からホープレヒト案の実行に不安を述べていますが、最終的には同意しました。エンデ案は一辺およそ600mという広大な正方形の敷地にまとまりを与えるため、四隅に建つ内務、大蔵、海軍、農商務及び文部の各省は同一形にして全体を一つの巨大な建物のように据えていました。 

 
官庁集中計画 ホープレヒト案
官庁集中計画(ホープレヒト案)
『明治の東京計画』より

官庁集中計画 エンデ案
官庁集中計画(エンデ案)
『明治の東京計画』より
   
5.山尾庸三案(現在の霞ヶ関の基本形)
 
 明治21年山尾庸三が内務省臨時建築局総裁に就任し、ホープレヒト及びエンデにより立案された日比谷練兵場跡の計画に従い、司法省を起工しましたが、敷地は劣悪を極めたため、計画の全体を変更するに至ります。日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省は残り半分の敷地の裁判所の隣地に、残りの官庁は議院、参謀本部、外務省、裁判所、司法省に囲まれた敷地へと変更しました。これが官庁集中計画の実現案となり、現在の霞が関官庁街の骨格となっています。

 
官庁集中計画(山尾庸三案)
  官庁集中計画(山尾庸三案)
『明治の東京計画』より

国会仮議事堂の建設

 明治政府は、明治14年国会開設の詔勅を公布しました。これにより、第1回帝国議会が明治23年招集されました。ベックマン、エンデ等による官庁集中計画により議事堂建築予定敷地は、明治20年の閣議において麹町区永田町1丁目(現在の千代田区永田町1丁目)に決定していましたが、官庁集中計画は多大な経費が必要であり、実現が困難であったため、この計画による議事堂建築は中止し、日比谷の一角の内幸町2丁目(現在の霞が関1丁目、経済産業省敷地)に一時的な仮議事堂を建設することとなりました。仮議事堂はドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラー及び日本人技師吉井茂則の設計により、明治23年11月24日竣工しました。そして、同年11月29日この仮議事堂の貴族院議場において、最初の開院式が行われました。しかし、第1回帝国議会会期中の明治24年1月20日焼失してしまいました。そこで同年10月吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェの設計により第2次の仮議事堂が竣工しました。第2次仮議事堂は関東大震災の火災は免れましたが、大正14年に再び焼失してしまいました。同年12月に第3次仮議事堂が建設され、昭和11年現在の国会議事堂が完成するまで使用されました。

 
 
第一次仮議事堂
第1次仮議事堂
『明治大正建築写真聚欄』
(日本建築学会所蔵)より


第二次仮議事堂
第2次仮議事堂
『明治大正建築写真聚欄』より
   

司法省赤レンガの完成

 明治28年に竣工した司法省は、明治19年にドイツから招聘されたエンデとベックマンによって設計されたネオバロック様式の庁舎です。また、施工中の明治24年に濃尾地震が発生したことから、耐震性の強化にも力を注ぎ建設されました。この建物は、司法省庁舎と司法大臣官舎という2つの機能を持つことから玄関口が2つありました。この司法省は、関東大震災にもほとんど被害を受けませんでしたが、昭和20年の戦災により、れんが壁と床を残し焼失してしまいました。その後昭和25年に改修され使用されていましたが、平成3年に復原改修工事が始められ、平成7年6月大臣官舎大食堂(現法務史資料展示室)を含め、当時の姿に復原されました。
明治3年の外務省の移転によりはじまった近代的官庁街区としての霞が関の町並みは、この司法省及び大審院の完成により、現在に近いものに形成されていきました。 
司法省及び司法大臣官舎
司法省及び司法大臣官舎
『建築雑誌113号』(日本建築学会)より
   

国会議事堂の建設

 明治20年に議院建築予定敷地が決定されて以来、建築に取り組むにあたって各方面より多くの意見が寄せられ、設計は懸賞募集にて行うことに固まっていきました。大正7年に議院建築調査会は、本議院の建築は懸賞競技として募集することに決定しました。臨時議院建築局は直ちに基本設計を決定し、大正7年9月に懸賞募集の規定を発表しました。118通の1次応募の中から4通の当選者が決定され、大正8年10月に発表されました。本議院の完成は、明治14年の国会開設の詔勅公布より55年後のことです。懸賞募集によって決定された案を参考にして、伝統を離れた独創的な近世代の様式を採用し、左右均斉の正面中央に角錐型屋根の高塔を建て、中央に帝室用大車寄せ、左右に両院の車寄せを配して壮重な外観となっています。大正9年に着工した議事堂建設も、大正12年の震災による被害も少なく、17年にわたる工事期間を経て昭和11年に竣工しました。

 
完成当時の国会議事堂
完成当時の国会議事堂
(参議院所蔵)
   

昭和初期の官庁建設ラッシュ

 昭和初期、特に昭和1桁台は、関東大震災の復興と相まって、霞が関一帯は空前の建設ラッシュを迎えました。
内閣総理大臣官邸 警視庁庁舎 内務省庁舎
内閣総理大臣官邸
(清水建設(株)所蔵)
警視庁庁舎
(清水建設(株)所蔵)
内務省庁舎
(清水建設(株)所蔵)
     
会計検査院庁舎 文部省庁舎  
会計検査院庁舎
『竹中工務店70年史』より
文部省庁舎
『大林組70年略史』より
 

終戦後の霞が関

1.霞が関の合同庁舎第1号
 
  利用者の利便性を高め、公務能率増進を図るばかりでなく、土地の有効・高度利用、建設費の削減にもつながる官庁施設の集約・合同化が進められました。そして中央合同庁舎第1号館が、霞が関での合同庁舎第1号として計画され、戦後初めての本格的な耐火建築物として昭和29年に完成しました。仕上げは合理的で明快な、意匠も簡素なものでした。その後、増築、改修を経て現在に至っています。農林水産省、林野庁、水産庁が入居しています。
 
中央合同庁舎第1号館
中央合同庁舎第1号館
   
2.超高層の時代へ
 
 昭和50年代に入ると、官庁施設も超高層の時代へ突入しました。昭和58年に完成した中央合同庁舎第5号館には、厚生省、環境庁、霞が関外にあった労働省と国土庁が入居しました(名称は省庁再編前のもの、現在は厚生労働省、内閣府の一部、環境省が入居しています)。これによって中央官庁を集中するという中央官衙の目的は概ね達成されました。第5号館は超高層耐震庁舎、身体障害者対策モデル庁舎、省エネルギー対策モデル庁舎をキーワードに設計されています。当時の入居官署であった国土庁には、災害時に内閣総理大臣を本部長とする「災害対策本部」が設置されるため、高度な耐震性が求められたためです。なお、現在災害時の災害対策本部設置の機能は、国土庁より内閣府(防災担当)へ移管され、現在も第5号館に入居しています。
 
中央合同庁舎第5号館
中央合同庁舎第5号館
   
3.法務省旧本館の復原
 
 明治の中央官庁街唯一の生き残りの法務省旧本館が創建時の姿に復原され、平成7年に完成しました。国の重要文化財に指定された外観は、霞が関官庁街の景観をさらに魅力的なものとしています。

 
中央合同庁舎第6号館赤れんが棟
中央合同庁舎第6号館赤れんが棟
   
4.中央官庁で初めての大規模な官民共同ビルの建設
 
 都市再生プロジェクト第一次決定(平成13年6月)において、文部科学省、会計検査院についてPFI手法(公共施設等の整備等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う手法)による建替えと、官庁施設を含む街区全体の再開発の調査を実施することが決定されました。これを受け、関係地権者などによる「霞が関三丁目南地区まちづくり協議会」が設立され、地区計画の見直しなどが行われました。中央合同庁舎第7号館は、国有地と民有地を合わせた計画地に、「霞が関三丁目南地区第一種市街地再開発事業」により実施され、国の庁舎部分は特定建築者として国が整備を行い、官民棟の民間部分は再開発事業にて整備されました。地区の中央には、「にぎわい」と「うるおい」のある緑豊かな広場を配置して官民融合の象徴とするとともに、江戸城の石垣や旧文部省庁舎の一部保存など、周辺地域と一体感のあるまちづくりが行われました。
 
中央合同庁舎第7号館
中央合同庁舎第7号館
 

 
 
5.PFI手法による大規模な建て替え
 
 国会議事堂とともに国会議員会集う拠点として重要な役割を担った議員会館は建設後約40年が経過し、老朽化、狭隘化が進むとともに、高度情報化、バリアフリー化への対応等が課題となっていました。また内閣官房や内閣府が入居し、国政上重要な具体事項に関する企画立案・総合調整を行っている内閣府庁舎は業務量の増加に伴い、庁舎の狭隘と敷地外への機能分散により、円滑な業務の執行に支障を来していました。 これらの施設は、PFI手法(公共施設等の整備等を民間の資金、経営能力及び 技術的能力を活用して行う手法)による建替えを行い、新たに生まれ変わりました。 新議員会館については、国会議事堂を中心として等間隔に配置し、最高高さを国会議事堂の中央塔より押さえ景観的に一体感を高めた計画としています。 内閣府敷地南側へ整備された中央合同庁舎第8号館についても、最高高さを新議員会館同様、高さを押さえ隣接する内閣府庁舎と一体性を表現した計画としています。
新議員会館


中央合同庁舎第8号館
   
   
   
 


お問い合わせ先

国土交通省大臣官房 官庁営繕部 整備課 特別整備室
電話 :(03)5253-8111

ページの先頭に戻る