第1章 住宅・社会資本の形成と人口の動き
第1節 戦後の住宅・社会資本形成の軌跡
戦後の我が国の経済・社会の変化は急速であり、輝かしい経済成長を遂げたが、その反面様々な問題が生じた。国土と住宅・社会資本の形成過程についても急速で変化に富むものであったものの、今日まで課題として残された面がある。
高度成長の出発点とされている昭和30年(1955)から現在まで、我が国の経済規模はおよそ10倍になり、人口規模も戦後(1947)から約1.6倍となった。わずか50年ほどの間に起こったこうした急激な変化は国土の上で繰り広げられる活動をより活発で高密度のものとし、国土と住宅・社会資本の形成過程にも大きな影響を与えることとなった。
戦後、我が国の合計特殊出生率は長期的に低下し、従属負担の継続的な低下をもたらした。こうした時期は世界人口白書(1998年版)においては「人口ボーナス期」と呼ばれているが、我が国の場合は高度成長の時期とちょうど重なっている。
高度成長期には、大都市圏へ膨大な人口が移動すると同時に、主として第2次産業で雇用され、我が国の就業形態を雇用者化するとともに急速に工業化を押し進める原動力ともなった。また、新しい世帯の増加により住宅や耐久消費財の需要が創出され、それが高度成長を需要面から支えることとなった。
このように、人口の動きは一方では人口ボーナスという人口構成上の要因を通じて、他方では人口移動による労働力の供給と需要の創出を通じて、高度成長の実現を支えた。
この時期の我が国の資本形成を振り返ると、まず社会資本と民間資本の関係では、昭和45年(1970)頃までは経済の高度成長に伴って民間の資本形成が急激に伸びたため、社会資本・民間資本比率が急激に低下した。社会資本に関しては、人口集中・都市化・工業化の中で大都市圏への投資の比率が高く、また事業目的別投資額の構成比も比較的産業基盤で高かった。
結局、人口の動きの観点から見れば、我が国は人口ボーナスを最大限利用する形で大都市に人口を集めつつ第2次産業に投入し、また民間資本や産業基盤社会資本に集中的な投資を行って奇跡的な高度成長を達成したといえる。こうした高度成長は、国民に大きな福利をもたらしたが、その反面で過密・過疎問題など、国土形成・国土利用のゆがみといえる問題も引き起こした。
昭和48年(1973)の石油ショックの前後に我が国の経済は大きな構造転換を迎え、高度成長から安定成長の時代に入った。この時期は高度成長がもたらした国土形成過程のゆがみをある程度修正していく時期となった。まず、社会資本がその遅れを少しずつとり戻していき、社会資本・民間資本比率が昭和40年代後半から昭和50年代後半にかけて一転して上昇した。地域的にも大都市に比べて遅れていた地方の社会資本整備が進み、また、内容的にも生活関連基盤整備への投資が拡大していった。
昭和60年(1985)頃からのいわゆるバブル経済の時期には、再び人口移動の波が訪れ、東京圏への人口の一極集中が起こるとともに、民間の投資が盛んになったため、社会資本・民間資本の比率は低下し、社会資本においては大都市圏の比率が拡大している。この時期には三大都市圏を中心に地価高騰が発生し、結果として大都市中心部に虫食い状の低未利用地が残されるなど、住宅・社会資本に関する課題を残した。
このように、我が国の住宅・社会資本は、経済の急成長や人口の大規模な移動など急速に変化する経済・社会に対応するため急速に整備されてきた。我が国の急速な資本形成は特に高度成長期にその傾向が顕著であり、その後少しずつ手薄であった部分の充実が図られてきたとはいえ、将来へ先送りされた課題も少なくない。その中で国土及び住宅・社会資本という観点から残された主な問題として、次の三点があげられる。
(1)人口の配置と年齢構成のバランスのゆがみ
(2)ストックの総合的な機能の弱さ
(3)大量生産・大量消費の生活様式
(1)は、高度成長期に起こった若年人口の大規模な移動によって引き起こされた問題であり、大都市で低下する出生率、地方のみならず大都市でも取り残され孤立する高齢者、消滅する地域コミュニティなどいろいろなところで姿を変えて顕在化しつつある。
(2)は、急速な経済成長や大規模な人口移動に対応しようとして急いで整備された住宅・社会資本が結果として厚みのあるストックとして残ることなく、その後の社会情勢の変化により陳腐化し、社会の要請に合わなくなってきたりしている問題である。
(3)は、大量生産・大量消費の生活様式の定着により環境に大きな負荷をかけていること、未だに生活基盤の整備が遅れていることなど50年以上にわたって経済を中心とした活動が成長・拡大したことによってもたらされた問題である。
