第3節 イノベーションの歴史

■2 我が国が発展させたイノベーション

 次は様々なイノベーションにより、我が国における人々の暮らしや社会経済が大きく変化した事例を紹介する。

■コンビニエンスストア
 1970年代、スーパーマーケットの売上高は百貨店を抜き小売業界の最大のシェアを占めるまでになっていた。1973年には、中小事業者の経営力を高め、フランチャイズを含めた特定連鎖化事業の運営の適正化を図る「中小小売商業振興法」が制定されるとともに、大型チェーンストアの出店規制や営業時間規制がなされた「大規模小売店舗法」が制定された。そのような環境の中、コンビニエンスストアは、フランチャイズ方式を導入し、長時間営業、年中無休という独自の経営を行うことにより、単身世帯数の増加や高齢化等社会構造の変化に対応しながら(図表1-3-16)、様々なサービスの導入に積極的に取り組むなどにより、店舗数を増加してきた(図表1-3-17)。
 
図表1-3-16 コンビニエンスストア店舗数と単身世帯数
図表1-3-16 コンビニエンスストア店舗数と単身世帯数
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図表1-3-17 コンビニエンスストアのサービスの拡充
図表1-3-17 コンビニエンスストアのサービスの拡充

 コンビニエンスストアは、1927年、米国テキサス州の氷小売販売店が発祥と言われている。当時、各家庭に電気冷蔵庫が普及していなかったため、冷蔵庫用角氷は生活に欠かせない必需品であった。同年に設立されたサウスランド・アイス社(現 7-Eleven,Inc.)注30の、氷小売販売店を任されていたジョン・ジェファーソン・グリーンが、氷以外の食料品等を扱ってほしいという顧客の要望に応え、コンビニエンスストア事業を開始することとなった。1946年には、朝7時から夜11時まで、毎日営業するチェーンとして、営業時間にちなんで店名を「7-ELEVEN」と変更した注31
 1971年頃の日本では、大型スーパーであるイトーヨーカドーが首都圏を中心に出店スピードを上げていた。「地元商店街との共存共栄を図る」という企業理念により、規模の大小にかかわらず生産性を上げて人手を確保し、きめ細かくニーズに対応していけば必ず中小小売店においても成長の道が拓かれると考え、米国で既に開始されていたコンビニ事業について業務提携を決定した。1974年5月には、日本で第1号のセブンイレブン注32が東京都江東区豊洲にオープンし、翌年から24時間営業を開始した。
 1982年、米国で先行的に使用されていたPOSシステム注33を、セブンイレブンジャパンでは世界で初めてマーケティングにも導入した。POSシステムでは、単なる合計金額だけでなく、いつ、どの商品が何個売れたということまで把握できるため、その店の過去の販売データを蓄積できるようになった。例えば、前年同月の休日の販売データに天候に関する情報などを加味した発注品目および数量の決定(仮説)、その後、実際にどういう販売結果になったかを考え(検証)、次の発注にいかすというサイクルが仮説検証型発注の仕組みにおいて誕生した。POSシステムによりこうした発注システムが産まれ、品切れや過剰在庫を最小化させる在庫管理方法や、効率的な物流システムを構築した。違うメーカーの商品を同じ車両で配送する日本初の共同配送も1980年に実現し、共同配送や小分け配送という新しい仕組みや温度帯別物流の考え方を産み出した。こうしたきめ細かな単品管理と発注により、小さい店舗の中でも効率よく商品を展開しながら、顧客ニーズの変化に対応した。
 また、単身向けの小分け商品の販売や、公共料金等の料金収納代行サービス、銀行、電子マネーの導入、宅配や郵便物の受け取りなどの幅広いサービスを提供することにより、コンビニエンスストアは小売業としての商品販売だけでなく、人々や地域に密着した店舗として、社会的役割が増加している。さらに、災害時の営業継続や地域の見守り活動等を通じて、ますますその役割は重要になってきている(図表1-3-18)。
 
図表1-3-18 コンビニエンスストアによる地域貢献活動に対する利用者の認知と評価
図表1-3-18 コンビニエンスストアによる地域貢献活動に対する利用者の認知と評価
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■CVCCエンジン
 1960年代半ば、日本はモータリゼーションの時代を迎えつつあり、自動車の排気ガスによる大気汚染が大きな社会問題となっていた。政府としても対応が急務となっており、1966年、当時の運輸省が自動車の有害な排出ガスの排出基準を示し、翌年に「公害対策基本法」、1968年に「大気汚染防止法」が施行され、1971年には環境庁が発足した。世界的にも1970年に米国でマスキー法注34が制定されるなど公害対策が求められたことに加え、1973年にはオイルショックによりガソリン価格が急騰し、自動車の低燃費化が求められていた。
 1966年、日本自動車工業会が、米国における自動車公害の現状視察を目的に調査団を組織し、渡米した。本田技研工業(株)からも技術研究所の研究者が参加し、帰国後に、かねてから大気汚染研究の必要性を説いていた社員3人が、研究所長に訴え、大気汚染対策研究室(通称、AP〈Air Pollution〉研)が約30人体制で発足した。窒素酸化物等の測定方法や機器の研究を始めるところからのスタートであったが、当時の本田技研工業(株)の社長、本田宗一郎は、「4輪の最後発メーカーである本田技研工業(株)にとって、他社と技術的に同一ラインに立つ絶好のチャンスである。」と、新たなチャレンジとして受け止め、研究を進めた。生産設備の大幅な変更は不可能なため、ガソリンエンジンで対応できるものにするというモットーに基づきながら、様々な試行錯誤を繰り返した。先発メーカーと同じ研究をしていては追い付くことが難しいと考え、他社がやっていない方法に挑戦することとし、従来のガソリンエンジンでは使われていなかった副燃焼室付エンジンによる希薄燃焼を目指した。
 当時の本田技研工業(株)には、テストに使える4輪車の水冷エンジンがなかったことから、他社のエンジンを使う必要があり、結果的に汎用性のある研究データを収集することが可能となった。ある程度有害成分が減少する目処が立った段階で、本田社長は、1972年2月にマスキー法のクリアする目途がたったとして、製品概要の公表に踏み切り、1973年の商品化を宣言した。「君たちに聞いても、もうこれで完成したとはいつまでたっても言うはずがない。それを待っていたのでは会社がつぶれる。」と社員に言ったという。特許の申請途中であり、名前から構造が分からないような名前として、CVCC(Compound Vortex Controlled Combustion:(複合渦流調整燃焼方式))を考案し、同年10月に全容を発表した。他メーカーのエンジンにも応用でき、広く低公害化が図れることや、エンジン内部で燃焼をするため、触媒等による排出ガス浄化装置が不要となり、二次公害の恐れがないこと等のメリットを訴え、同年12月に、マスキー法を世界で初めてクリアした。
 この技術が契機となり、多くの排出ガス低減技術が考案され、日本の排出ガス低減技術を世界のトップに引上げた。現在は三元触媒装置や電子式燃料噴射装置などが進化したことにより、CVCCエンジンは市場から姿を消したが、現在も追求されている希薄燃焼方式の考え方をいち早く採り入れたものであった。

■自動改札機
 日本で初めて自動改札機を導入したのは、1927年に開業した東京地下鉄道(現在の東京メトロ銀座線)である。もともとニューヨークの地下鉄から導入したもので、10銭硬貨を入れるとロックが外れ、腕木を押すと1人だけが通れるという仕組みであり、均一運賃の路線では導入することができた。その後、紙に印刷されたり、書かれていたりした情報を人間が目視で確認して処理していた従来のシステムから、磁気カード等に蓄積された情報を認証し、読み取り、書き込むことにより処理するシステムが登場し、改札業務の効率化、確実化が図られた。1963年のロンドンでの試行に始まり、日本でも研究が進められた。
 1960年代、日本の経済は発展し、農村から都市部へと急激に人が押し寄せていた。様々なインフラが追いつかない中、鉄道も朝晩の通勤ラッシュ時の混雑はすさまじく、その光景は、「朝の通勤地獄」などと世界各地の新聞で報じられたほどである。改札には長蛇の列ができており、こうした駅の混雑を解消するために、人に代行して改札業務を遂行できる機械を作ることができないかという議論がなされていた。1964年から、近畿日本鉄道(株)が大阪大学との共同研究を開始しており、同年には機器メーカーであった立石電気(株)(現在のオムロン(株))へ依頼し、開発が進められた。当時、乗客の約8割が定期券利用者であったことから、定期券専用の自動改札機の開発が始まった。まず機械を細長い形にすることにより、乗客が立ち止まらず定期券を受け取れる仕組みが考えだされた。駅係員の処理スピードより速くするため、定期券を通す搬送方法として工場のベルトコンベアの仕組みを発展させ、定期券の情報を読み取るため穿孔(せんこう)方式注35を採用し、荷物と人を識別しながら不正に改札機を通過しようとする人を遮るためゲートバーを装着するなどして、1966年に現在の自動改札機の原型が完成した。千里ニュータウンの入居開始や、3年後の大阪万博開催に伴い、1967年、阪急電鉄(株)では、南千里・北千里間を延伸開業した。北千里駅に定期乗車券と普通乗車切符の両用自動改札機が設置され、世界初の無人改札システムが完成した。これを皮切りに1975年末までに関西の全ての大手私鉄と大阪市営地下鉄が自動改札機を導入した。
 また、近年ではICカード乗車券が誕生した。ICカード乗車券では、磁気カード乗車券よりも自動改札機内において、より高速度での処理が求められ注36、「かざす」から「触れる」へ変更するなどしながら実験を行い、ICカード乗車券の性能を向上させ、2000年以降導入が進んだ。
 こうした駅務の自動化・高速化により鉄道経営が合理化され、私たちはより迅速・快適に移動することが可能になっている。

■日本の鉄道会社の経営手法
 日本の鉄道会社は、鉄道事業以外にも不動産業、流通事業等、様々な事業に取り組んでいる。こうした現在の日本の鉄道会社の経営手法の基盤を作ったと言われる阪急電車と、その創業者である小林一三についてここでは振り返る。小林一三は、元々銀行に勤めていた経緯から(株)阪鶴鉄道の国有化に伴う売却、同鉄道売却資金を原資とした(株)箕面有馬電気軌道の設立に携わることとなった。
 同社は、大阪の中心地(梅田)と観光地(箕面・有馬等)である田園地帯を結ぶ郊外路線注37であったことから、利用者があまり見込めず採算をとるのは困難であると予想されていた。紅葉や滝の名所である箕面や温泉で有名であった有馬等郊外を開発する田園都市計画は、その時代の日本では独創的なアイディアであった。当時の大阪は急激な家賃上昇等により住環境が劣悪な状況にあったため、この大阪に集中している人口を沿線地域に移動させれば、定期券による安定的収入源の確保による新しい乗客の創造や不動産販売の収益も期待できると考え、当時珍しい分割ローンでの販売による沿線地域の不動産ビジネスを開始した。こうしてまず沿線における住宅経営を開始し、その後、休日に鉄道を利用してもらえるよう、動物園の経営や温泉場営業の創始、野球場の新設などを次々と行った。創立総会を開始した1908年には、日本で最初のPR冊子と呼ばれる「最も有望なる電車」を作成し鉄道のPRを、1909年には「如何なる土地を選ぶべきか如何なる家屋に住むべきか」を作成し沿線住宅のPRを行った。こうした経営の多角化は、鉄道事業者の収益性を高め、安定的な鉄道経営に結びついた。また、ターミナル駅に、沿線利用客を顧客とした百貨店をつくり、既存の他の百貨店利用客とは異なる層をターゲットとして百貨店事業を行った。沿線に動物園や宝塚歌劇等の娯楽施設を作り、小林自らが宝塚歌劇の台本を執筆することもあった。
 小林一三は、大衆向けのサービスの提供に取り組み、「便利で環境の良い住宅に暮らし、デパートで買い物をしたり、観劇を楽しんだり、ゆとりある生活をする」という、現代に繋がるライフスタイルの創造を行い、大衆消費時代の経営戦略の先取りをした点でイノベーションを起こしたと言える。その後、多くの鉄道会社がその経営手法を模倣し、今日の鉄道会社のビジネスモデルとなったとも言われている。


注30 セブン−イレブンジャパンは1991年に米国サウスランド社の株式を取得し、2005年には子会社とした。
注31 1971年には、多くの7-ELEVENが実質的に24時間営業となった。
注32 1973年に(株)ヨークセブン(1978年にセブンイレブンジャパンに改称)が設立した。2005年には、(株)セブンイレブンジャパンと(株)イトーヨーカドー等を子会社とした持株会社である「(株)セブン&アイ・ホールディングス」を設立した。
注33 POS(Point Of Sales)システムとは、販売記録を活用して商品調達を決定するシステムのこと。1970年代から米国において、店舗ビジネスを展開する会社が各店舗の商品やサービスの金額計算を容易にし、レジ担当者の不正防止や誤った売価での販売などを防ぐ目的で導入され、先行的に発展していた。セブンイレブンで初めてPOSシステムを導入したのは1978年である。
注34 当時世界で最も厳しく、達成不可能といわれた排出ガス規制。大気汚染の原因物質である一酸化炭素と炭化水素を1975年から、窒素酸化物を76年から、ともに従来の10分の1に削減した車でなければ販売を認めないというもの。
注35 定期券に直径3mmほどの小さな穴を穿(うが)ち、その配列によって情報を記録し、それを改札機で読み取るという方法。
注36 東日本旅客鉄道(株)の実験によると、磁気カード乗車券は機械による自動搬送のため、改札機内の処理時間は0.7秒であったが、ICカードでは人が手に持って移動し1回のタッチで処理するため、わずか0.2秒(カードとR/W(読み取り・書込み装置)間の処理時間は0.1秒)で処理をする必要があった。
注37 実際には有馬は実現せず、宝塚までとなった。


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