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江戸時代の地方都市にあった活気を取り戻す首都機能移転

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山本 博文氏の写真山本 博文氏 東京大学史料編纂所 教授

1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。

江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。

主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。


<要約>

  • 江戸時代初期の首都機能は江戸と上方に分散していた。新しい王権と伝統的な王権とが並立して、二つの王権の首都が江戸と京都に一つずつあったのが江戸時代である。
  • 江戸幕府は、地方の大名に独立した権力を与えるという「地方分権」と、参勤交代や強い監視による「中央集権」という両面から非常に効果的な統治をしていたといえる。
  • 参勤交代などによる人の動きによって地方都市が栄えたことは、江戸時代の大きな特徴である。現代の地方の空洞化を首都機能移転に絡めてどう是正していくかについて、江戸時代の体制も参考になる部分があると思う。
  • 江戸時代は、幕府の権力が強かったため、災害時に幕府の機能を移転する必要が生じたとしても融通がきいたと思うが、現代ではそのようなわけにはいかない。江戸城の本丸と西の丸のように、あらかじめ、代替施設を考えておく必要があるのではないか。
  • 明治維新後の版籍奉還で藩の権限をすべて中央に戻すという革命的な出来事の中で、武士階級にはあくまで私(わたくし)にこだわらないという武士道の徳目が共有されていたと考えられる。
  • 江戸時代には活気のあった地方都市の衰退の問題、地方をどう元気にするかという問題を首都機能移転等の動きとあわせて考えていくことが必要なのではないか。たとえば、複数の地方都市持ち回りで国会を開くという試みも可能ではないか。

江戸時代初期の首都機能は江戸と上方に分散

私は、江戸時代には朝廷と幕府という二つの王権があったと考えています。朝廷は京都にある伝統的な王権ですが、それに対して幕府は、徳川家康が朝廷から征夷大将軍の位をもらって江戸幕府という政府を開きました。その政府の頂点にいたのが将軍ということになります。将軍は、武士階級の棟梁という位置づけですから、武士たちにとっては、幕府あるいは将軍が主人となります。

幕府は外交権、行政権、徴税権を握っており、朝廷に残る権限は官位を任命するぐらいでしたが、これも幕府が主導で、幕府の任命を追認する、あるいはその官位に任命したという証明書を出すという程度の存在でした。幕府の首都は江戸で、朝廷の首都は京都でしたが、政治の中心は江戸でした。

2つの首都の関係については、いくつかの視点から見比べることができます。朝廷と幕府の政治的な関係からみると、2代将軍秀忠までは、むしろ京都が中心だったと言うこともできます。秀忠は、必ず上洛(京都に入ること)し、朝廷へあいさつしてから重要な政策を打ち出しています。秀忠の没後、3代将軍家光が寛永11年(1634年)に上洛しますが、それ以降徳川将軍は、幕末の危機の時代になる14代将軍の家茂まで上洛することはなくなります。すなわち、政治的には3代将軍家光以降、幕府が、名実ともに首都機能を担うことになったことがわかります。

江戸時代の中期、元禄時代までは、上方(かみがた)の方が文化的には江戸よりもはるかに高いレベルを持っていました。京都で室町幕府が長く続いたことによる歴史的な背景から、伝統的な工芸品の生産については京都が中心地でした。ところが、中期以降は江戸に工芸品を含めさまざまな産業が集まるようになりました。大消費地である江戸近郊で生産した方が職人、商人ともに効率的であったためですが、この時期から文化の中心も上方から江戸へ移って行きました。

経済的には大坂と江戸の二つに中心がありました。当時の代表的な経済単位は「米」ですが、東北の日本海側の米は舟運で大阪に輸送されました。これは太平洋側の舟運が非常に危険であったためですが、そのため、大坂も経済の中心の一部になっていたわけです。また当時は、「江戸に下らないものはつまらない」という言い方がされていました。下るものというのは、大坂や京都から江戸に来るものです。上方が上で江戸は下ということです。この上方が中心であった時代が5代将軍のころまで続きました。

このように、江戸幕府が始まってすぐに江戸が日本の中心になったのではなく、幕府の統治機能や江戸の首都機能、経済基盤が整備されるにつれ徐々に上方からシフトしてきたと考えていいと思います。時代を経て、明治維新により天皇中心の国家体制をつくることになりましたが、江戸時代末期には江戸の首都機能がしっかりと確立していましたので京都に首都を移転するという動きにはならず、天皇が江戸(東京)に移ることになりました。明治の国政担当者は、首都分散ではなく東京1箇所に集中することによって日本全国の安定を実現するという方策をとったのだと思います。

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江戸の幕藩体制と幕府の官僚機構

江戸幕府の統治は、将軍と大名(1万石以上の武士)との主従関係に支えられていました。そして、大名の所領と人民とその行政組織を合わせて「藩」と呼び、大名は、それぞれの藩の統治をまかされて、将軍に忠誠を尽くし軍役の義務を負います。このような主従関係をもとに、幕府と藩とで全国の土地と人民を治める体制、これが幕藩体制であり、江戸幕府の統治の基本的な仕組みといえます。

幕府の官僚機構については、監察機構を本質としていたと表現しても良いと思います。大名を監察するのが「老中」、それ以下の旗本・御家人を監察するのが「若年寄」、朝廷・西国を監察するためには「京都所司代」という役職がありました。若年寄の配下に「目付(めつけ)」と呼ばれる役職があります。目付は旗本のエリートであり、老中の指示で江戸市中や地方の動静を探っていました。また、将軍にも、御庭番(おにわばん)という諜報組織があり、将軍には彼らを介して上がってくる情報と老中、若年寄、目付を介して上がる情報の二つが集中する仕組みになっていました。

地方にある幕府の直轄都市には京都町奉行、長崎奉行などの遠国奉行がおかれ、それ以外の幕府の領地には勘定奉行配下の郡代や代官が派遣され、徴税と司法を担っていました。江戸時代には二百数十の藩があり、いわば日本全国に小さな国家が分立しているようなものでしたが、その中の要所、要所に幕府の領地があって、機能的に全国を統治しているのが幕府の官僚機構だったといえます。

藩については、現在の県規模の外様国持大名の藩が約20ありました。そのほかに御三家等の親藩大名がおり、10万石以上の大名の藩は約50ありました。また、3万石以上の大名は城を持つことができましたので、この規模以上の大名が、実質的に一定の機能を持つ都市の統治を行っていたことになります。彼らは、城下町を含め広範な自治権を持っていましたが、これは単に行政権のみを指すのではなく、立法権、司法権、徴税権をも併せ持つ非常に大きな権力でした。現在では所得税は国税になっていますが、当時は基本的に幕府が藩に税金をかけることはなく、藩は自分の領地からの年貢はすべて使うことができました。

そのため、地方には元気があり、実際に自立してやっていける力を持っていました。城下町は、藩の商業や流通の中心地として発展しましたし、港町や宿場町も現在では想像もできないほどににぎわっていました。

これを経済的に見れば、江戸城下は、参勤交代で滞在している諸藩の家臣たちが集まりますから非常に繁栄します。諸藩も国許に家臣を残しますので消費地としての城下町が自立できます。また、参勤交代で大勢の人数が行き来しますので、五街道から脇街道まで宿場が整備され各宿場も潤います。例えば、九州大名の参勤交代では船で瀬戸内海を大阪へ航行し、川船で京都へ向かい、それから東海道へ入り江戸を目指しました。これにより、港町も大勢の客を迎えることができて繁盛します。当時繁栄した瀬戸内海の港町などは現在当時の勢いはありませんが、参勤交代などによる人の動きによって全国の地方都市が栄えたことは、江戸時代の大きな特徴ではないかと思います。

江戸幕府は、このように大名に国許での広範な自治権を認める一方で、参勤交代という制度を課しました。地方の大名は国許で自由に暮らすことはできず、大名は嫡子として江戸で生まれ育って、幕府から大名に任命されてから初めて国許に帰ることができるようになります。そして、1年間国許で暮らすと、また、江戸に出てくるという生活をしていました。幕府は、地方の大名に独立した権力を与えるという「地方分権」と、参勤交代や強い監視による「中央集権」という両面から非常に効果的な統治をしていたことになります。

江戸時代においては、交通の前近代性が地域の活力を生むことに貢献しましたが、今は飛行機も新幹線もありますから、当然同じようにはなりません。ただ、江戸時代を見ている者からすると、現在の地方の空洞化を首都機能の移転に絡めてどのように是正するかなど、地方が元気になるためには、江戸時代の体制はある意味で参考になる部分もあるのではないかと思います。

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江戸の治安維持と災害への対応

当時の江戸の人口は約100万人程度でしたが、この百万都市の治安を守っていたのは、現代の警察業務に当たる町奉行所の同心だけでした。実際には、町奉行所は現在の東京都庁と警視庁と裁判所の役目も持っていましたが、行政に当たる部分を除く警察業務を担当する同心は、せいぜい南北の町奉行所合わせて12人にすぎません。岡引きや下引きと呼ばれる者を補助者として使って犯罪の捜査や犯人の検挙を行っていましたが、この規模では江戸の治安を守ることは実際には無理でした。

ではなぜ江戸の治安を200年以上も保てたかというと、民間委託のような形で町人から任命された町役人がいたからです。町名主などの町役人は、江戸に三人いた町年寄に統括され、個々の住民自治が非常にうまくいっていたから、実際の警察機構がそれほど強力でなくても、治安を維持することができたし、庶民にあまり不満も持たせないで日常を送らせることができたということです。

前近代の国家は、例えば、罪人への処置など非常に強圧的に見えますが、強圧的に抑えることだけでは実際にはうまくいきません。やはり個々の人間に、例えば江戸なら庶民に「将軍のおかげでこういう平和な暮らしが享受できる」という実感がないと、恐怖の支配体制だけでは治安をきちんと維持することはできません。そういう意味では住民自治を含めた行政のあり方が非常にうまくいっていたということなのでしょう。

しかし、幕末になると幕府に対する信頼が揺らいできました。その原因は黒船来航への対応など、日本の対外関係にあります。当時の人たちは、外国が来ること自体日本の弱みであり、恥であるというような意識を持っていましたし、幕府は外国に対して非常に強力な軍事力を持っていると思われていました。しかし、外国の使節が来ることを拒むことができない、彼らの要求に従って開国し、その後も譲歩を重ねざるを得ないという幕府の弱みがわかったときに、幕府の威信が揺らぎ、社会が変化したのです。そういうことがなければ、江戸の支配体制は相当長く続いていたと思われます。

災害時の危機管理という面から江戸時代を見ますと、たとえば、江戸では、大火が何度かあり、城下から出火し江戸城に燃え移ったこともありました。その時は、将軍は敷地内の紅葉山という建物から離れた広い場所に避難していたようです。また、江戸城焼失のときは、城は本丸だけではなく西の丸が堀を隔ててありましたので、西の丸で政務が行われました。当時は、あまり危機管理という意識はなく、たまたま西の丸があったからよかったのですが、もしこれがなかったら、とても困ったのではないかと思います。

一方、大名の場合は、上屋敷、中屋敷、下屋敷など複数の藩邸を持っていました。上屋敷に藩主が居住し、中屋敷は隠居あるいは自分の子供の住居、下屋敷は郊外につくった別荘であるといわれていますが、それだけではなく、江戸近郊の農民から土地を借り上げてつくった用心屋敷というものもあり、災害時には、それを使用していました。

また、当時は、幕府の権力が非常に強かったですから、江戸城がすべて焼けたとしても、大名家の屋敷に入るなどの融通がきいたと思います。しかし、現在では、首都機能の一部が災害時に急遽どこかに移動するということは難しいのではないでしょうか。昔は将軍が命令すれば人が動きましたが、今は民主国家ですので移転するまでにはかなり時間がかかるかもしれません。そういう面では江戸城の西の丸のように、もしものときには、そちらに移ることができる代替施設を考えておくことが必要ではないかと思います。

国の権力そのものは、江戸幕府より近代国家のほうがはるかに強いと思いますが、政府の都合で民間の財産を収用することはできにくいでしょう。江戸時代のいわゆる封建的な権力のほうが、公共の政策、危機管理面などを実現するのは容易です。例えば、明暦の大火で江戸のかなりの部分が焼失したときは、上野の土地を収用して広小路をつくるなど江戸の各所に空き地をつくりました。江戸時代は公共のためであれば、非常に強制力のある政策を打ち出すことができたのです。

現在は国のためといっても、少しでも私権を制限するようなことがあったら、それはもう大反対されるでしょう。それはある意味では当然だと思いますし、個々人の権利を守ることなので非常にいいことですが、住民の側にも公共心が必要だと思います。

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公共心と武士道との関係

江戸時代の武士には、死ぬことに対する潔さが見られます。江戸時代には大変多くの人が切腹しました。どうして切腹するかというと責任をとるためです。自分が悪いことをした責任はもちろん、政治的な失策やあるいは自分の落ち度とも言えないようなことでも切腹しました。例えば、経済改革に失敗したから結果責任として腹を切って死ななければならないということがありました。切腹が1つの要素となって、非常に高い倫理性や、自分の行動に対する注意深さが武士階級の中で培われたと考えられます。

これらは日本人の美徳でもありますが、死ねば済むというようなあきらめ、責任感のなさにもつながってくるという悪い面も持っているでしょう。このような日本人的あるいは武士的な行動、メンタリティーが日本人の支配階級の特徴であると思います。死んで責任をとるが、逆にその失敗は後に生かされず、何度も同じ失敗を繰り返すことにもつながります。

一方で、明治維新は本来下級武士の革命であったはずが、ごく一部の中心的に働いた人たちが明治の高官になっただけで、金録公債が支給されたとはいえ、多くの武士は支配階級の地位を捨てたのです。また、各藩主はその支配権はすべて朝廷に返す形で、ある意味では政治的な自分の財産をあっさり放棄するわけです。もちろんその背景には藩の財政が非常に厳しいなどの問題はありました。

しかし、この動きにはやはり外国に負けない強力な国家をつくるという新旧支配層の間での合意があったのだと考えられます。国家のためには自分たちもそれに協力しようという意識があったからこそ、版籍奉還で藩の権限をすべて中央に戻すという革命的な出来事が行われたのだと思います。武士階級にはあくまで私(わたくし)にこだわらないという武士道の徳目が共有されていたのではないでしょうか。

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地方都市が持ち回りで国会を開く可能性

首都機能の移転そのものも意味があるとは思いますが、首都機能移転の最初の契機となった地価高騰などは、バブルが崩壊してある程度おさまっているし、少子化の影響でますます都市の過密問題は沈静化する可能性もあるだろうと思います。

むしろ日本として考えなければいけないのは、江戸時代には活気のあった地方都市が衰退していっていることでしょう。かなり大きな地方都市でも「シャッター商店街」があるという問題が出てきています。もちろん規制緩和の影響で郊外に大きな店舗ができて住民がそこへ車で買い物に行くといったこともあるでしょうが、それ以外にも衰退していく理由があると思います。地方都市衰退の問題、地方をどう元気にするかを首都機能移転等の動きとあわせて考えていくことが必要なのではないでしょうか。

たとえば、首都機能の移転に準ずる政策として、個々の自治体が活性化するようなやり方、例えば複数の地方都市持ち回りで国会を開くというような試みも可能ではないでしょうか。もし、実施するとなると国会議員、官僚ともども一緒に移動する必要がありますから、関係者にとっては大変かもしれませんが、これによって地方が活性化し、多額のお金も地方に落ちます。地方にできている新しい施設で本会議を開けばいいのです。そうすると、国会が開催される地方の現実が国会議員に届くという利点も出てくるのではないでしょうか。日本全体を均等に発展させることはなかなか難しいかもしれませんが、あまりにさびれて過疎化する地域ばかりが増大し、東京や一部の地域だけに集中することのないような政策をぜひ考えていただきたいと思います。

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