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国土交通白書 2023

第2節 新しい暮らしと社会の姿

インタビュー 自動化技術を使いこなす人間中心の社会デザインに向けて

(東京大学生産技術研究所 教授/次世代モビリティ研究センター センター長 大口 敬氏)
(東京大学生産技術研究所 教授/次世代モビリティ研究センター センター長 大口 敬氏)

 デジタル化で暮らしと社会が変わる時代にあって、私たちは将来像をどう思い描き、どのように歩みを進めていけばよいのだろうか。

 これからの新しい暮らしと社会に大きな影響を与え得る運転自動化技術の動向を中心に、企業や行政に求められる視点について、交通制御工学やモビリティシステムなどを研究されている大口氏にお話を伺った。

●運転自動化技術をどう使いこなすのかを問うべき

 暮らしや社会の将来像を思い描くに当たっては、社会として、あるいは人類として、「テクノロジーをどう使いこなし、どう受け入れていくのか」との問いに向き合う必要がある。

 歴史を振り返ると、二足歩行である人類は、知恵をしぼり、技術を開発し、「少しでも遠くへ、速く、安全に、そして多くの往来を」と望み、交通システムを「発展」させたつもりでいると思う。しかしながら、いわゆる、現代の自動車と呼ばれるタイプの乗り物を受け入れ、私たちが現状目にしている道路や街路、歩道や車線などの社会インフラが築き上げられたのは、所詮この100年程度のことであり、人類数百万年の歴史からすれば、ほんの一瞬のできごとである。自動車により利便性が向上した一方で、交通事故や温暖化の進展など課題にも直面している。この観点で、将来像として現状と全く異なる絵姿を思い描いたとしても、それは夢物語ではなく十分あり得るものであり、現在を生きている我々が今見ている世界の方が、むしろ泡沫の夢のようなものかもしれない。

 自動化の進展を突き動かすものは、自動車の運転操作について「少しでも楽に、快適に、安全に、排ガスや二酸化炭素を抑えて」走りたいという欲求であると思う。自動化技術がもたらす価値に対する人々のニーズや社会的プレッシャーに対し、一過性でなく、汎用性のある解決策を提示し、デファクトスタンダード化されないと社会に普及しないと考えている。例えば、衝突被害軽減ブレーキは、安全な車両を望む社会ニーズを反映したものである。パワーウィンドウは、窓の開け閉めの手間を楽にした自動化である。新しいシステムに社会も徐々に適応し、例えばオートマチック限定免許も現在は市民権を得ている。

 つまり、社会やユーザー側が望む機能を踏まえて運転自動化の技術開発が進むことで、本質的な価値が生まれるものだと思う。自動運転のレベル分けに固執せず、地域の足の確保、高齢者や子の送迎ニーズへの対応など、運転自動化技術の使い道について、格差のない移動を社会システムとして支えるといった目的の部分に目を向けるべきである。

●自動運転への信頼を支える制度、プレーヤーが課題

 道路を走る車両の運転自動化技術について、この数年で見えてきたことは、基本的には人間の指令により責任をもって移動体を動かすことを前提としつつも、その一部を機械、つまり、アルゴリズムに任せるとの文脈で、自動化が図られていることである。これは、バス・タクシー、トラックでも、また、鉄道、船、飛行機にも当てはまることである。

 日本の車両の安全基準の仕組みや道路のメンテナンスは、交通システムの高信頼度、高品質に貢献する面において世界的にも稀有である。このため、日本では、自動運転技術に同程度の信頼度が要請されることが大きな課題となっている。とくに、人間による運転が存在しない「レベル4」の自動運転という全く新しい技術に対し、時代に合わせた制度設計が必要となるかもしれない。

 さらに、日本ではすでに「レベル4」自動運転が制度として可能となる中、新しいことにチャレンジする企業等のプレーヤーがもっと出てきてもよいと思う。海外と比べ、取組み機運という観点で忸怩たる思いがある。

●自動運転の最終形は決まっていなくてよい 

 将来に何を望むかは人それぞれであり、自動運転の最終形は決まっていなくてよいと思う。個人的にはすべての移動が完全に自動化するとは思っていない。例えば「行き先さえ指定すれば、経路設定から運転まで全自動化され、渋滞もなくなる」といった状況は、全地球的なAIにより全体最適が図られる世界だが、このような社会では人間の気分次第での寄り道など認められなくなる。人間を中心に据えて、人々が幸福を感じる社会を思い描くとすると、自動運転モードと人間が運転するモードが選べて、人間がある程度責任をもって自ら決定できる自由度を残し、自動化技術を上手に取り入れることが理想ではないかと考えている。これは曖昧で、先鋭的でも美しくもないようだが、技術水準の高さにばかり気を取られるより、ある程度の冗長性をもった交通システムが現実解ではなかろうか。

 また、自動運転により移動時間の使い方が変わる、もしくは、「移動時間を積極的に活用しながら空間を移動すること」により、移動体を新しい価値を生む場とすることができるかもしれない。例えば、時速を70キロから30キロに落とすなど自動運転で低速にて移動することにより、食事や運動を楽しんだり、針に糸を通すような作業が可能となるような移動体が作れるかもしれない。様々なアイディアが持ち寄られ、そこに投資も行われて経済が動いていくことで、よりよい未来が開けることを期待している。

●人間性の回復の一環としてインフラのあり方を考えるべき

 日本と海外の道路に対する歴史を比較すると、既にローマ時代から馬車が存在していた西洋社会においては、馬車があったことで道路の幅員などが発達した。一方で、日本は江戸末期まで、徒歩か籠か馬が移動手段であったため、西洋と道路のあり方がまるで違う。最近、人間性の回復の一環として、ニューヨークやパリでは市街を歩行者中心に新たに造り変えている点は注目に値する。

 なお、海外で進められる自動運転の実証事業などが、先進事例として日本で大きく取り上げられることも多いが、実はまだ試行錯誤段階で、一過性となる場合もある。萌芽的な動向を把握することは大切であるが、たかが100年、でも100年掛けて発展してきた自動車産業の21世紀型の変容へ向けて、やみくもに海外の動きを日本に取り入れていくのではなく、将来の展望を見極めていくことが重要である。

 日本は、雪国から離島や山間部まで地域差が大きいことが特徴であり、その特性に応じた様々なソリューションを提案できれば、世界が注目するようになるのではなかろうか。このとき、地域や状況に応じた個別的なソリューションが必要となるとともに、普遍性、汎用性を意識して取組むことが大切である。

●新しいフレームを構築する気概をもつことが大切

 現在の道路、自動車に関わる制度は、歴史的には所詮100年程度、日本に限っては戦後70年程度のものである。新技術により既存制度に不具合が生じるようなら、既存制度に固執せず、長い歴史観を持ってすべてを見直し、新しいフレームを構築する気概をもつことも必要である。行政官は中長期的な構想やビジョンを持ち、社会に真に役立つ制度を作り上げていくやりがいのある時代に差し掛かったと前向きに捉えていただきたい。