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パネルディスカッション

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21世紀の日本像

齋藤 氏

さて、パネリストの皆さんのお考えがわかったところで、テーマごとに話し合っていきたいと思います。

まず21世紀はどんな時代で、今、日本はどんな国づくりが必要なのかどうか。国と地方との関係や、国際社会の中での果たすべき役割も踏まえてまず議論したいと思います。その上で首都にはどんな機能が求められるのかを議論し、さらにそれらを踏まえて首都機能移転は是か非か、徹底的に議論したいと思います。そして最後にパネリストの皆さんから今の首都機能移転の論議で何が必要なのか、ご提言をいただきたいと思います。

最初のテーマ、21世紀はどんな時代でどんな国づくりが必要かです。まず猪口さんからお願いいたします。

猪口 氏

21世紀、やはりグローバリゼーションが非常に進みますので、その負のインパクトを抑えながら、大競争、メガコンぺティッション、ギガコンペティッションとも呼ばれるその時代に勝っていかなければならないということがあると思うのです。

先ほどからのご議論に対してのコメントも、この機会に若干させていただきたいのですけれども、やはりロマンが必要で夢が必要だというとはあると思いますが、別の形で夢を提供することができると思うのです。後でそれを述べたいと思いますけれども、どういうときに首都というのは移転されてきたのかということを国際的に見てみますと、それは本当に絶対にやむ得ない事情があるときなのです。ロマンから移転するというようなことについては、奥谷さんがおっしゃるとおり、もう特に財政的な制約が大きなこの時代にあってやはり適切ではない。ではどういうことが本当にやむを得ない事情なのかということを考えてみますと、例えばブラジルの場合、リオデジャネイロからブラジリアに首都を移転しました。これはどういう事情があったかと言いますと、一言でなかなか説明しにくいですけれども、もともと沿岸地域はヨーロッパの人たちが開拓したという考え方があったと思います。独立したときに、自分たちブラジル人の手で首都をつくるのだという、そういう願いです。それをずっと掲げてきたわけです。ついに奥地の方につくる。それは奥地開拓というようなことも言われていましたけれども、しかし本当の深い情念というのは入植した人々ではなく、ブラジル人となった自分たちの手でつくるのだと。入植した当時の人たちは沿岸にしか興味がなかった。沿岸開発しかしなかったのです。だから象徴的な意味で奥地につくるのだということは、まさにブラジル人の手でつくるのだという、こんな考え方です。

江戸というのは自分たちの力でつくったところですから、なぜそれを放棄する必要があるのかということです。これは日本人がつくった町なので、やはり大事にしていくということについて全く問題がないと私は思うのです。

ではどういう形で夢とかロマンを提供できるかということですが、1つはやはり人心維新が必要であり、それは奥谷さんがおっしゃるとおり構造改革、あるいは行財政改革で本来なされるべきだと思います。その果てに夢が出てこなければおかしいのだというふうに思います。

それから、どうしてもやはりこういう形での夢が必要だという場合には、いろいろ考えて、こんな考えを持ったのですが、首都というのは1つでなければならないというのはどこの法律にもはっきりは書いてないわけだから、増都、どうですかね。たくさん首都を、第1首都が東京で第2首都、第3首都、第4首都、立候補に挙がっているところはみんなそういうふうに考えておられてもよろしいのではないかというぐらいに思います。ちょっと夢があるではないですか。大体1つのところにまとめてしまえば、ほかのところが負けてしまったということにもなるので、そういう大コンぺティッションの考え方を国内には余り持ち込まないで、全員がそれぞれの目標に向けて頑張っていくということであれば、増都、増やしていくということかな、首都を増やしていくというようなことでも夢が生まれるのではないか。その場合に第1首都である東京のその首都性ということを否定する必要は全くないという具合に、これ1つの例ですけれども、いろいろと夢を与えるということであれば可能性がある。

21世紀はどういう時代かと考えますと、やはりグローバリゼーションの中で個性を大事にしなければならないということです。すべてが標準化され規格化されていく時代であるからこそ、内発的なことから生まれる固有性とか個性というものを大事にしながら、そこで光り輝いていくということが重要ではないかと思います。ですから、内発的な力でつくられたというものを大事にしていく。東京というのは私たち日本人がつくったものであるから、そこを大事にしていくということは内発的な発展で、それぞれの地域がまた発展していくことも内発的な力を持ってやっていくことを考えればいいわけで、それをお上がこっちに移ってきてくれるからというような発想ではなく、その地域の人たちが自分の力でどういうふうに内発的な発展なり変革ができるかということを考えていく。そこで初めて個性あるものが出てくるのではないかという感じがいたします。

あと分権思想はやはり重要なので、どういう形で分権が実質的に進むかということを考え、またハードよりもソフトといいますか政治性、あるいは社会の仕組み、こういうことから変えていくわけですから、そういうことで競争をするということではないかと思います。

齋藤 氏

これに対して首都機能移転の賛成派というのでしょうか、積極論者の方は国会とか政府機関が移転しても、東京の競争力の低下にはつながらないのではないかという意見もあるのですけれども、その辺はどうなのでしょうか。

猪口 氏

国際競争というのはやはり非常にシビアですから、余り楽観しない方がいいわけです。既に日本は相当苦戦しているわけで、例えば世界で重要な国際会議をやろう、あるいは学会が世界大会を開こうというとき、普通はアトランティックコミュニティといいますか大西洋の方でやってきたわけです。では、ちょっと発想を変えて太平洋の方でやってみようかと彼らが思ったときに、どこでやるという決定において東京は勝つと思いますか。あるいはその他の日本の都市が勝つと思いますか。これはいろいろな統計がありますけれども大体うまくいかないです。ソウルとかシンガポールとか、はるかにコンベンション機能を持っているといいますか、そういう競争力を有しているところが出てきていると。

ですからみずからの競争力について余り楽観しない方がいい時代である。既にうまくいっていることの力をそぐということで、もう全員が負けてしまう危険性もあるということを最初から申し上げているわけで、グローバリゼーションの時代というのは、そんなに国として楽観できる時代ではないということを考えると、とにかく太平洋地域で何かやるというときに、日本の1つの町でもそこで競争力がある可能性をちゃんと育成していく必要があると思います。では東京ばかりがいい思いをするのではないかという批判については、いや一端東京で何かを誘致できれば、例えば国際会議でもサテライト方式でいろいろな地方で分科会をやるなり、あるいは会議自身をそういう多角的な企画でやるとか、いろいろな方法があるのだけれども、そもそも日本に来なければ、もう全員が負けてしまうことになるのだという、そういう危機感を持っていただきたい。

グローバリゼーションの時代というのは、そういうシビアな面もあるのだということを理解していかないと、気がついたときに全員が負けてしまっているということになると思います。

齋藤 氏

堀さんは多分考え方が随分違うのではないかと思うのですけれども、21世紀はどんな時代でどんな国づくりが必要だとお考えですか。

堀 氏

出発点は同じなのです。要するに猪口さんがおっしゃったのと同じなのはどこかというと、21世紀はグローバリゼーションの時代でありインターネット革命の時代である、情報革命だと、ここまでは同じなのです。問題はそのインプリケーションとか、意味合いをどうとるのかが違うのだと思うのですけれど、私は今言ったような言葉の意味するところというのは、21世紀というのは極端に言うと世界中で同一労働、同一賃金ということが実現するのだと思うのです。19世紀というのは基本的に世界中自給自足だったわけです。自分で必要なものは自分でつくる。ごく一部シルクロードがあって何か物を運ぶとか、大航海時代を経て船で一攫千金で貿易でもうけようというのがいたけれど、基本的には19世紀は自給自足。20世紀になってよくよく考えてみたら、人件費とか物価とは地域によってもの凄く違うではないかということがわかったわけです。また大量輸送手段というものも鉄道だとか大型船ということでできたわけで、ローコストで物を運べるということができたので、だったら安いところでつくって高いところへ持っていけばもうかるではないか、うまくいくではないかと。ということで20世紀の後半は、日本は実質的に何だかんだと言っても極論すればアメリカの工場になってしまったわけですよ。アメリカの工場になることによってアメリカ人も潤ったけれど、我々日本人も生活レベルが格段と上がって、アメリカ人が持っているような自動車だとか冷蔵庫だとかも買えるようになったと。

さて21世紀になって今何が起きているかと言ったら、中国人が僕たちだって冷蔵庫も欲しければ車も欲しいのだよと言い出しているわけです。日本人を雇うと大ざっぱに言えば月に20万円ぐらいお給料あげないと、なかなかいい労働力を確保できない。中国へ行くと、これも奥地なのか上海なのかで随分違うのですけれど、荒っぽく言えば月1万円払うといい労働力は確保できるわけです。20分の1ですよ。何で日本人に生まれたら同じことをやっていて20万円もらえて、何で中国人に生まれたばかりに1万円しかもらえないのか。これは差別なのか何なのか知らないけれどへんな話ですよ。

私は21世紀というのは時間かけて、中国にいようと日本にいようと、例えば自動車工場で働いているなら幾らとか、エレクトロニクスをやっていたら幾らということで、給料が同じになってしまうと思うのです。それが10年で起きるのか30年で起きるかというのははっきりわからない。でも簡単に言えば、今のままの延長でいけば、中国がどんどん給料が上がっていく。日本が下がっていくということで、とどのつまりは中国でつくっても日本でつくっても、同じコストでできるというところまで給料が均一化してくるのだと思うのです。

中国人にとってはとてもいいことだと思う。我々日本人にとってハッピーかと言ったら、中国の人の給料が上がるのは隣の国は豊かな方がいいですよね。金持ち喧嘩せずというから、隣が金持ちになれば喧嘩してこないから、隣の人が金持ちになるのはいい。だけれど問題は自分が貧しくなるのは余りいいことではない。日本人が貧しくなるのはいいことではない。ではどうしたらいいか。簡単に言えば13億もいる中国人に対抗するには、今の我々の給料を確保するには中国人につくれないものをつくるしかないと思うのです。ということはどういうことかというと、人と違うことをやらなくてはいけないのだと思うのです。人と同じことをやっていたら人と同じ給料になる。人と同じことをやっていて、高い給料をくださいというのは、これは単なるわがままだと私は思うのです。私は人にやれないことを努力してできますとか、私は修行したのでほかの人とは違うことをやります。だからその分のプレミアをくださいと言えば、それは認められる。例えば料理だって、いやファーストフードの500円で栄養十分とれるよという人もあれば、おいしい料理だったら3,000円払ってもいいよという人がいるわけで、その場合6倍の単価をとれるわけですよ。材料費は正直言って少しは違うけれど、そんな違うわけではない。一番違うのはシェフの給料なわけです。

そう考えると、21世紀に入ったということはどういうことかと言ったら、今までのモデルでやっていたら、経済モデルでやっていたら日本はどんどん貧しくなるということでしょう。違ったモデルでやらなくてはいけない。あらゆる面で僕は新しいことを始めなければいけないのだと思うのです。もちろん、新しいことを始めるには不安があります。うまくいくのかどうか。新しいことをやるのにうまくいくのですかと、保証してくださいと言う人がよくいるけれど、定義によりそんなもの保証できないですよ。そこはうまくいくと信じて一生懸命努力して、道中失敗したら反省して、また手直しをしてよくやっていく。これしか僕は日本が豊かになる道はないと思う。

そういう意味では国づくりということで、我々は明治維新のときには大変いろいろ思い切ったことをやったのです。戦後GHQが来られて、僕らの意思ではないけれどこうやれと言って、占領軍ですからね。命令されたからやったわけです。そこから大して何も変えていないのです。それで本当にいいのですかと僕は聞きたいな。今はもう新しいことをやらないと、どんどんどんどん貧しくなるだけでしょう。ビジネスもそうです。だけれど私は政治もそうだと思う。首都機能もそうだと思う。つまりもう過去の延長線上にすがっていたっていいことはないのだということをみんなで認識し合わないと、明日が開けないのではないかと。それが僕たちにとっての21世紀ではないかと、私はそう思います。

齋藤 氏

はい、ありがとうございました。

では奥谷さん。

奥谷 氏

堀さんのおっしゃっていることに似ているかもしれませんが、やはり既得権益というものと既成概念というものを捨て去るということが、やはり一番大きなことではないのかなと思います。例えば20世紀というのはやはり集団主義の時代とすれば、21世紀というのは私はやはり個人の時代だと思うのです。20世紀後半、個人の発意とか個人の創意に立脚しない政治というのは、結局脆弱な政治になってしまうでしょうし、アメリカを模範としていいのかどうかというのは今問題になっていますけれども、やはり個人主義といいますか、個人が責任をとるといいますか、個人意識の裏にはやはり個人的責任といいますか、個人の責任というのものがあるわけです。個人主義の行き過ぎというものが、今、いろいろと問題になっていますけれども、例えば1つのボランティアの運動をとっても、日本にはまだ個というものの確立も個というものの存在もまだないと思うのです。ですからそういったものがない上にボランティアだ、NPOだ、NGOだという言葉はあっても、そういう歴史的なモデルがまだできてないというか、これはこれから作っていくのが21世紀の1つの大きな課題ではないのかなと思います。

ですからその個人主義をやはり徹底的に貫徹していく時代というか、それをどう作っていくか。例えば社会福祉1つとっても、社会の制度をとっても、税制も含めて社会福祉の制度をとっても、個人が個人として自立して生きていけるという。今までは世帯単位といいますか、日本の場合は家族というのが1つの単位になって、そういったものに対してどうするかというのがあったと思いますが、むしろこれからは本当に、21世紀は個人を主体、これはグローバリゼーションの流れも1つのアイデンティティーといいますか、1つのきちっとした形を持つということと同じことだと思うのです。世界においても個人というものをどう確立して日本人としてどう生きていくかという、やはり個人が主体になる、そういう時代に21世紀はなると思います。

そのための周辺の制度をどう整えていくのかというのが、これから大きな国の政策の課題になっていくと思います。まだ個人中心といいますか、個人にシフトされるような政策がなされていないというのが今の現状だと思います。

齋藤 氏

はい、ありがとうございました。

では北川さん、お願いします。

北川 氏

戦後キャッチアップを目標にして、いわゆる発展途上国型の国づくりが見事に成功しましたが、今度は私どもは成熟した国家にふさわしい社会をどうやってつくり上げていくかということを、国づくりの基本に掲げないといけないのだろうと考えます。

例えば少子高齢と言いますけれども、現在は50歳を前提に社会制度が組まれておりますから、年金という問題を一体どうするか。あるいはこれまでは子供の方が親よりも数が多いという前提ですが、この前提が変わったときに生じる問題をどう解決するかということが非常に遅れていて、旧来型のシステムを温存しようという人たちはそこから脱却しきれていない。したがって成熟した社会というものをどうつくり上げていくかということが今とても重要なことですから、ここでもうパラダイムシフトが起きなければいけないのでしょう。

あるいはキャッチアップの時代というのは、1つの右肩上がりというパラダイムの中ですから、大きいところへ入れば絶対有利だとか、官僚になれば絶対有利だということで、問題発見能力とか解決能力、独創性が優れた子供よりも、英、数、国、社、理で80点以上をとれる平均点が一番いい子供、そういう無難に管理できる子供が絶対的に有利になり偏差値教育に繋がる。偏差値教育はだんだん下へおりていって保育園から始まるようになる。そして不登校とかいじめとかそういった問題が、発展途上国型の社会から成熟した社会に変わる過程でどんどんあらわれてきているのではないか。あるいは私は三重県でございますが、かつて四日市市は公害の町として名をはせました。そのころ、私が中学生のころに、伸びゆく工業国家の象徴として黒い煙がぼうぼうに上がっている四日市の姿が社会科の教科書に載ったわけです。そのとき使われたのは公害という言葉です。公の害と書きました。すなわち生産こそが最優先であって、そこから発生するものは悪だと、害だとこうなったのですが、1970年の公害国会以降、2000年の環境国会に至るまででどんどん変わってきて、環境という言葉が中心を占めるようになってきました。したがって環境に配慮しなければもう企業とか団体は存続し得ない。20世紀は環境に配慮していたのでは企業は存続し得なかったわけですが、21世紀はこのような価値の大転換を起こしていかなければいけないだろう。確かに経済は国民生活にとって最も重要な要素の一つなのですが、それがすべてということではなしに、本当に経済的価値以外の価値というものを我々は求めていかなければならない。ウィーン、ローマ、パリ、これらの都市が積み上げてきた文化の奥深さが東京にあるかと問われれば我々は反省をしなければいけないし、これから新しい文化価値創造をしていかなければいけないと考えます。

あるいは、世界へ日本から1,700〜1,800万人行って、そして日本に来られる方は470〜480万人。言葉の問題もあるかもわからないけれども、ローマやパリのような本当の魅力が東京には欠けているのではないか。我が国は所詮は軍事大国にはなれないわけですから環境大国になるとか、あるいはインテリジェントシティーをつくる。そして世界中の英知、技術の粋を集めて大実験を行い、すばらしい環境都市モデルを世界に発信する。日本が21世紀に生きる道はこういった科学技術立国でということを、国を挙げてお示しできればいいな、そういう日本になっていけばなと思います。今の日本の姿は、1つのシステムがずっと続き、制度がお互い複雑に絡み合って制度が制度を補完し合って、それががんじがらめになった姿です。右肩上がりでキャッチアップだ、そのためには成績優秀な子がいる、そうすると偏差値教育だ、教育ママだ。国全体でそういう具合に制度的に補完し合ってしまったのです。

今の日本の国は東京中心です。政治も経済も交通体系もそうです。最近は情報の面でも急速にそうなりつつあります。そうすると東京中心に全部制度的に補完し合う。すなわちこれが既得権益です。

今、全体最適社会をつくり直さなければいけませんから、今必要なのは改革よりは革命なのだと思っています。今、私たちは明治維新とか戦後の改革なんかとは次元の違う世界、我々人類始まって以来の大革命期にあるのです。そしてその革命期にあって、それをピンチととるかチャンスととるかということが大問題であって、私はチャンスととって新しい価値を創造していくべきだ、そのためには、東京から首都機能を移転するぐらいの馬力が国会になければ、この国は21世紀に大戦略国家として成り立っていけないと思います。そういうことを、実は国会で決議し法律で決めたわけですから、ぜひ5月には国会の責任においてきちっと決めてほしいというのが私の強い希望です。

齋藤 氏

猪口さん、どうぞ。

猪口 氏

そうですね、私先ほど幾つか言い漏らしましたこともあるのですが、今後の21世紀のシステムの姿、これを考えるときに、1つはやはりジェンダーのイクォリティー、男女平等が進むといいますか、女性の社会参画を進めていく、男女共同参画社会をつくっていくということがあると思うのです。

具体的にちょっとイメージしますと、新しい首都をつくったときに、そこでダブルジョブを夫婦で持つということはとても大変かなという感じがします。それだけのジョブオポチュニティーが経済中枢と切り離したときにそこで成立するのだろうか。そのことを考えるとそこはもう単身赴任の都市になってしまう危険性もあって、そういうことを考えると総合的に新しい町をつくるなどということを、そもそも人間がやり得るということ自身がとても不遜な感じもするのです。そういうふうに人工的につくって、そこが成熟した多機能都市として発展していくのにどれほどの時間がかかるだろう。そしてその間の人々の生活というのは一体どんなものになるのだろう。

あと環境の問題、既に議論に出ましたけれども、やはり環境重視の時代ですので、経済中枢とまた別の新しい首都ができるということであれば、その間の交通を相当パワーアップしなければならず、単に初期の建設コストがかかるだけでなく、末永く往復の費用もかかるし、その環境負荷も大きい。21世紀の国家のあり方ということを考えるとき、できるだけパーシモニアスという表現でよく言うのですけれども、節約的でなければだめだと思います。人の時間も環境コストも節約して暮らせるようなものというのは、一体どういう形なのかということを考えなければならず、そのすべてに負荷がかかるようなことを計画することは余り現実的ではないというふうに思うわけです。

ほかの国の場合、先ほどブラジリアのことを言いましたけれども、もちろんドイツの場合はこれは冷戦期でドイツが分断されて、もともとの首都が東ドイツ側の中に入ってしまい、ベルリンをまた分断して使っていたわけですけれども、さすがにそこを首都のままにすることにするということについては不安があるので、ボンをやむを得ずつくって冷戦が終わって分断国家統一という悲願が果たされた今日においてはベルリンに首都を戻していく。

だからやはりどの国をみても、もうやむを得ないもの凄い事情があって移したのですよね。先ほど挙げたブラジリアの例を挙げればそういった奥地に作って、くぎ1本まで飛行機で運ぶということで首都を建設するわけです。どんなに負担がかかったってやろうという、そういう理由があるでしょう。その負担は甘受したのですよ。その後ブラジルは何十年にもわたって猛烈なインフレを経験し、経済は事実上破綻していた時期があります。何十年にもわたるその国家として、少なくとも経済面から見ればかなりの低迷を覚悟して、それでも先ほど申し上げたような理由から自分たちの手で作るということを考えたということなので、そこまでの理由が今回の場合あるか。やはりいろいろ疑問に思うこと多いと思います。

齋藤 氏

はい、北川さんどうぞ。

北川 氏

この首都機能移転の議論は東京と次の首都との比較考量ではありません。まさにこの国をどうするかという議論なのです。

したがってこの国をつくっていくときに、例えば地方分権ですが、恐らく三重県の道路の予算はどうなって、補助金がどうなって、交付税はどうなって、技術的にはどうなってというそういうことについて地方分権が実現して国が全くさわらなくなったら、国家公務員の方は恐らく今の何分の1で間に合うわけです。そういう新たな社会を築き上げるための改革と並行して、あるいはその集大成として首都機能移転を捉えるべきなのです。現在は東京が首都だという前提でみんな動いていらっしゃいますけれども、移転によりそれを打破して、この国のあり方というものを成熟した社会にふさわしい形に変える。あるいはこれからは国民に満足いただく政治以外に、サプライサイドの政治なんていうのはもうあり得なくなると考えていますが、首都機能の移転を通じて一つの象徴としてこれを実現する、そういう国づくりの議論ですから、東京と次の首都との比較とは全く違うわけでございます。

なお、私は三重・畿央の関係の知事ではありますけれども、3候補地どこに決まろうと一切文句を言うつもりはありません。それは客観的に国会の中でお決めをいただければいいと思います。そして、東京一極集中、集権官治という現在の国のあり方と首都機能移転によって築き上げていく新たな国のあり方を比較考量することは、やはり非常に大切なことだと僕は思います。そしてその結果、この国をどうするかということについて国民的大議論が生まれてくればいいなと、21世紀に骨太の力強い国として我が国をもう1回つくり直そうという、明治維新や戦後にもっていた勇気とか情熱がわいてくればいいなと、そんな感じで申し上げているんです。

奥谷 氏

今、北川さんのおっしゃっていることというのは、首都機能の規模が確定せずにただ五、六十万の都市をつくって、そこで情熱とパワーで何かが出てくるんだという、何というかバーチャルなものを考えて、そこで現実的なものを引っ張ってくるんだというのは、ちょっと違うのではないのかなという、先に情熱ありきみたいなところでやっていくというのは、かなり危険があるのではないのかという気がするのですが。

北川 氏

この議論は決してバーチャルなものではありません。首都機能都市の規模にしても、行財政改革や地方分権などの国政の諸改革の進展を前提とした中央の機構のあり方や規模等から、50〜60万人程度と想定されているのです。これらを話すと長くなりますのでここではお話ししませんが、審議会等で相当積み上げられ、煮詰まった議論なのです。

奥谷 氏

では今やっている構造改革がきちんとした形で推し進んでいけば、あえてそうやって50万、60万というような都市をつくる必要性というのはあるのかなというように思います。

北川 氏

全体最適社会を築き上げようというときに、部分的な改革を行うだけで本当に実現できるでしょうか。全部つくり直さないと不可能です。今まで我が国は政治も経済もサプライサイド、供給の側の視点で社会を築いてきましたが、これからは、まさにカスタマー・サティスファクション、すなわち消費者満足、顧客満足を実現していかなければならないと私は考えています。

したがって、そういうことをしていくときに、本当に既得権益の固まり、象徴である東京で頑張っても、ペリー来航以来の徳川幕府の15年間と同じことになるのではないかと思うのです。東京と最終的に比較考量して結論を出すわけですから、国会に大議論を起こす情熱を持っていただきたい。もう世界は動いているんですから。北欧なんかは、アメリカが9月11日にテロを受けた時にどうしたらいいか、この大不況をどうしたらいいか、大戦略を考えています。日本だけが本当にのほほんとした国で、今の形のままでいいのでしょうか。中央の方が三重県の道路はどうだとかあれはどうだとか、私の言うことをきかなければなんてそんなことをやっていて、本当にいいんでしょうか。今まさに国のあり方について大議論を起こしていかないといけない。そういう雰囲気に国全体がなればなと、そういうことを思っているわけです。

齋藤 氏

まず、今お話にあった移転の規模なんですけれども、これは一応第1段階では10万人、最終的に行政機関がすべて移転した場合には56万人と、そういう想定で今審議が行われているんですね。

堀 氏

さっきの猪口さんのポイントの1つなんだけれども、反対の理由の1つに効率が悪くなるという話があったと思うんですね。確かにそれはそれだけとるとおっしゃるとおりだと思います。それは一極集中すれば効率はいいですよ。ただ、効率がいいということの価値をどれだけ認めるかというのは、僕はかなり前世紀、20世紀的な発想だと思う。というのは、ものづくり、生産というものが圧倒的に重要なときは効率ということ、低コストということを考えなくてはいけないんですね。だけれども、いまや中国の方が同じものをつくったら安くできるんですよ、低コストで。

ということは、21世紀日本が意味のある生き残りをしようと思ったら、大ざっぱに言えば生産では生きられないわけです。生産でやるんだったら、僕ら月給1万円まで我慢しなければいけないわけだ。それはちょっと我慢できないわけだから。ということは、僕らは研究とか開発とか、そちらより付加価値の高いところ、そこで生き残っていくしかないわけですね。そういうような付加価値の高いところの世界というのは、効率かというと効率ではないんです。ソクラテスという奴隷を持っていた人は、ムチをたたいて哲学を生み出したのではないんですね。むしろソクラテスを自由にさせることによってソクラテスは偉大な哲学を生むんですね。同じように、人体のように大脳というところに1カ所に脳の機能がたまると、これは非常に効率のいい生物体はできるんですけれども、クリエイティブになるかというと案外そうではない。

ちょっと動物に例えると、余りイメージよくないんだけれども、多節動物というのがいるんですよ、ミミズとかゲジゲジとかそういうたぐいなんだけれども、これはちょん切っても生きていくわけですよ。何で生きていけるかといったらいろいろな理由があるんだけれども、要は分節脳になっているわけですよ。体の中に脳が幾つかあるから、脳のあるところは生きていけるわけですね。そういうことを考えると、これから僕たちはオーソドックスな世界の工場、アメリカの工場としてはやっていけないことは確かで、多種多様な知恵が出て、少なくとも中国人がすぐまねして同じものをもっと安くできますよというのでは生きていけないというのがわかるとなると、これはいろいろな人が知恵を絞らなくてはいけないわけです。そのときに、霞が関だけが知恵を絞る、東京だけの知恵で本当に1億2,000万人が食べていけるんだろうかと、これは僕の大いなる疑問なんですね。

そういう意味では、私は今までのような効率第一主義ではなくて、あえて言葉で対比させれば効果第一主義ね。英語で言えばエフィシェンシーという効率ではなくてエフェクティブネスという効果ということでものを考えなくてはいけないと思います。戦後50数年、我々はもう効率効率と言ってきたわけですよ。それで今行き詰まっているわけです。ここらで発想の転換をして、効果ということから考えないと21世紀型に生きられないんだということを考えると、東京一極集中が持つ効率は認めますけれども、本当に効果ということでいろいろな知恵が出てくるんですかと。私は違うと思います。もうちょっと情報の発信基地があちこちに分散することによって、かえって総合的に日本の知恵というのが高くなるのではないかと、こう思うわけですね。

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