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平野 次郎氏 ジャーナリスト・学習院女子大学特別専任教授
1940年東京都生まれ。国際基督教大学卒業。米国留学後NHKに放送記者として入局。横浜、東京、ワシントン、ジュネーブ、ロンドンに勤務。報道番組やスペシャル番組などのキャスターをつとめたのち解説委員。2000年に学習院女子大学特別専任教授に就任。時事問題の評論活動のほか、文部科学省独立行政法人評価委員会委員、環境省容器包装廃棄物抑制推進員などを務めている。
<要約>
私は首都機能の移転論議には三つの背景があり、それらが複合的に働いて移転論議が盛り上がりを見せたのではないかと思っています。
一つは東京の過密への配慮です。政治・経済あるいは社会問題も全て東京に一極集中し、息苦しさが増していました。その息苦しさを少しでも解消するために、機能を分散させようというのが一つ。二つ目は計画当初は行政改革という言葉はまだなかったかもしれませんが、行政の簡素化です。そして三つ目は経済の活性化です。首都機能の移転は、人や物の移転を伴うので当然お金も動きます。
経済の活性化については、バブルが弾けてからは、無駄なお金は使えないという考え方が主流になってきました。過密への配慮については建物の高層化とか道路の拡幅などによって解消できます。そしてこれが多分一番大きな点だと思いますが、行政改革もあまり悠長に構えていられないという風潮が広まってきました。そうして国会等の移転論議の風向きが変わり、現在のような休眠状態になったのではないでしょうか。
では、私は国会等の移転について賛成か反対かと問われると、いわゆる総論で賛成、各論で反対に近い考えです。
最近、東北のある県に行ったときに、地元の人が「ここには雪と貧乏しかありません」と言っていましたが、東京と比べると自然は豊かで食べ物は美味しいし、広い家に住んでいて、そういう意味でよほど豊かだと思います。しかし、地方にいれば仕事がなく、仕事を得るには東京に行かなければいけません。地方にも何とか仕事を作らなければいけませんが、現状では大きい単位の仕事はあまりありません。私は文部科学省関係の仕事をいろいろしていますが、国立や旧帝大も含めて地方の大学の実力が一層低下していることを感じます。それは若い人がみんな東京へ出てしまうからです。日本人の心理のどこかにまだ「寄らば大樹の蔭」とか、「長い物には巻かれよ」という気持ちがあって、東京に近ければ近いほど安心感を持つという現実もあるのでしょう。
一方、各論の部分についていえば、賛成しかねるということではなく、本当に機能し得るのか疑問ということです。私も中央官庁から求められて委員会の委員を務めていますが、それは私が都内に住んでいて東京で会議が開かれるから出席できるのです。私は都内の大学で授業を教えていますので、午前中の授業が終わってからでも午後の政府の会議に出席できます。しかし、会議を遠方の他都市で開催するとなると、授業を休講にしなければなりません。本業を大切にしなければいけない立場からするとそれは無理な話です。
政府の審議会や委員会には、大学の先生や企業の人がたくさん参加していますが、その人たちの移動のことを考えると、首都機能移転をすると委員会を開催できなくなる危険性もあるのではないかというのが、各論の部分で難しいと考えた理由の一つです。
そもそも日本の政治と経済の中心が東京に集中したのはどういう背景によるのでしょうか。昔は政治の中心が江戸で、精神的な中心が京都にあっても、誰も不思議に感じませんでした。江戸と京都は東海道をはじめとして人の往来がありましたから、それなりに活性化された面がありましたが、明治の時代になってからは、何か一方通行になってしまったような感じがします。あの頃の日本の指導者たちは、東京にヨーロッパを持ち込もうと考え、ヨーロッパ風の建物を建てたり、鹿鳴館でダンスパーティーを開いたりしたわけです。欧米に追いつこうという熱心さが、結果として東京一極集中を生み出すことにつながっていったのではないでしょうか。
東京で木曜日に発売される週刊誌が、福岡や札幌だと金曜日にならないと買えないことをご存知でしょうか。出版物はどこで印刷されても、いったん東京を経由して全国に流通する仕組みになっています。それは、第二次世界大戦中、当時の商工省(現在の経済産業省)が中心になり、日本を活力ある国家にするために、東京が頭脳になり地方は手足となるようにした政策上の理由によるものです。また、様々な業界団体の全国組織を作らせてその本部を東京に置くことで、東京で出された指令を受けて地方が動く仕組みが出来上がりました。
その仕組みは戦後も解体されずに、日本の復興に貢献してきましたが、復興後もそのスタイルだけが踏襲されてきたのです。したがって、週刊誌の例に見られるように、ある意味で地域間の格差ができてしまいました。その仕組み自体は今では必要ではなくなり、なおかつ製造部門が地方に分散している現状では、わざわざ東京を経由して流通部門に乗せなければいけないなどというのは愚かな発想です。
東京の一極集中を緩和するには、税制を初めとするさまざまなやり方で、東京にいなくてもいいようなお膳立てをする必要があると思います。その具体的な方策の一つが、自治体ごとに異なる税率の設定です。例えばオーストラリアでは州によって所得税の税率が異なります。それを踏まえて自分が住む州をいろいろ判断して決めることができるわけです。もうリタイアしてしまったから、不便でも税率の低いところに引っ越すとか、自分はまだ現役で大都会に近いところにいないといけないから、少し税率が高くても大都会に住む、といった選択ができます。
しかし日本の場合はそれがありません。住民税で若干の差はついても基本的には地域によって税金面での違いはありません。それは行政が国民に対して等しいサービスを届けるのが務めだというふうにずっと信じて、そのとおりやってきたからです。ここ数年になって特区とかいろいろ出てきましたが、それをもっと明確にして国民が選択できるようにすれば、国民が移動することによって自ずといろいろな機能が各地へ分散していくことでしょう。
東京への一極集中を緩和させることは国際競争力の低下につながると懸念する人もいるかも知れませんが私はそうは思いません。アメリカの資産家番付で、ニューヨークに在住する人は一人もいないのではないでしょうか。日本の資産家も同様で番付の上位に名前が挙がる人は東京にはあまりいません。ですから、東京への一極集中の緩和によって競争力が落ちることにはならないと思います。日本の国際競争力が低下している最大の理由は、日本の労働賃金が相対的に高くなったからです。中国のある縫製工場の従業員の給料は月1万円ほどですが、日本で同じ仕事をする人は大体月30〜40万円の給料をもらいます。そういった積み重ねが競争力に反映していると考えられます。かつて日本が大きな競争力を持って、アメリカを追い上げていった時代と同じような現象が、今度は日本が追い上げられる側になって展開しているのです。
経済的な中心地と政治的な中心地が分かれている国は、自然発生的に町ができたヨーロッパの国より、どちらかというと新興国とか人工的に都市が開発された国が多いでしょう。ロンドン、パリ、マドリードはそれぞれの国における一大中心都市ですし、ドイツの場合は、東西分割の時代に一時期仮首都でボンに移りましたが、ベルリンもドイツの中心地であるとともに政治の中心地です。このように自然発生的にでき上がった国では、一番大きな都市が政治の中心地で、なおかつ経済及び文化の中心地になるのが自然の成り行きであり、日本もどちらかというとそれに近いといえます。
東京は自然発生的な都市ということでは同類項ですが、ロンドンやパリと東京の最大の違いは、しっかりした都市計画に基づいて作られた都市であるかどうかということです。ロンドンもパリも、きちんとした都市計画のもとで環状道路が整備されています。一方、東京の場合は「3環状9放射」(注1)とか言っていますが、まだ実現に至っていません。そういう意味で東京は無秩序の中で発展し続けてきた首都で、ロンドン、パリというのは秩序の中で発展し続けてきた首都という言い方ができるのではないでしょうか。
首都機能というのは国会だけなのか、行政官庁全部なのか、行政官庁の一部なのか、あるいはその他のことも含めてなのかが分かりにくいですね。国会と三権の中枢部というようなことで定義されていても、三権の中枢部とは事務部門だけなのか。例えば、最高裁判所の裁判はどうなのでしょうか。裁判に被告人も行かなければいけないとすると、遠方から連れていくのか、代用監獄を作るのか、といった話にもなってきます。
では、首都とは一体何なのでしょう。首都とは、その国の政府が置かれた場所ということですね。その政府が置かれた場所というのは極めてシンボリックなことですが、東京がいいのか、それ以外の地がいいのかというときには、ネーミングの問題とも絡んでくるでしょう。
日本の関西では、東京を日本の仮の首都だと思っている人が大勢いるように、もっと複眼的に国家構造を考えてもいいのではないでしょうか。例えば、エジプトの首都はカイロですが、夏の間はアレキサンドリアが首都機能を持ちます。アレキサンドリアは地中海に面した町で、カイロに比べてとても住みやすく、文化も少し異なる街ですが、夏の暑い時期が来ると政治家に限らずビジネスマンも含めてみんなアレキサンドリアに移ってしまいます。
アメリカ合衆国の首都のワシントンD.C.が肥大化したのは、ニューディール(注2)の後、第二次世界大戦期に入ってからですが、それでも夏になると大統領は事実上首都機能を伴って、地元に帰ります。ニクソンの場合はサンクレメンテ、レーガンの場合も西海岸、ブッシュの場合はテキサスの自分の牧場があるクロフォードといったように。日本もそのような柔軟性をもって、ある一時期だけでも首都機能を移動させるのもいいと思います。それは日本版の一種の首都機能移転ともいえるものになるでしょう。
(注1)東京外かく環状道路(外環)、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)、首都高速道路中央環状線(中央環状)を3環状。湾岸道路、第三京浜、東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道、東関東道(水戸線)、東関東道(館山線)を9放射と呼ぶ。
(注2)1933〜41年にかけて、米大統領フランクリン.D.ルーズベルトが大恐慌による不況の克服を目的として実施した一連の社会経済政策。失業者対策のための公共事業や金本位制からの離脱などの政策を行った。
これからの首都機能のあり方を考えるとき、政治と経済と文化を分けるというのが一つの考え方としてあり、政治の中でも立法と行政を分けるという考え方もあります。
アメリカの場合、政治の中心がワシントンで経済の中心がニューヨークですが、ニューヨーク州の州都はオールバニという田舎町ですし、サンフランシスコのあるカリフォルニア州の州都もサクラメントという都市で、そこからサンフランシスコに出るまで少し距離があります。もともとアメリカでは、最初に独立した13州の代表が条件の悪い土地にコロンビア特別区をつくり、合衆国の首都にしました。そうすることで中央政府が強大な権限を持たないだろうと考えたのですが、アメリカが比較的うまくいっているのは、立法府と行政府の間の分権がうまくいっているからです。アメリカでは、法律や条令をつくるのは議員たちで、行政府は議会から与えられたその権限を行使するという役割分担が明確化しています。日本の場合は、法律をつくるのは事実上ほとんど行政官ですから、そのあたりが首都機能を分ける上で難しいところといえるでしょう。その上学者が絡み、そういう人たちが密に接触をしていないと物事が進まないというのが日本の特徴だと思います。また、日本の場合は、アメリカと違って中央政府の力を削ぎにくい面もあります。政治と経済が分離するのは望ましいことですが、果たしてこれまで培ってきた日本の政治、行政、社会の文化や歴史に整合性を伴ってきちんと物事が運ぶのかどうか若干疑問があります。
1980年代の半ば頃に「ニューメディア」がしきりに取り上げられたことがありましたね。ファックスやコピー機といったニューメディアの機材を導入すれば地方でも在宅勤務が可能といわれましたが、それから20年ぐらい経った今も現実はそこまでいっていません。 それとは反対のこともあります。地方の県知事の方が、「仕事は東京にいなくてもできるが、東京に陳情に行かなければいけない」とよく言っていました。陳情は「情を陳(の)べる」と書くように、情が行政を円滑に進めていく部分もあって、人間関係も大切になります。東京の中央官庁に足を運び、「先日ファックスで送ったあの件をよろしくお願いします」と一言言うために地方と東京を往復しなければならないのです。それをしなければ日本の社会は動かない面があります。
確かにハード面では遠くにいてもできることがありますが、ソフト面ではやはり人の情が通じるように顔を合わせないといけないことがまだ残っています。そもそも、「みんな集まっていないといけない」ということ自体が日本人のDNAの中に組み込まれているのではないでしょうか。ペーパーレス化という言葉をよく聞きますが、コンピュータが普及してからペーパーはむしろ増えているように思いませんか。それは、ペーパーをもらう人ともらわない人との間に差ができてしまうからです。それは情報の差ではなくて、ペーパーをもらった人は仲間、もらっていない人は仲間外れとみなされるような傾向があるのです。ですから、一番安全なのはペーパーを多く刷って全員に配布することです。そうすれば誰からも文句が出ませんからね。日本ではなかなかドライにはいかないのです。
首都機能をどう定義するかはさておき、私は、首都機能は既に移転し始めていると考えています。その具体例が筑波です。筑波は研究学園都市となり、いろいろな研究機関の一部が筑波に移っています。
また、今後道州制がどうなるかわかりませんが、仮に道州制が採用されて地方に行政上の大きな権限が与えられることになれば、これはもう事実上の首都機能の分散といえるでしょう。首都機能の移転は、必ずしも一ヶ所に限定する必要はないかもしれませんね。分散という考えも移転の一つのあり方ですが、私は、首都機能移転が実現するとすれば、おそらく一カ所に全部移すというのではなく、分散の方向で進んでいくのではないかと思っています。今、移転に代わるものとして一日内閣やタウンミーティングを行っていますが、東京と地方の格差を是正するために夏の間だけ閣議は札幌でやるとか、半年はどこかでやって、残りの半年は別のどこかでやるというような持ち回りをするのもいいかもしれません。そうした場合、建物を使用しない時期も出てくることから効率上問題があるという話にもなり、難しいところです。
また、タウンミーティングなどを開催すると、往々にしてセレモニー的になってしまいますが、これは主催者側や参加者側の問題ではなく、日本人は形式をとても大切にする国民ゆえに生じる問題です。セレモニーになるとなかなか本音の部分が出てきにくいでしょうから、ウェブサイトを活用し、様々な政府広報を行うことも一つの方法でしょう。
公共放送のNHKのニュースを宮崎で視聴する場合、最初に東京のニュースがあって、その次に福岡のニュースがあって、その後で宮崎のニュースと、その系列順に順番が決まっています。しかし、地元の人は地元のニュースを一番に知りたいのです。このようにテレビのようなメディアでは、視聴者の関心とは無関係に情報を一方通行で流すという性質があります。最近はインターネットを通じたオンデマンド(注3)の仕組みが充実してきましたので、そのような情報のやりとりの関係は実際には崩れ始めています。要するに知りたいときに、知りたい人が、知りたい場所で、知りたい情報を手に入れることがもう事実上可能になっています。そうすると精神的、心理的な意味での首都機能移転は既にでき上がってしまっていて、インフラが後からついてくるということになるかもしれませんね。
(注3)顧客、ユーザーから要求があった時にサービス等を提供する方式
国土の均衡ある発展のためには、それなりに国土の改造をしなければいけません。世の中にお金はあっても、将来の不透明な見通しに対する不安から、国民が消費を控えています。お金は「御足(おあし)」ともいうように、走り回って初めて力を発揮するわけですが、国土の改造のためにお金を出すことを有権者が良しと考えるかどうかがポイントです。バブルが弾けてからは、「金は使うな、節約しろ」ということで、公務員の人件費も減らせという至上命令が出ていますが、そうした節約傾向が続いている間は大胆なことができないのではないかと思います。それでも、国としてのビジョンをはっきり示してくれるような政治家が出てくれば、国民は賛同するのではないでしょうか。
とくに、首都機能移転のような大きな計画の場合には、国がはっきりしたイニシアチブを取ることが必要不可欠です。国が号令をかけてこうしようと言ってくれれば、国民はついていきやすい。やはり国のしっかりしたプランとイニシアチブがあって、それに国民がついていくという方法が効率的には一番いいでしょう。
国の政策立案にあたっては、一番先頭を走っている人に照準を合わせるのか、それとも一番後ろの人や真ん中の人に合わせるのかという、照準設定が重要になります。一番先頭を走っている人に照準を合わせると、弱者切り捨てということになりかねませんし、一番後ろを走っている人に合わせると、後ろ向きだと言われます。そこのところが指導者の難しいところでしょう。あるときは先頭の人、あるときは最後の人に合わせたりと、緩急を織り交ぜつつ、優れた手腕を発揮することが指導者に求められます。国民は、この国を引っ張ってくれ、良くしてくれとお願いして国会議員を選ぶわけですから、国会議員は国民の負託に応えるようなアイデアを出して、国民にそれを問いかけてほしいですね。
国が動き出すきっかけとして大きなイベントを開催することも考えられます。「愛・地球博」前後の名古屋に見た元気の良さは他に類を見ないほどでした。大阪万博はとても大きな波及効果がありましたし、「愛・地球博」も大阪万博まではいかなくても大きな波及効果がありました。首都機能移転に関しても、またそのようなイベントを開催するのもいいかもしれませんね。
先にウェブサイトの活用について触れましたが、やはりマスメディアの活用も重要です。マスメディアと国の関係を建前でいうと、マスメディアは権力の監視機関ですが、批判ばかりしていていいというものではありませんし、もう少し柔軟な対応、やり方が求められています。良くも悪くもマスメディアは常に新しいものに飛びつく性質がありますから、国の計画についても自分たちが好む場合にだけ飛びつきます。
一方で、昔の焼き直しのような計画には全然触手を動かさないところがあります。自分で買った本は読むけど、人から送られてくる本は読まないのと同じで、マスメディアは与えられることを嫌います。マスメディアが魅力を感じて飛びつくような情報をいかにして見つけ出すかがポイントになりますが、それは簡単ではありません。むしろ、首都機能移転を全面に押し出すのではなく、何でもないようなニュースの中で、視聴者に「あそこの地域ではこのような取り組みをしているのか。すごいな」と思わせ、間接的に首都機能移転への関心を高めるような広報の進め方がいいのではないでしょうか。