第3章 原子力災害からの復興に向けて
(1)序
原子力災害の大きさと広がりには、底知れぬ恐怖がある。そして人々は、「戦後」を刻印したヒロシマ、ナガサキの原爆と、「災後」を刻印しつつあるフクシマの原発とを一本の歴史の軸の上に、あたかもフラッシュバックされる映像のように思い浮かべる。今回の地震と津波被害を起こりえないものとして、考慮の外に追いやっていたのと同様の思考のあり方が、ここにも見出せる。
いや、人々は原子力については、ことさら「安全」神話を聞かされるなかで、疑う声もかき消されがちであった。原発事故を起こりえないものとした考え方は、その意味では、地震や津波災害の場合よりも、何か外の力が加わることによっていっそう閉ざされた構造になっていたのだ。
今、人々は進行中で収束をとげぬ原発事故に、どう対処すべきか、思いあぐねている。今回の地震と津波の災害に対し、「減災」という対応方式が直ちに認知されたことと、それは対照的と言わざるをえない。ある型に回収されるような事態ではないからだ。パンドラの箱があいた時に、人類の上にありとあらゆる不幸が訪れたのと類似の事態が、思い浮かぶ。
しかし、パンドラの箱には、たったひとつ誤ってしまわれていたものがあった。それは何か。「希望」であった。それから人類はあらゆる不幸の只中にあって、この「希望」を寄りどころにして、苦しい日々をたえた。「希望」−それは原発事故に遭遇したフクシマの人々には、まだ及びもつかぬ、とんでもない言葉かもしれぬ。しかしここでもまた人と人を「つなぐ」意味が出てくる。原発事故の被災地のなかに「希望」を見出し、あるいは「希望」をつかむことは、被災地内外の人と人を「つなぐ」糧となりうる。いや人は人とつながることによってこそ、「希望」の光のなかに、明日のフクシマを生きることになろう。
だから、フクシマの復興は、「希望」を抱く人々の心のなかに、すでに芽吹き始めているに違いない。