水管理・国土保全

  

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富士川の歴史

河川水害と闘った甲斐と駿河の人たち

富士川は古来より水害に悩まされており、信玄堤を始め、万力林・雁堤などの歴史的治水施設や「出し」が数多く残っています。
 こうした伝統は聖牛や三基構などととして現在の河川改修にも活かされています。


出し


聖牛



山梨には昔から三川落合いという言葉があります。
 急流河川が三つも合流する場所で、急流が落合う場所は水害の難所でした。笛吹川の「万力林」と「近津堤」、釜無川の「信玄堤」で、いづれかの堤防が抜ければ、甲府盆地は水浸しとなってしまいます。水防に関しては、平安時代は神に祈ることが主でしたが、南北朝時代(1,300年代)には「万力」の地名が現れることから、その頃には治水整備(川除)がなされていたと思われます。



万力林と石積み




戦国武将「武田信玄」は1452年から大規模な治水システムを20年近い歳月をかけて築いています。これは、流路安定「出し」、河川分流「将棋頭」、釜無川への合流河川を平野部と大地部の二つに分け、平野部の「信玄堤」が受けていたエネルギーの減殺、堤防に「聖牛」を配し、破堤しても濁流が川に戻るよう「霞堤」とし、土石、流木防御のための堤防付近の植樹、堤防守り集落の租税免除、水防の重要性を知らせるための「御幸祭」の奨励を行いました。信玄堤一連施設のうち、分流した川の一つは明治の洪水で消滅しましたが、信玄堤は現在まで甲府盆地を守っています。



信玄堤とカエデの大木



一方、静岡においては、江戸時代1621年、古郡氏(後の富士代官)が静岡県富士市を富士川洪水から守る「雁堤」の整備に着手しましたが、工事は、堤防を築いては流される事の繰り返しで、親子孫三代にわたる難工事で、人柱を建て、ついに完成に至ったと伝えられており、現在でも富士平野の治水の要として機能しています。


雁堤(空から見ると雁が羽を伸ばしているように見える)













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