1.鈴木委員プレゼンテーション
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(1)人間に学ぶみちづくりとは
- 日本の近代化のときに海外から持ち込んだ学問は既に定説となったものであったので、日本の学問は非常に型にはまったものになった。しかも非常に狭い“たこつぼ型”であって、融和的に新しいものが生まれてくる下地がなかった。そのような偏重したところが道づくりの動機にもあった。
- 人間があり家族があり、それからコミュニティなどがあれば、科学技術でエンジンは変化するが、箱型四輪の車の形はずっと残るだろう。それならば道路をつくっておいても無駄ではない。
- まず人間にとって自然とはどういうものなのかというと、自然とのコンタクトが非常に大事だということであるならば、道路というのは一番人間がよく使うものだから、道路を緑化しておくことの意味は十分あるだろう。
(2) 学問の真価は何によって問われるか
- 私の考える研究の枠組みは以下のとおりである。
I編 意義役割 大義とか言論
II編 方法論 戦略論・計画論
III編 手法論 戦術論・技術論
IV編 周辺諸学 関連学問
V編 現場への適応(応用)
- I編の意義役割、これがいわゆる大義であり、ここが非常に大事なところだろうと思う。
- III編は手法論、戦術論であるが、これまでこれらの技術論が非常に優先されてきた。
- それは追いつけ、追い越せと急遽近代化したいということで勉強してきた経緯がある。そのようなことに対して「ベルツの日記」の中ではっきりベルツ先生は戒めている。「日本人は結論だけ欲しがって、そのプロセスを勉強しない。」III編の結論のところばかりに日本人は終始していたのではないか。
(3)公と私
- 公は予算がつくまで一生懸命な予算主義であり、民間は結果がよければ予算がつく決算主義であり、両者は違う。これらの評価システムをどう組み込むかが重要である。
- 行政における評価は10年くらいのタームで考えないとだめである。公共事業は公共の大義を考え一つ一つのプロジェクトで評価することは非常に困難なことである。
- なぜ公的なところがやるかというと、一つ一つのプロジェクトで効果があるとはすぐにはわからないからである。
- 日本は公的にも私的にも非常に教育投資をしてきたのだから、それをどう生かすかは重要であり、日本人のパワーが出るような社会システムをつくらなかったら空回りではないか。
(4)合意形成に時と金を使う:流通経費
- 公と私の違いは、公は計画段階で買うか買わないかを決めることである。だから、公は事前に流通経費をもっと使ったらよいのではないか。
- 流通経費を使うということを例えて言うと、中華料理屋に行ってもメニューを見たって全然わからない、だからカラー写真を使ったり、模型を使っている、このようなわからせる努力をすることである。
- A案、B案、C案というものを堂々と出して、徐々に絞り込んでいくようなことをやって、合意形成をしていったらどうか。そこに人々の参加が期待できる。
(5)空間について、マクロ・ミクロ・中間を考える
- ミクロ、マクロのスケールの観念が必要である。インフラで考えると、オーダーの概念が必要である。
- 筑波の研究学園都市では“研究学園”はできたが、“都市”はできてないような気がする。消費経済が貧弱だからだ。
- 優良な住宅地のように、まちが自分たちの資産になり、しかもそれがよくなっていくことが必要ではないだろうか。
- リゾートで失敗したのも、良いセカンドハウスの分譲や別荘地をつくらず真ん中にホテルだけできてしまったことにある。
(6)空間システムのフレキシビリティ
- 一体、日本の顔はどこにあるのだろう。ロンドンの顔とか、ニューヨークの顔というと、やはり決まったところが出てくる。
- 東京では、これほど膨大な各種プロジェクトをやっているが、六本木が東京の顔でもないだろう。新宿も、なぜ魅力がないのか。それは景観工学的に言えば、引きの空間やがないからではないか。
- 景観の構造である、視点と対象、その引きの空間、背景の空間、それから天空の問題、添景の問題など基本的エレメントが東京にはきちんと備わっていないのではないか。
- 柔軟性がある役割をする緑地の空間とか川の空間などがある。そういう空間のフレキシビリティをうまく取り入れたことをやればよいと思う。
- 最後に人間が求めるのは用・強・美であり、機能論と耐久とか安全とかの強さの問題と美しさの問題、手を付けてはいけない聖なる空間とか、あるいは心のよりどころになる空間を面的にきちんと確保しておく必要があるのではないか。
- 自然には人間が解きあかせない超越的価値の恐ろしさというものを含んでいるのだから、余裕を持っておくべきではないか。
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以上 |
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