そのようななかで、最も輝かしい業績を残した宗教家の一人として、道昭に師事した行基(668〜749年)が知られています。当初、行基は朝廷より民衆を惑わす妖僧とされその布教活動が弾圧されました注。
律令制の下、民衆は調庸といった租税の納付や役民として役務が命ぜられると、その義務を果たすために、自前の食料で都との間を往復する必要があったことから、飢えや病に苦しみ途中で行き倒れる者が多数生じました。そのため、行基は、利他行の実践のために布施屋と呼ばれる福祉施設を建て、食事や宿泊を提供し民衆の救済を図りました。また、利他行を布教する傍ら、教えを実践するために、豪族からの資本提供のもと、農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど、民衆を率いて土木事業を進めていきました(図表1-1-3)。こうした活動により、行基の教えに従う民衆は日増しに増加し、豪族の土地も潤うこととなりました。723年には、三世一身法が定められ、これまで公有を前提としていた土地制度が改められ、土地を開墾した場合に一定期間の私有が認められたことで、自発的な開墾が促されました。こうした土地制度の変更にも後押しされて行基の活動は更に広まり、その名声も更に高まっていきました。このような行基の社会事業は、やがて朝廷も認めるところとなっていきました。
743年、天然痘の流行、飢饉、政争等相次ぐ社会不安の高まりから、聖武天皇は国家の安定を願い「盧舎那仏造営の詔」を発しました。この大事業に対し大仏造営の勧進役に行基が起用されました。莫大な費用を調達し、多くの人夫を集めて行う一大公共事業を担えるのは、行基をおいて他にはいないと判断されたと考えられています。その2年後、当初は弾圧の対象であった行基が、聖武天皇によって我が国最初の「大僧正」に任じられ、官僧の頂点に立つこととなりました。行基が亡くなった749年の「続日本紀」には、彼が果たした業績や恩恵等から「行基菩薩」と記録されており、行基の残した様々な足跡は古代における民の力を活用したインフラ整備の事例として、時を越え我々に語り継がれることとなりました。
(参考文献)
- 井上薫(1997)「行基事典」国書刊行会
- 吉田靖雄(1987)「行基と律令国家」吉川弘文館
- 長部日出雄(2004)「仏教と資本主義」新潮新書
- 吉田久一(2004)「新・日本社会事業の歴史」勁草書房