1.清水委員プレゼンテーション
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(1)地域の原地形の重要性
- 今後は特に遠景の眺望場の創出と保全を重要視していかなくてはならない。
- 都市、あるいは地域は競争の時代であると言われるが、都市の根源的な個性は何かというと大自然がつくり出した地形であり、この地形がつくる景観である。
- 東京の原風景は江戸時代ぐらいまではある程度かいま見ることができる。江戸の景観要素として富士山は決定的に重要な要素であったし、娯楽の場から見た江戸湾の風景も重要な遠景の要素であった。
- 東京はアップダウンが大変激しいところで、都市計画にとってある種バリアでもあったが、都市そのものに対してはアクセントを与えるよい景観要素であった。
(2)CG技術で復元した江戸の景観
- 1843年の天保図をもとに、CGの技術を使い江戸の景観を再現した。
- 財務省と外務省の間の通りは、明治の中ごろまでは潮見坂と呼んでいた。ここから江戸湾が見えた。
- 愛宕山は標高25.7メートルの山で、かなり高い山で、当時は浜離宮越しに江戸湾を眺望する景色が開けていた。
- 日本橋から見る富士山は、広重が描いているとおりだった。
- インターネットを使って当時の景観をかいま見れる装置や、ほんとうの原風景を知ることができる視点場あるいは眺望場を作っていくことが必要ではないか。
(3)江戸から見た富士山
- 江戸時代の絵図から、大名屋敷、旗本組屋敷、寺社、町人地などの情報が読み取れる。またいろいろな文献を調べて、どういう土地利用であればどのぐらいの建物の高さであったかデータを作る。それと標高をダブらせると、江戸のサーフェスがどうであったかわかる。富士山の見え方は、現在の標高モデルを使ってある程度計算することができる。
- 七合目が見えたことをもって富士山が見えたとして整理すると、いわゆる名所と言われたところ以外からも富士山というのはかなり見えていた。
- 京橋から日本橋、駿河町は文献でわかっている富士山の見えたところだが、それ以外でも、火よけ地としてつくった広小路とか、堀沿いとかから富士山が見えた。また、船の上からでも、水面からでも富士山が見える場というのがかなりあった。
- 番町のあたりは、富士山の山あてをしてつくった街路ではないかと言われている。青山通りは、富士山が正面に来る。
- 江戸においてはほんとうの生活景観の中に富士山があった。
(4)江戸の景観の眺望場
- ホテルオークラの裏側の江戸見坂は、江戸の市中が見渡せたからそういう名前がついた。この坂を登ると、浅草寺のあたり、神田、日本橋、現在の丸の内のあたりまでずっと見えた。このように江戸にはかなり眺望場があった。
- 江戸湾は見える場所は少なく、むしろ後背の大地のほうから江戸湾が見えていた。
(5)眺望の保全
- 文京区役所の25階展望台からは新宿のビルのスカイラインがたまたまくぼんでいるところに富士山が見える。もし都庁がここにあったとしたら、もう富士山が見えなくなってしまう。
- 東京23区の各区から最低1点、眺望を保護していくことを考えられないか。江戸川区や江東区には、必ず富士山がきれいに見える場所というのがある。ビルが1個建ってしまうとそれがつぶれてしまうという状況だが、何とか眺望を保全するすべはないだろうか。
- 最近、景観とか地域の様子について、インターネットで市民が情報が手に入れられる環境が整いつつある。これは、国土、地域の歴史的変遷を知り、特色ある地域のあり方を考察できる環境を整備していくことであり、大賛成だ。
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以上 |
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