第2節 経済動向とインフラ整備

第2節 経済動向とインフラ整備

■1 経済成長とインフラ整備の歴史

 本節では、近世以降、我が国のインフラ整備が経済活動や人々の生活を支えてきたことを歴史面から考察するため、江戸時代のインフラ整備及び戦後のインフラ整備に焦点をあて、それぞれを概観することとする。
 また、公共投資水準の国際比較に当たっては我が国の脆弱な国土と厳しい自然条件に留意する必要があることを述べるとともに、インフラストックの蓄積を概観し、インフラ生産性、さらには経済成長に及ぼす影響について考察する。

(1)江戸時代の生活・経済を支えたインフラ整備
 江戸時代では、江戸城を中心としたまちづくり及び社会基盤整備が大規模に実施され、このインフラ整備を機に江戸の町は劇的に変化した。
 江戸時代には、現在の皇居付近まであった海岸線を埋立て、堀を形成するとともに、日本橋を架橋し、日本橋を起点とした五街道等の主要交通網が整備された。これらのインフラは平成になった現代にまで受け継がれている。
 このように、我が国の首都「東京」の源流とも言える「江戸」に焦点をあて、その時代のインフラ整備の状況と経済活動、人々の生活、維持管理意識、防災意識等について探ることとする。

(江戸時代の公共事業)
 江戸時代の公共事業は誰がどのように実施していたか。
 江戸時代は、幕府と各藩との主従関係が築かれており、江戸城築造、港造成、河川改修、道路整備等の土木工事等は、「天下普請(てんかぶしん)」(現代で言うところの公共事業)として各藩の大名に割り当てて行われ、各大名は経済負担を強いられていた。
 また、江戸城を中心とした大規模なインフラ整備により人手が必要となったこともあって、江戸の町は人口が集中する一大都市へと変貌を遂げた。

(日比谷入江の埋立てと江戸湊の整備)
 江戸幕府は、1603年に征夷大将軍となった徳川家康(家康)が開いたとされているが、その前から家康は、様々なインフラ整備を実施している。
 江戸城は、室町時代の1457年に太田道灌(どうかん)が築城したが、家康が入城した1590年には築後130年以上が経過しており、城は荒廃し、周辺は寂れた城下町となっていた。このため、入城後の早い段階で、江戸城周辺のインフラ整備を計画した。
 まず、家康は、江戸への大量輸送が可能な「舟運」での物資輸送を行うため、江戸城を中心とした水上交通路網の整備に着目し、「江戸湊(みなと)」の整備を推進した(図表1-2-1)。
 
図表1-2-1 1590〜1592年頃の江戸の様子
図表1-2-1 1590〜1592年頃の江戸の様子

 1592年には、現在の呉服橋から大手門の間に「道三堀(どうさんぼり)」を整備し、これにより、江戸城直下への舟運体制が築かれ築城のための石材等の物資輸送が可能となった。
 また、当時の海岸線は、現在の皇居辺りまで入り込んでおり、日比谷は「日比谷入江」と名付けられた浅瀬であった。軍事的な観点から入江に敵船等が入らないよう、1596年に神田山(駿河台)と呼ばれる丘陵を切り崩し、日比谷入江の埋立てを実施し、埋立地は市街地や武家屋敷を建てる土地として活用された。

(利根川東遷・荒川西遷)
 現在の利根川は、太平洋(千葉県銚子市)へと注いでいるが、江戸時代は江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた(図表1-2-2)。
 
図表1-2-2 江戸時代の利根川(青線)と現在の利根川(赤線)
図表1-2-2 江戸時代の利根川(青線)と現在の利根川(赤線)

 江戸の町は、洪水等による水害が度々発生しており、水害の回避、新たな農地開拓、舟運による物流活性化等を目的として、1594年に「利根川東遷」が開始された。
 この利根川東遷では、河川の流れを変えるだけでなく、堤防整備、農業用水路整備も併せて行なわれ、60年もの長い歳月をかけ1654年に完成した。一方、越谷付近で利根川に合流していた荒川は、1629年に利根川から分離する工事が進められ、現在の隅田川を経て東京湾にそそぐ流路に変更されている。
 これらの事業は、洪水防御、新田開発及び水運に寄与し江戸の発展を支えた。

(五街道整備による江戸を中心とした交通網の形成)
 家康は、日本橋を起点とした放射状の都市構造を基本とする「五街道」(東海道、中山道、日光街道、甲州街道及び奥州街道)の整備を計画し、その皮切りとして1601年に東海道を江戸−京都間に整備した。東海道をはじめとした五街道は、道幅が広く整備されており参勤交代等で使用された。また、「脇街道」と呼ばれる道では、五街道での輸送を補う役割や五街道から各地へ分岐される主要道の役割を持っており、庶民の道として多く整備された(図表1-2-3)。
 
図表1-2-3 五街道などの主要街道図
図表1-2-3 五街道などの主要街道図

 このように、江戸幕府が整備した五街道をはじめとする全国の街道が、参勤交代やそれに伴う沿道の経済を支えていた(街道沿いの宿場町の繁栄等)。現在も、鉄道・高速道路等の我が国の交通網の骨格を形成している。

■参勤交代による経済効果
 参勤交代とは、江戸幕府が各藩の大名を年に一度その領地から江戸へ居住させる制度である。
 参勤交代での大名行列は、禄高や格式により区別があったが、150人〜300人程度の行列が最も多く、大規模な藩では、数千人規模で、長期間に渡り大挙をなして移動を行っていた(図表1-2-4)。
 
図表1-2-4 加賀藩大名行列図屏風
図表1-2-4 加賀藩大名行列図屏風

 参勤交代により、全国各地の宿場町や江戸にて大規模な消費活動が行われるなど、経済に大きな効果があった(図表1-2-5)。
 
図表1-2-5 五街道の宿場町(宿泊施設)
図表1-2-5 五街道の宿場町(宿泊施設)

 また、経済効果以外にも、全国各地の様々な伝統的な文化や食文化が江戸を中心に展開・交流され、全国各地への物資輸送の流れを作る基盤となった。
 オランダ商館の医師で植物学者でもあったツュンベリー(1775年に江戸を来訪)の著「江戸参府随行記」には「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている」と日本の街道を賞賛する記述がある。江戸時代は、一般民衆が街道の清掃や維持管理を行っており、欧米諸国と比較しても道の維持管理状況が高水準だったことがうかがえる。
 江戸時代を象徴する浮世絵の中でも、活気に満ちた日本橋の町人達の様子が描かれる歌川広重の「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」は特に有名である。また、葛飾北斎も「富嶽三十六景 江戸日本橋」にて、富士山と江戸城を背景に、橋の上においても活気に満ちた人々の様子を描写している(図表1-2-6)。
 
図表1-2-6 浮世絵に見る江戸時代の日本橋の様子
図表1-2-6 浮世絵に見る江戸時代の日本橋の様子

 江戸時代に道路の起点となった日本橋であるが、現代の道路標識に表示される「東京」までの距離は、日本橋までの距離を示しており、現在でも道路の起点となっている。

(農業用水の整備による農産物生産量の増加)
 江戸時代の農村人口は約8割注19であり、農産物生産量の増加が経済成長に直結していたといえる。17世紀以降の新田開発と灌漑整備の進展に伴い、生産量(石高)は約3割増加した(図表1-2-9、図表1-2-10)。
 
図表1-2-9 農地面積の推移と灌漑整備の進展
図表1-2-9 農地面積の推移と灌漑整備の進展

 
図表1-2-10 江戸時代の石高の推移
図表1-2-10 江戸時代の石高の推移

(上水道整備)
 江戸の町は、海岸に近かったこと等もあり、井戸水は塩分濃度が高く、飲料用には適していなかった。そのため家康は、家臣の大久保藤五郎忠行を派遣し、上水道整備を命じた。
 1629年頃には、井の頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする上水道「神田上水」が完成した。なお、当時の水道管は石樋、木樋、竹樋等を使用していた(図表1-2-11)。
 
図表1-2-11 千代田区で発掘された江戸時代の木樋
図表1-2-11 千代田区で発掘された江戸時代の木樋

 江戸の人口が増加するに伴い、飲料水不足も生じていたため、第四代将軍家綱の命により「玉川上水」の整備が計画され、「玉川兄弟」として有名な兄・玉川庄右衛門(しょうえもん)と弟・玉川清右衛門(せいえもん)が上水道整備を開始した。
 兄弟は、1653年4月に開削工事を開始し、「四谷大木戸」から「虎ノ門」までは、石樋や木樋で繋ぐ予定だったが、工事費用が「高井戸」付近で尽きてしまった。このため、工事費用の追加を幕府に申し出たが受け入れられず、私財を投じて工事を続けた結果、約7ヶ月後の同年11月に羽村から四谷大木戸まで完成、四谷大木戸から虎ノ門までは1654年11月に完成させ、全体として約1年半という短期間で玉川上水を整備した。
 この玉川兄弟の活躍により、玉川上水の水が灌漑用水や江戸の人々の飲料水として利用され、360年以上が経過した現在でも都民の飲料水として利用されている。

(江戸の下水)
 江戸時代は、現代のように多量の油や化学洗剤等使われておらず、また、屎尿は農作物の肥料になるなど、価値ある資源として売買されていた。このように、江戸時代の下水は雨水や湧水が主であり、現在と違って比較的汚染度の低い水であったとされる。
 江戸時代以前の安土桃山時代に整備された「太閤下水」(大阪市)では、江戸時代の町奉行のお触れにより町人が各町内共同で「水道浚(さら)え」という清掃活動を実施したほか、維持管理や修繕費等の負担も行っていたという(図表1-2-12)。
 
図表1-2-12 現在も利用される太閤下水(大阪市)
図表1-2-12 現在も利用される太閤下水(大阪市)

 この太閤下水は、整備後400年以上が経過した現在でも現役で使用されており、維持管理を適切に実施することにより、長きに渡り人々の生活を支える基盤になることがうかがえる。

(浪華八百八橋)
 江戸の町は「江戸八百八町」と呼ばれるほど多数の町がひしめいていた。一方、大阪の町は数多くの橋が架けられたことにより「浪華(なにわ)八百八橋」と呼ばれていた(図表1-2-13)。
 
図表1-2-13 「浪華の八百八橋」の風景
図表1-2-13 「浪華の八百八橋」の風景

 江戸の橋は、約350ある橋の半分については幕府が架けた「公儀橋(こうぎばし)」であった。
 一方、大阪での公儀橋は「天神橋」「高麗橋」等わずか12橋に過ぎず、残り約190の橋は、すべて町人が生活や商売のために自費で架橋した「町橋」であった(図表1-2-14)。そのうち、農人橋(大阪市)は公儀橋であったが、日常の維持管理は、橋周辺の町人に課せられ、橋周りの清掃、船が橋に衝突したときの報告と船頭の拘束、橋の破損の報告等も義務付けられた。
 
図表1-2-14 元禄時代に架けられた大阪の橋
図表1-2-14 元禄時代に架けられた大阪の橋

 江戸時代の隅田川には両国橋・永代橋・吾妻橋・新大橋の四橋があったが、「吾妻橋」は1774年に6名の町人が江戸幕府の承認を得て自費で架橋した町橋で、吾妻橋を除く三橋はいずれも幕府で架橋した公儀橋である。自費でも架橋するほど、江戸の町人にとって橋は生活と経済活動になくてはならない施設だったと言える。

(豪商によるインフラ整備と防災意識の醸成)
 醤油製造業を営む濱口家七代目当主の「濱口梧陵(ごりょう)」は、1854年11月5日の安政南海地震が発生した直後に、広村(現在の和歌山県広川町)に津波が襲ってくると予感し、村人を高台へ避難させるため収穫したばかりの大切な稲むらに火を放ち、多くの村人を救った。これが、「稲むらの火」の逸話である。
 梧陵は、私財を投じ、紀州藩に上申し、地震発生から僅か3ヶ月後に2つの目的の復興対策を行った。
 この対策は、将来の津波防災のための「堤防整備」とともに、津波により失業した村民の「失業対策」の面も有していた。4年の歳月を費やした整備により、1858年には全長600m、幅20m、高さ5mの大規模な防波堤「広村堤防」を築堤した(図表1-2-15)。
 
図表1-2-15 濱口梧陵(儀兵衛)銅像と広村堤防断面図(和歌山県広川町)
図表1-2-15 濱口梧陵(儀兵衛)銅像と広村堤防断面図(和歌山県広川町)

 このような梧陵の私財投資による公共事業により、村民の自立や防災意識を促し、また、この堤防は自分たちの財産であるという意識の醸成も図られたという。
 その後、広村堤防は1938年に史跡指定され、築堤から約100年後の1946年に発生した「昭和南海地震」による津波では、堤防整備のおかげで、多くの村民を津波から守りぬいた。
 また、広村堤防は、現在でも広川町に存在しており、1994年には「広村堤防保存会」が発足し、年に数回定期的に清掃活動が行われ、会員のみならず近隣の児童等も防災学習の一環として参加するなど、梧陵の偉業を称賛するとともに、地域住民の防災意識の醸成が継続されている。
 2007年には「濱口梧陵記念館」と「津波防災教育センター」から成る「稲むらの火の館」を開館し、訪問客等に防災意識の大切さを伝える施設となっている。2015年12月には、国連総会で安政南海地震の発生日である「11月5日」を「世界津波の日」とする決議が採択されるなど、我が国のみならず世界規模での防災意識の醸成に寄与している。

(現代へ繋がるインフラ維持管理意識)
 「インフラは我々の財産」「インフラは自分たちで手入れを行う」という江戸時代の意識は、現代でも一部で受け継がれている。事例を以下のとおり紹介する。

 事例1):大阪市中央区では、区役所主導の下、区内の橋を地域住民、企業、各種団体等の方と官民協働で清掃する「橋洗いブラッシュアップ大作戦」を毎年実施している(図表1-2-16)。
 
図表1-2-16 中央区内の橋を市民、企業、各種団体で洗う様子
図表1-2-16 中央区内の橋を市民、企業、各種団体で洗う様子

 事例2):東京都中央区にある日本橋では、名橋「日本橋」保存会主催の下、1971年より『名橋「日本橋」を洗う会』が毎年行われており、近隣の企業や小学校等の方々が参加している(図表1-2-17)。
 
図表1-2-17 日本橋を洗う方々
図表1-2-17 日本橋を洗う方々

 事例3):新潟県新潟市中央区では、「萬代橋誕生祭」として、新潟市のシンボルである萬代橋の誕生した日を祝うお祭りを毎年実施している(図表1-2-18)。
 
図表1-2-18 萬代橋誕生祭のチラシと祭りの模様
図表1-2-18 萬代橋誕生祭のチラシと祭りの模様

 事例4):長崎県西海市では、1999年に発足した「環境美化を考える会」の活動注20が地域内外へ広がっており、道路除草と植栽が実施されている(図表1-2-19)。
 
図表1-2-19 西海市の道路美化活動
図表1-2-19 西海市の道路美化活動

(モニターアンケートにおけるインフラ維持管理への住民参加意識)
 国土交通省では、「モニターアンケート注21」を実施しており、2016年2月に行ったアンケート注22で「人口減少や厳しい財政状況の中、インフラを適切に維持管理していくための取組みとして、住民協力の拡大が検討・試行されています。こういった取組みについて、どのようにお考えですか。」と質問したところ、インフラ維持管理の住民参加について「参加したことはないが、今後は参加したい」という意見が過半数を超えており、我が国全体でもインフラの維持管理に参加したいという意識が見受けられた(図表1-2-24)。
 
図表1-2-24 「インフラ維持管理への住民参加意識」アンケート結果
図表1-2-24 「インフラ維持管理への住民参加意識」アンケート結果
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 以上のように、江戸時代から数百年が経過した現在も、人々の活動の基盤となる橋、道路、川、水道、堤防等のインフラが地域住民の生活や経済活動に密接に関係していることがわかる。
 各々が愛着を持ってインフラと共に生活し、現在だけでなく未来を見据えたインフラの維持管理を行い、インフラを後世に引き継いでいくことが大切である。
 自然災害への備えとしては、広村堤防の例にもあるとおり、インフラ整備(ハード)に加え、地域住民が防災意識(ソフト対策)を持つことも重要である。

○参考文献
 田村明(1992年)「江戸東京まちづくり物語 生成・変動・歪み」(株)時事通信社
 松村博(2007年)「【論考】江戸の橋」(株)鹿島出版会
 陣内秀信+法政大学陣内研究室編(2013年)「水の都市 江戸・東京」(株)講談社
 中央防災会議(2004年)「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」内閣府
 中央防災会議(2004年)「1657 明暦の江戸大火報告書」内閣府
 鈴木理生(2006年)「スーパービジュアル版 江戸・東京の地理と地名」(株)日本実業出版社
 中村英夫(1997)「東京のインフラストラクチャー 巨大都市を支える」技報堂出版(株)
 津川康雄(2011)「江戸から東京へ大都市TOKYOはいかにしてつくられたか?」(株) 実業之日本社
 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館(2008)「「春の小川」の流れた街・渋谷−川が映し出す地域史−」

(2)戦後の経済成長を支えたインフラ整備
 1945年に太平洋戦争が終結した後、戦禍による傷跡を復旧、復興しながら、我が国は、10余年の戦後復興期を経て、瞬く間に飛躍的な経済成長を遂げた。
 高度経済成長期の東京を中心とした人口急増、都市の膨張、モータリゼーションの進展等により、様々なインフラ整備が喫緊の課題とされていた中、1964年の東京オリンピック大会開催が決定した。国を挙げて取り組むべきこの目標に向け、東京を中心とした大規模なインフラ整備が行われたことを皮切りに、高度経済成長期以降から現在まで我が国の豊かな生活基盤の拡充が進むことになる。
 戦後70年以上が経過した今、これまでの我が国の経済成長と深く関連する戦後のインフラ整備等について、以下、概観する。

(治水事業等)
 1940年代後半から1950年代にかけて戦後の荒廃した国土にカスリーン台風等の大型台風があいついで来襲し、大きな被害が頻発した(図表1-2-25)。1959年の伊勢湾台風を契機として、初めて法律に基づく治水事業の長期計画(十箇年計画又は五箇年計画)が策定されることとなった。度重なる水害に対し、治水と併せて水防や土砂災害の重要性が認識されるようになった。また、経済の発展に伴う工業用水や都市用水の飛躍的な需要の増大に対応するために、治水・利水の目的を併せ持つ多目的ダムにより水資源開発が進められた。
 
図表1-2-25 1947年カスリーン台風による被害(埼玉県久喜市(旧栗橋町))
図表1-2-25 1947年カスリーン台風による被害(埼玉県久喜市(旧栗橋町))

 また、高度経済成長期の深刻な水不足、土砂災害の急増等、急激な都市化の進展は、河川をめぐる様々な問題を引き起こした。深刻な水不足の対策として、ダム整備により近年、給水制限が大幅に減少傾向となっている。さらに、河川整備と併せた雨水の貯留・浸透対策や土石流の対策と併せた警戒避難体制の整備等による総合的な治水対策が順次実施されてきた。

(主要道路整備)
 戦後の社会経済の復興に伴い、道路政策の推進が課題とされていたため、1952年に「道路整備特別措置法」が制定され、我が国における有料道路制度が開始された。1953年には「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が制定され、揮発油税が道路特定財源とされるとともに、「道路整備五箇年計画」に道路整備の目標、事業の量を定めて計画的に道路整備を推進することとされ、1954年には「第1次道路整備五箇年計画」が策定された。
 終戦後の我が国の道路は著しく荒廃しており、1956年に発行された「米国ワトキンス調査団報告書」において「日本の道路は信じがたいほど悪い。世界の工業国でこれほど完全に道路網を無視してきた国は日本のほかにはない。」という警句が記述されるほど当時の道路網は不十分なものであった(図表1-2-26)。
 
図表1-2-26 劣悪な50年代の道路「米国ワトキンス調査団報告書」
図表1-2-26 劣悪な50年代の道路「米国ワトキンス調査団報告書」

 「道路整備五箇年計画」は1997年の「第11次道路整備五箇年計画」まで策定され、我が国の道路整備水準の飛躍的な向上に資することとなった。

(全国総合開発計画)
 全国総合開発計画は、直面する地域課題と新たな時代への対応を図りつつ、望ましい国土を築くための中長期的な国土計画を提示するものである。
 1962年の最初の策定(全総)以来、7〜10年ごとに見直され、1969年には新全国総合開発計画(新全総)、1977年には第三次全国総合開発計画(三全総)、1987年には第四次全国総合開発計画(四全総)、1998年に「21世紀の国土のグランドデザイン」が計画され、中長期的な計画により、時代に即したインフラ整備が行われた(図表1-2-27)。
 
図表1-2-27 全国総合開発計画
図表1-2-27 全国総合開発計画

(主要港湾整備)
 全国総合開発計画が策定された頃、重工業を中心とした太平洋ベルト地帯でのコンビナート形成など、鹿島港等の工業港の開発を軸とする臨海工業地帯の建設が進められた。
 その後、国際交流の緊密化に対処するため、東京湾、大阪湾、伊勢湾を中心とする国際貿易港の整備等が進められた。また、1960年代後半に我が国にコンテナ輸送が登場し、その後、急激な発展を遂げ、現在の国際海上コンテナ輸送網を形成している。

(東京オリンピック大会開催を契機としたインフラ整備)
 1959年5月26日西ドイツミュンヘンにて開催された「第56次IOC総会」において、第18回オリンピック競技大会の開催地が「東京」に決定した。
 1964年東京オリンピック大会(1964年大会)に向け、5年余りの準備期間で東京を中心に大規模なインフラ整備が実施され、多くの良質なインフラストックをもたらすこととなった。
 1964年10月10日から24日迄の15日間、参加国93カ国、選手数約5,000人の参加により開催された本大会に向け、国内外の選手、役員、観覧客の受入れのため、首都高速道路や東海道新幹線等の交通網の整備が行われ、都内を中心に各地に設置された競技場と羽田空港を結ぶ道路交通網も整備された。また、当時環境汚染問題が深刻化する中、東京圏の上下水道が飛躍的に改善されるなど1964年大会による大規模なインフラ整備は、今日の我が国の良質な財産となっている。その際に、整備されたインフラについて、以下、概観する。

■オリンピック関連街路及び首都高速道路
 1964年大会に向け、都心部を中心に近県に点在する競技場や選手村との交通を確保するためのインフラ整備が急務となり、22路線、事業延長 54.6kmに渡る「オリンピック関連街路」注23が整備された。
 また、「首都高速道路」の計画・構想については、1951年に東京都による予備調査を開始し、1959年には基本計画の決定・指示がなされていたが、都心にある競技場や選手村等のオリンピック施設と羽田空港とを繋ぐ交通需要に対処すべく、首都高速道路の整備が必要不可欠と判断され、特に整備を急ぐ道路として、1960年12月「首都圏整備委員会」において首都高速道路の全5路線(32.9km)の整備が決定された。
 短期間での整備が求められたため、最低限の用地買収とする観点から、既存の道路、川、堀、水路の上空を極力活用し、1962年12月の1号線(京橋〜芝浦間約4.5km)開通を皮切りに、1964年大会開催までに4路線(32.8km)注24を計画からわずか5年で供用開始とした(図表1-2-28)。
 
図表1-2-28 1964年大会供用時の首都高速道路
図表1-2-28 1964年大会供用時の首都高速道路

■東海道新幹線
 経済成長の波を受け、当時の東海道線は旅客貨物ともに逼迫した状態であった。そのため、1957年に「日本国有鉄道幹線調査会」が設置され、東海道線を中心とする輸送力強化策の検討が始まった。
 同調査会は1958年7月答申を取りまとめ、東海道線の輸送力増強を図るため交流電化方式による別線の建設が適当と判断し、在来線と一体で国鉄が経営を行うこととなった。
 1964年大会開催に合わせるべく、1959年の着工からわずか5年半という期間と3,800億円の工費をかけ、1964年10月1日、東京駅から新大阪駅までの515kmを約4時間注25で結ぶ夢の超特急「東海道新幹線」が開業した。
 東海道新幹線の発展は、その後の新幹線整備にも影響を与え、東海道新幹線に続き、山陽新幹線、東北新幹線、上越新幹線、北陸新幹線、九州新幹線、北海道新幹線等の整備が順次進められ、新幹線の発展は我が国の経済成長の牽引役を担った。

■地下鉄整備
 戦前より地下鉄は整備されており、1927年に東洋初の地下鉄路線となる銀座線の基盤注26として浅草〜上野間注27(約2.2km)が開通していた。
 第2次世界大戦による空襲の被害を東京は度々受けていたが、地下鉄は他の交通機関に比べ、空襲による被害が少なかったという。
 戦後復興が進み、人口が東京に集中し、通勤・通学の足の確保が課題とされていたところ、当時の主要交通機関であった都電は混雑が常態化しており、地下鉄整備が期待されていた。1954年には、池袋〜御茶ノ水間(6.4km)で「丸ノ内線」が開通し、1961年から一部開業していた「日比谷線」は、1964年大会開催に間に合わせるため、1964年8月に中目黒〜北千住間(20.3km)を全線開業した(図表1-2-29)。
 
図表1-2-29 日比谷線の開通の様子
図表1-2-29 日比谷線の開通の様子

■東京国際空港(羽田空港)と東京モノレール
 東京国際空港(羽田空港注28)は、1931年に我が国で最初の国営民間航空専用空港として「東京飛行場」の名称で開港していたが、戦後1945年10月に連合軍は日本の航空機の生産や運航を禁止した。
 1952年には連合軍より大部分の施設が返還され、滑走路の延長や駐機場の整備が順次進められ「東京国際空港」に名称変更された。
 1964年には日本人の海外渡航の自由化が実施され、羽田空港では、国内線到着専用ターミナル、旧C滑走路等の供用が開始された。
 かねてより、羽田空港と都心間では渋滞が問題となっており、鉄道による空港アクセスの導入が望まれており、1964年大会を成功裏に終えるため「東京モノレール」が整備されることとなった。
 1963年5月に工事着手し、わずか1年4ヶ月という短期間の工事で1964年大会開会を目前にした1964年9月17日、JR浜松町駅に隣接するモノレール浜松町駅と旧羽田ターミナルビル直下の羽田空港駅を結ぶ東京モノレール(13.1km)が開通した(図表1-2-30)。
 
図表1-2-30 東京モノレールの開通式
図表1-2-30 東京モノレールの開通式

■上水道整備
 1960年代には各地で浄水場の整備等を実施していたが、急速な経済成長に伴い、便利で快適な生活が拡がり、水需要は増大することとなった。そのため1958年以降、毎年のように渇水が起きていた。特に、1964年大会時に起きた渇水は「オリンピック渇水」と呼ばれ、東京都では節水率が50%にもおよび、店舗や各家庭での洗濯や炊事が出来ず、給水車待ちの行列が発生し、また、衛生状態の悪化から食中毒が拡がるなど市民生活に多大な影響が出た(図表1-2-31)。
 
図表1-2-31 オリンピック渇水時の応急給水の様子
図表1-2-31 オリンピック渇水時の応急給水の様子

 オリンピック渇水を契機に、利根川からの導水計画が推進された結果、1965年には利根川と荒川を結ぶ武蔵水路が通水するなど、各地の水路、ダム等の水資源開発施設が整備され、水道拡張事業等が鋭意実施されたが、一方で水需要も引き続き増大する状況だった。

■下水道整備
 人口の集中や産業の発展に伴い、1955年頃から家庭や工場等の排水により河川や湖沼等の公共用水域の水質汚濁が深刻化していた。
 「東京都市計画河川下水道調査特別委員会」において1961年に出された通称「36答申」により、工場や家庭排水により汚染され劣悪であった中小河川が暗渠(あんきょ)化され、競技会場に近くに存在する「渋谷川」も1964年大会に向け暗渠化された(図表1-2-32)。
 
図表1-2-32 暗渠化工事中の渋谷川
図表1-2-32 暗渠化工事中の渋谷川

 その後、1970年の「下水道法」の改正により、下水道は町の中を清潔にするだけでなく、公共用水域の水質保全という重要な役割を担った。

(オリンピックレガシーの継承)
 前述のように1964年大会に向け大規模なインフラ整備が行われ、そのオリンピックレガシーを再び利用する形で、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会(2020年大会)では、1964年大会時に整備された会場が含まれる「ヘリテッジゾーン」と新たに整備される湾岸エリアを中心とした「ベイエリアゾーン」の二つのエリアで競技が行われる。
 「選手村」は晴海地区(東京都中央区)に設置され、民間事業者が参画し、既に整備が開始されている。
 また、江戸時代に埋立てられた臨海エリアでは、2020年大会開催を契機としたインフラ整備等により生活利便性の向上が見込まれたこと等を背景に、活況を呈している注29
 江戸時代に「水の都」と呼ばれた江戸は、舟運が盛んであったが、2020年大会でも東京港や河川において「周遊クルーズ」や「レストラン船」等の舟運の活性化を図ることとしている。
 2020年大会開催も踏まえて整備する道路等については、2016年3月に「国道357号東京湾岸道路 東京港トンネル」が開通し、開通1週間前にウォーキングイベントが実施されるなど、2020年大会開催までに順次道路整備が実施される予定である。

(インフラ整備による経済成長の下支え)
 以上のように、我が国は戦後、現在の我々の生活の基盤となる社会インフラの大規模整備を実施し、人々の生活のみならず経済を支えた。
 インフラが経済にもたらす効果のわかりやすい例として、交通ネットワークの整備により移動時間が短縮される効果が挙げられる。
 道路を用いて国土交通省本省(東京)から道府県庁へ貨物を輸送した場合の所要時間を1971年と2014年で比較すると、約40年間に最大500分強短縮されている(図表1-2-33)。
 
図表1-2-33 東京から各道府県庁へ貨物を輸送した際に要する時間
図表1-2-33 東京から各道府県庁へ貨物を輸送した際に要する時間
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 また、東京から鉄道を使った日帰りが可能な範囲は、戦後すぐの1947年から現在にかけてめざましく拡大していることが分かる(図表1-2-34)。
 
図表1-2-34 東京駅から鉄道で日帰りが可能な範囲
図表1-2-34 東京駅から鉄道で日帰りが可能な範囲

 高速道路や高速鉄道等の整備によるネットワークの充実により、輸送や移動にかかる時間が大幅に短縮されたことが見てとれる。これらのインフラ整備は、我が国が世界有数の経済発展を果たすための下支えとなった。

 以上のように、江戸時代には、徳川家康による江戸城を中心としたインフラ整備が行われ、現在の我が国の原型となる整備が行われた。また、戦後復興から高度経済成長期にかけては、現在の我が国の経済を支える様々なインフラが次々と整備されてきた。
 過去の時代に整備されたインフラは、今日の我が国の遺産・財産(レガシー)として存在し、我が国の経済成長にも多大に寄与してきた歴史がある。

○参考文献
 東京都オリンピック準備局(1963年)「オリンピック準備局事業概要1963」
 石井一郎(1994年)「土木の歴史」森北出版(株)
 越沢明(1991年)「東京都市計画物語」(株)日本経済評論社
 越澤明(2014年)「東京都市計画の遺産」(株)筑摩書房
 高階秀爾 芳賀徹 老川慶喜 高木博志(2014年)「鉄道がつくった日本の近代」(株)成山堂書店
 矢島隆 家田仁(2014年)「鉄道が創りあげた世界都市・東京」(一財)計量計画研究所

(3)インフラ投資の推移
(公共事業関係費(一般会計)の推移)
 公共事業予算は、1970年代には右肩上がりで増加し、1980年代に安定して推移した後、再び増加基調となって1990年代半ば〜後半をピークに、その後は減少していく局面を辿り、2013年頃からはほぼ安定した水準で推移している(図表1-2-35)。
 
図表1-2-35 公共事業関係費(一般会計)の推移
図表1-2-35 公共事業関係費(一般会計)の推移
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(インフラ投資水準の国際比較)
 次に、我が国の公共投資額の推移を各国と比較してみる。
 1997年を基準とした一般政府総固定資本形成の推移を見ると、OECD主要国は全体的に増加傾向にあるなか、我が国だけは継続して減少し、近年はおおよそ50で横ばいを続けている(図表1-2-36)。
 
図表1-2-36 一般政府公的固定資本形成の推移(1997年を100とした割合)
図表1-2-36 一般政府公的固定資本形成の推移(1997年を100とした割合)
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 また、毎年の公共投資水準を一般政府総固定資本形成対GDP比の推移で見ると、1990年代後半、我が国は他国と比較して高い数値にあったが、2000年代に入ってから他の主要先進国並みの水準になりつつある(図表1-2-37)。
 
図表1-2-37 主要先進国の公共投資比率(Ig/GDP)の推移
図表1-2-37 主要先進国の公共投資比率(Ig/GDP)の推移
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(コストのかさむ脆弱な国土と厳しい自然条件)
 上記の通り、Ig/GDP比で見た場合、我が国の公共投資額は主要なOECD加盟国と比較して同水準ではあるが、国土構造やインフラ整備段階の違う国同士の比較で一概に水準の高低を判断することは難しい。
 日本の河川は急勾配で距離が短いため、大雨の際には一気に流量が増える。平常時の流量と洪水時の流量を比較すると、テムズ川で8倍、ドナウ川で4倍、ミシシッピ川で3倍となっているが、利根川では100倍、木曽川では60倍、淀川では30倍と日本の河川は総じて、平常時と洪水時で河川の状況は大きく変貌する(図表1-2-38)。
 
図表1-2-38 洪水時と平常時の流量比較
図表1-2-38 洪水時と平常時の流量比較

 さらに、日本では、人々が住んでいる土地の多くが洪水時の河川水位より低い土地となっている(図表1-2-39)。そのため、洪水時には人々の暮らしに甚大な被害をもたらす傾向がある。
 
図表1-2-39 各都市の河川水位
図表1-2-39 各都市の河川水位

 地震に関しては、世界で発生するマグニチュード6以上の地震の約2割が、我が国周辺で発生している(図表1-2-40)。
 
図表1-2-40 世界の地震分布
図表1-2-40 世界の地震分布

 洪水と地震の他にも、我が国は、台風、豪雨、豪雪、土砂災害、津波、火山災害などによる災害が発生しやすく、全世界のうち0.27%の国土面積にもかかわらず、災害被害額は世界全体の約2割を占めている(図表1-2-41)。
 
図表1-2-41 世界における我が国の国土面積、災害死者数、災害被害額、GDP
図表1-2-41 世界における我が国の国土面積、災害死者数、災害被害額、GDP

 また、地形に注目すると、山地や河川が多い急峻な地形(図表1-2-42)に対応するため、諸外国に比べて橋梁やトンネルといった構造物の比率が高くなっている(図表1-2-43)。
 
図表1-2-42 日独の地形の違いと高速道路
図表1-2-42 日独の地形の違いと高速道路

 
図表1-2-43 各国の構造物比率の比較
図表1-2-43 各国の構造物比率の比較

 このように、我が国は厳しい自然条件及び国土条件から、その特殊性を考慮した工法を採る必要があり、諸外国に比べインフラ整備にコストが多くかかる傾向にあるため、他国と公共投資額を比較する際には注意が必要と言える。


注19 鬼頭宏(2007)「人口で見る日本史」参照
注20 国土交通大臣表彰「手づくり郷土(ふるさと)賞」を2015年に受賞。同賞は地域の魅力や個性を創出している良質な社会資本とこれを利活用する優れた地域活動を国土交通大臣が表彰するもの。
注21 広く国民一般を対象として、国土交通行政の課題に関し、インターネットの利用による質の高い意見・要望等の聴取を図り、国土交通行政の施策の企画及び立案並びに実施のための参考に資することを目的として、2004年から実施している制度である。
注22 2016年2月8日(月)〜2016年2月22日(月)の期間に、全国在住の20歳以上の男女1,098名に対して「インフラ維持管理への住民参加意識」アンケートを実施。回答数は914件(男性:484名、女性430名)。
注23 放射4号線(青山通り、玉川通り)、放射7号線(目白通り)、環状3号線(外苑東通り)、環状4号線(外苑西通り)、環状7号線(環七通り)の新設・拡幅及び既設の昭和通り(放射12号、19号線)の立体交差化等
注24 1964年大会時8号線(100m)は未供用
注25 開業当時の時間(2016年3月現在では約2時間30分)
注26 銀座線の名称は1953年12月に正式名称となった
注27 銀座線全線開通は1939年
注28 東京国際空港が正式名称であり、羽田空港は通称である
注29 例えば、「2016年地価公示 」において、東京都中央区の「住宅地」では前年から9.7%上昇している。


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